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野草をいかす、ということ

2020年3月に軽井沢に来て、気づけばそこらへんの野草をいけるようになっていました。個人向けのいけばなの場IKERUも、軽井沢では野草。また、毎週木曜日のお昼、野草と出会いそれをいける40分のNesto野草一会のリズムを主宰しており、凍てつき枯れきっている軽井沢の冬も週に一度は野草をいけています。

東京でかなり頻度高く個人・法人向けのIKERUをやっていた時は、花市場のお花を新鮮な状態で宅配で届けてくださるはなどんやさんから花を調達していました。自分が華道家として独立する前に通っていたいけばなのお稽古も、基本的には市場から買ったお花を使っていました。

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東京でのIKERUワークショップで使用したお花

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軽井沢IKERUの野草たち(写真:玉利康延)

野草と日常的に付き合ってきて約2年。野草でいけばなをするということの体感がゆったりと、言語化できるぐらいまで積み上がってきたので、ちょっとまとめてみたいと思います。

そのままの感覚だと花の声が聞こえない

野草と買ってきた草花は、植物という意味では同じですが、質的にかなり異なるものだということを、いける中で感じています。

市場の花は大半が栽培されたもの(割合は少ないですが自然に生えている木や草花も取引されています)です。栽培されているということは、すでにその花の成長の過程で、鑑賞したい、飾りたいなどの人間の願いが入り、その願いの実現のために、品種改良、肥料の工夫、間引き、農薬散布、ハウス栽培など様々な手間がかけられています。また、効率的な輸送のために、茎はほぼまっすぐに、長さも揃って出荷されます。

人の目から見てはっきりと美しく、そして使いやすい状態で手元に届くのです。「花の声を聞いてそれをいかす」のがいけばなですが、その花の声にすでに人の声が入っているという感じでしょうか。なので、いける側の人間としては、声がとても聞きやすい。

つまり、買ってきたお花は「こうしたら花がいきる」というストライクゾーンが広いのです。花と茎のバランスからこの角度と長さだと美しい、という幅がかなりある。いかしやすく、いけやすい。どうやってもきれいだから。

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一方、野草はその辺に自由に生えているものなので、人の思惑、人からどう見えるかなど知ったこっちゃない、です。まわりの野草と共存そして競争しつつ、季節や天候の恵みも脅威も受け入れて、野草それぞれの思惑でそこに生きている。

庭に生えている枝やお花をご近所の方にいただいて、ということもあるので、そうしたものにはお庭を手入れされている方の思いや手間が入っていますが、でも市場のお花より圧倒的にワイルドです。

なので、いつもの人間の感覚のまま接すると、野草の花の声は聞き取れません。茎もぐねぐね、花もあっちゃこっちゃ向いて、枯れたり黒くなっているところもあるし、この角度・長さなら花がいきると感じられるストライクゾーンがとても狭い。一言で言えば、いけるのが難しいのです。冬はひたすら枯れた草花をいけるので、さらに難易度があがります。

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野草の声の周波数にチューニングする

ぐーっと集中を深めて自分の身体のセンサーの精度を上げると、野草のストライクゾーンにちょっとずつ入り、そうすると野草の声が微かに聞こえてきます。

野草の微かな声に耳を傾けているうちに、自分の感覚が野草の周波数帯ともいうべきものにチューニングされて、だんだんと野草の声がはっきり聞こえるようになってきます。そうすると気づきます。野草って実ににぎやか!それぞれの物語をそれはそれは好き勝手にしゃべりまくっています。

英語でtamedという「飼い慣らされた」という単語があって、その逆はuntamedといいますが、野草はまさにそのuntamed。

(余談ですが2020年にアメリカで出版されたGlennon Doyleさんが書いたUntamedは、多くの女性たちが文化的社会的な規範の中で知らず知らずのうちに自分をtameしてきたと気づくきっかけを与え、大ベストセラーとなっています。)

賑やかで全く飼い慣らされていない野草をいかすというのは、好き勝手に踊りまくっている人たちのリズムや動きはそのままにいかしながら、自分もそこに入って新たなハーモニーを作り出すような感じです。一方、買ってきた栽培されたお花をいけるのは、長年ペアで踊るトレーニングをしてきたパートナーと組んで踊る、といったイメージです。なんか、全然違うんです。

野草をいけた後は、体当たりで野草とぶつかったような、全身で格闘したような、そんな感覚があります。

野草を採ることで野生が目覚める

もう一つの大きな違いが、お花を「買う」のと、野草を「採る」ことの違いです。買うということは、自分は消費者。資本主義サプライチェーンの一部となって、お金と交換にサービスを受け取ります。買うかどうか、何を買うかの選択はしますが、基本的に受動的。

一方、野草を採る時は、世界に対してより能動的にそしてダイレクトに関わります。どちらかというと原始的な世界に自分が戻る。これがなんだか生々しくて、社会的生活を送るためtameされた人間の野生が静かに目覚める感覚です。

とはいえ、野草を採ってくる時は、いけたいと思ったものを自分の野生のままにただ採るのではなく、場所や成長具合などから自分で「これは採ってもいいな」と冷静に判断したものだけを採ります。そのため、繁殖力が高すぎで要注意マークがついた外来植物や、混み合いすぎて互いの日照を奪っているような枝・つる類がおのずと多くなります。とににかく生命力がすごくてパワフルなんです。

あとは、ご近所の方に「ここのは自由に採ってね」と言ってくださっているものとか、枝や草を切っている方にがいたらその場でお願いしていただくとか。自分の感覚は野生に戻ったとしても、ここは所有権が存在し人が暮らす現代社会。だからこその人とのつながりを草花が結んでくれる面白さもあります。

これがいけばな、なのかも

自分の欲やエゴをいったん手放して無心で花の声に耳を澄ませる。そうすると自ずと花がいかされる。人間中心から花中心へ。これがいけばな。

買ってきた栽培されたお花だと、そこまで自分を手放さなくても、そこまで無心でなくても、花のほうがすでに人に近寄ってきてくれているので、花をいかすことができる。でも野草の場合、野草に自分を完全に受け渡さないと、その声が聞こえずいかすこともできない。その過程で無心にならざるをえなくなる。

無心になろうとしなくても、うまくいけたいと思うエゴを手放そうとしなくても、野草の力で気づけば無心になっている、エゴの入る余地などなくなっている。

人間社会の進化、産業の発達、人の意識の変化などを経て、美しいお花を手軽に買える時代になり、だからこそ可能になったいけばなの形があります。私も前より頻度は減りましたが、はなどんやさんのお花でいけばなすると、純粋に楽しく、こうした形のいけばなができることはなんて幸せなんだろうとしみじみします。

一方、野草を採っていけるということをしていると、いけばなの根源に触れている、そんな感じがあります。

こうやって言語化して改めてクリアになったのは、毎週木曜日に主宰している「Nesto野草一会のリズム」は、そうした根源の体験をお昼休みの時間に気軽に楽しく味わう場として、軽井沢での個人向け「野草をIKERU」は2時間半かけてどっぷりとその体験に浸かる場としてやっていたんだなあ、ということ。

個人向けレッスン、組織向けワークショップ、講演など、とてもアクティブにIKERUを展開していた東京時代に比べると、この2年はずいぶんと地味になりました。前の活動量に比べたら、ほぼ冬眠状態です。

でも野草のおかげで、都市生活をしながらのいけばな活動では決してつながりえない何か、いけばなの源にある何かにつながりつつあるのかもしれません...いや、単に冬眠しているだけかも...

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常緑の松を除いて全部枯れた草花でのいけばな

*ヘッダーの写真:本永創太



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