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まっすぐな「自分を好き」という感覚:軽井沢風越学園理事長本城慎之介さんとの対話

初めて私が本城慎之介さん(しんさん)にお会いしたのは、軽井沢風越学園(2020年4月開校、以降「風越」)の学校づくりをしんさんが10人ぐらいの仲間と進めていた2018年。

その時の印象は「なんだか大木のような人だなあ」でした。

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三木谷浩史さんと一緒に楽天を創業して楽天市場をつくり学校をつくりたいと言って30歳で楽天の副社長を辞めた人、ということで、ぐいぐいとしたエネルギーを持った方なのかな、と想像していましたが、全然違いました。

しんさんの中で流れている時間がとてもゆったりしている。とても長いスパンで物事を捉えつつ、今ここにいる。枝を伸ばし葉をつけながらも、同時にしっかりと大地に根を張っている。

自分で時間を決めているはずなのに、自分を時間に合わせて忙しなく過ごしている、というのが現代社会のあり方だけれど、そういう社会のペースにも全く動じず、自然の時間軸がしんさんの中にある。だから一緒にいると、自分の中の時間も少しだけ自然のリズムを取り戻せる。そんな感じを受けました。

その後、しんさんをはじめとする風越の学校づくりチームとのご縁が深まるにつれ、この人たちがつくる学校に関われたらすごく面白そうだなあ、と思うようになりました。そして、家族ごと軽井沢に移住。娘は風越で幼小中の12年を過ごす第一期生になり、私は時々学校運営に関わり、ふと気づけば夫は風越のスタッフになり......家族丸ごと風越、という日々を送っています。

風越でのしんさんは、学園の情景に完全に溶け込んでいます。幼稚園の娘にとって、しんさんは「(いつも自分たちが遊んでいる)もりのひと」。夫は開校初日に駐車場で車の誘導をしていたしんさんを用務員さんだと思ったそうです。風越の2年目が始まる前日、子どもたちが前年度につくっていた木の基地をせっせと片付けている人たちがいて、誰だろう、と近づいてみたら、しんさんと校長の岩瀬直樹さん(ごりさん)でした。「まだ外で遊ぶのに慣れていない新入生がこれで遊ぶと怪我するから」といって、冷たい風に吹かれながら二人で黙々と作業を続けていました。

これまで何度かしんさんにお話は伺っていました。「学校をつくりたい」といって創業した楽天を辞め、公立中学の校長を経て、東京で寮をつくるプロジェクトを進めていたこと。軽井沢に移住し、園舎がなく一年中一日中自然の中で遊び学ぶ幼稚園「森のようちえん ぴっぴ」に出会い、ぴっぴでの子どもの姿、そこを見守る大人のあり方に、これまで持っていた教育観が完全にひっくり返るような衝撃を受けたこと。寮づくりは一旦白紙に戻し、ぴっぴで一スタッフとして働き始め、ぴっぴを卒業した小学生への合宿プログラムなどを運営するようになったこと。そして、2016年初、やっぱり学校をつくりたい、という強い思いがあることを自分の中に確認し、風越の学校づくりが始まったこと。

楽天を辞める前までの話はあまり聞いたことがなかったのですが、学園の情景に溶け込んでいるしんさんを見ていると、「学校をつくりたい」以前のところに、もともとのしんさんの「かたち」みたいなのものがあるんじゃないかな、その「かたち」が何なのかを知りたいなあ、と思うようになりました。しんさんがどんな子供時代を過ごしたのか、どういうふうに遊び学んでいたのか、どんな大学生だったのか、なぜ楽天の創業に関わったのか...

