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フィルター越しの自分

NHK出版の『お経で読む仏教』を読んでいます。

24ページより引用

「私たちは「自分の都合」というフィルターを通して、物事を認識しています。つまり、物事を必ず歪めて認識しているわけです。そこに苦しみが発生すると考えるのが仏教の基本です。この自分の都合というフィルターを通さず、本質を見ることが、仏教の考える「智慧」です。」

ありのままに物事を見ることが大事、とよく聞きますが、それはほんとに難しいことだなあと感じます。例えば家が火事になったとして、「あ~なんか建物が燃えてるな~」とはならないです。実際には建物が燃えているだけやけど、ケガせんよう逃げなきゃ、せっかく良い立地で見つけたのに最悪、明日からどうしよう、ってなります。火事=不快、悲劇、って意味をつけます。私たちは、起こることに日々意味をつけながら生きています。そうじゃないと命の危険がある。フィルターは、自分の身を守るため、と言えると思います。関係妄想というのがあって、例えば私たちは逆三角形型の点3つを見ると瞬間的に「顔だ!」って思うそうです。それで素早く逃げたりする。人類は、現象と言葉(概念)を結びつける力のおかげで生き延びたという説があります。

仏教の話に戻ります。私たちには潜在的な煩悩(迷い)があり、そのひとつが生存欲求とされています。生きる意欲を煩悩扱い?仏教なんぼほど厳しいねん!てなります。でも一周回って優しいかも、ってなりました。つまり「私は生きている」ということがもう錯覚なのだから、生きてる実感ない~とか悩む必要は全くない、ということになるのです。私は、一番濃いフィルターは自分自身に対してあると感じています。かけがえのない私!という目で自分を見ています。だから、活躍させてあげたいと思う。でも、活躍って何だろう?考え出すと苦しくなるのです。ふつうに無事に、暮らしているのです。自分のことを、よくわからないイメージでもって特別扱いするから、よくわからない問題をつくって迷子になる。あるあるすぎる。

生きるって、フィルターをもつこと。それが引き起こす痛みと共に在ること。排除するのではなく、ただ認めていくことが大事なのだと感じました。

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