あ、それならちょうどDHBR Fireside Chatがあるじゃないか!ということで、完全に個人的興味でお声がけさせていただきました。(なお、これまでのゲストもほぼ完全に個人的興味でお声がけしております。)

1時間のインタビューで、しんさんの「かたち」に、ほんのちょっとだけ近づけたような気がします。でも近づくほどにその豊かさ、面白さにになんだかよくわからなくなる、という感覚も同時に味わうインタビューとなりました。

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大自然とブロック遊び

家の前はサッカーコートが8面ぐらい取れる牧草地。50m先には鮭が遡上する川があって。山もすぐそこにある。

これがしんさんが幼少期の頃見ていた風景です。場所は、北海道の東の海沿いの位置する、音別町。

この雄大な自然の中で、しんさんは思いっきり遊んで過ごします。時には川に落ちたり、刃物で今も傷が残る大怪我をしたり、山火事を起こしかけたり。

中学校の時、映画の「ランボー」がテレビで放映されて、次の日みんなで「ランボーごっこをやろう」といって(いつも遊んでいる)山の中に入った。そうしたら不法投棄のごみ山に新品のカーオイルがあって、僕がライターで火をつけたら、ぼっと燃えて。さらにそれを僕が蹴った。そうしたら(オイルが地面に広がって)地面が燃えたんです。

これはやばい、となって、ゴミ山にあった布団をかけてみんなで踏みました。火は布団をかけて消すと聞いたことがあったから。もう大丈夫かな、と思って布団をめくったら、今度はその布団がぶわーって燃え上がって。その後、みんなでなんとか消して、夕方山を降りたのですが、そこにいた友達の一人のお父さんが消防団で、その話を聞いて大変だ、となりました。もう一度今度は親も一緒に水を持って山に入り水をかけてきた、ということがありました。

このまるで映画のワンシーンのような話を聞いて、ああ、いいなあ、と心から思いました。これこそ遊びであり学びだなあ、と。

自分たちの思いつきで遊び始める。思いつきを自由に羽ばたかせられるだけの空間がある。そこで火を使う。やばいことになる。それを自分たちなりにがんばって対応する。でもやっぱり子どもたちだけでは対応しきれてなかったのでそこは大人も一緒になって解決する。

でも、例えば今の都市部だと、互いに迷惑をかけないということが最優先され、ちょっとでもリスクがあることはすべて先回りして禁止されていて(公園では花火もボールを使った遊びもしてはだめ、とか)、子どもが自分たちの発想や遊びがどこまで広がるかを試すこともできないし、やらかしてから学ぶということもできない。しんさんも「自分はこういう遊びをたっぷりしてきた。そういうことが許されていた地域、時代、家庭、学校だった」と振り返っています。

一方、しんさんは、ひたすら野山を駆け巡っていたのかというと、そうではありませんでした。とにかく小さい頃からブロックが好きで、つくっては壊し、つくっては改善してまた壊す、というのを一人でひたすらやっていたそうです。それが楽しいので、友達が遊ぼうと誘いにきても「今ブロックつくっていて忙しいから」と断るほどだったとか。つくったブロックで遊ぶという発想はなく「つくること自体が遊び」というのは、その後のしんさんの中にも流れ続ける考え方なのではないか、と思いました。

「僕は天才ではなかった」

しんさんは中学で道東を離れ、全寮制の函館ラ・サール高校に進学します。それまでは学校ではいつも一番だったというしんさんですが、広い地域から優秀な学生が集まる進学校のラ・サールでは、成績は限りなく最下位となり、「僕は天才ではなかった」ことに気づきます。

これは結構よく聞く話です。そして大概、それで落ち込んだ、アイデンティティ・クライシスになった、何をしていいのかわからなくなった、という話が続きます。

ところがしんさんは違います。「自分のことが好きになった」と。

ん???自分は神童ではないどころか成績はほぼビリに近くて、そうしたら自分のことが好きになった?どういうこと?逆じゃないの?

どうしてそうなったのか聞いていくと、寮で同じ二段ベッドに寝ていた同級生の「本間香貴くん*」が重要な鍵を握っていることがわかりました。本間くんは頭がよくて人気者でリーダーシップもすごい。でもベッドから腐ったみかんが発見されるほど、とにかく生活はだらしない。

それまでしんさんは、頭がいい人はちゃんとしている人、だからちゃんとしていなければいけない、という思い込みがあった。でも、別にちゃんとしなくていい、ということを本間くんのおかげで、一緒に生活する中で知った。それでいろんなことがうまく回り出して、勉強もがんばれるようになったんだそうです。

人にはいろんな面があること、勉強はその一つの面にすぎないことを寮生活を通じて体感で知ったこと(教室だけならわからなかったかもしれません)。そして「ほんと変なやつでいっぱい」でカオスな学校の中でも、自分なりに過ごせる自分を知ったこと。それがより前向きなエネルギーにつながっていったのかな、と想像します。(と、書きながらまだ実は完全には腑に落ちてはいないのですが......)

*しんさんの人生を変えた「本間くん」は、現在東北大学大学院農学研究科教授でいらっしゃいます。

健全な「自分を好き」という感覚

高校卒業後は、開校2年目で、まだキャンパスの工事も終わっていなかった慶応SFCへ進学。学生もSFCという新しい文化づくりに主体的に関わっており、そこで新しい文化をつくることの面白さ、そしてその難しさを思いっきり味わいます。これはつまり「できあがったものに入っていくことのつまらなさ」を知ってしまった、ということでもあり、その後のしんさんの生き方に大きな影響を与えます。

また1990年代半ばのSFCはインターネット黎明期に日本のインターネットをつくっている人たちがいた場所。しんさんもインターネット上に就活日記「就職戦線、異常ありまくり」を開設、その日記を中心に就活生のオンラインコミュニティをつくるといったことをやり、インターネットがボトムアップで社会を変えていく手応えを得ていました。興銀を辞めてインターネットで起業をしていた三木谷さんと出会い衝撃を受け、次の日から三木谷さんと働き始め、楽天の創業メンバーとなります。楽天市場も、ブロックと同じように、つくっては壊し、改善しては壊し、を繰り返して、作り上げたとか。

その後、三木谷さんから学んだこと、5人(!)のお子さんの父親であるということ、ちょこっと今の風越のことなどを伺い、最後にしんさんに「インタビューを通じて湧き上がってきたことで、まだ話していないことがあれば、ぜひ」と聞いてみたところ、こんな答えが返ってきました。

なんで僕は自分のことがこんなに好きなんだろう、ということを思いました。自分に飽きない。興味関心が自分の中、自分の周りで起こっていることにあるなあ、と。どんなことがあってどんなことがなくて、こんなふうに育ってきたのか、ということを今日改めて思いました。

この「自分が好き」という感覚が、しんさんの「かたち」の核にあるのではないか、と思います。そしてこの感覚は、とにかくまっすぐで健全なのです。だからしんさんはだいたいはご機嫌でぶれなくてそこにいる。人と比較して焦ったり、社会や世界だどうだからこうしなくちゃと空回りしたりせず、自分のやることに腰を据えて向き合える。

それがゆえに、新しいコンセプトの学校をゼロからつくる、それを経営する、なんていう、とてつもなく大変なこと(そばで見ていて思いますが、学校の創設と経営ってもう本当に本当に大変なことなのです)をやれているし、やっていても全く気張らず、情景に溶け込んでいるんじゃないかな、と。

社会のため、子どものため、に引っ張られて動くのではなく、自分が好きだから、自分の中に何が起きているのかに常に軸足がある。だからこそ、社会にとってものすごく深いインパクトがあることが自ずと成し遂げられている。

願わくば、風越で幼少期を過ごす娘には、たっぷり遊んで、このまっすぐな「自分を好き」という感覚を育んでもらいたいなあ、と思うし、確実にその土壌が育まれているように見えます。この感覚さえ根っこにあれば、あとはどうにでもなる、どうにでもできる。


しんさんの言葉、語り口だからこそわかるしんさんの「かたち」。ぜひ音声でお楽しみください。以下のリンク、もしくはPodcastで "DHBR" で検索すると出てきます。

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Shinnosuke Honjo
1972年、北海道生まれ。学校法人軽井沢風越学園理事長。2033年3月(設立12年後、開校時の年少の子どもたちが9年生として卒業する時)に引退することを公言している。自分自身が40代で学園の経営に携わることができたので、可能な限り早めに次の世代にバトンを渡したいと思っている。いろいろなことをやってきてはいるが、やりたくないことは極力やらないように全力を尽くしている。







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