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【400/1096】自己肯定感は思い出すもの

400日目。400日も毎日書き続けているのですよ!!すごい。実のところ、続かないのでは?とずっと自分を疑っていた。毎日書いたって、誰も読んでくれないかもと思ってたし、書いたからなんだって言うんだ?と思ったりもしたし。
でも、400日続いたってすごい。えらい。自画自賛!目標の3分の1以上は過ぎてるぞ。


さて、今日は、自己肯定感について書いてみる。

自己肯定感とは何か?

はて、「自己肯定感」という言葉が流行りだしたのはいつからであろうか?と調べてみる。

1994年に臨床心理学者の高垣忠一郎(立命館大学名誉教授)が、「他人と共にありながら自分は自分であって大丈夫だ」という、他者に対する信頼と自分に対する信頼として提唱し、広まった。

自己肯定感Wikiより

ということらしい。
でも、自尊心、自己効力感、自己存在感などの言葉との定義の違いがあいまいで、人によって解釈が違うこともあり、ややこしい。
「自己肯定感が高い、低い」と言うときと、「自己評価が高い、低い」と言うときは、何がどう違うのか?
などと思うわけであるが、しかし、自己肯定感は社会でかなり流布している言葉だ。

文科省が「自己肯定感を高め、自らの手で未来を切り拓ひらく子供を育む教育の 実現に向けた、学校、家庭、地域の教育力の向上 」という提言を出しているほど、日本の子どもの自己肯定感が低いと危機感を持っているらしい。

とりあえず、ここでは、自己肯定感は高垣先生の提唱による「他人と共にありながら自分は自分であって大丈夫だ」であるとする。

自己肯定感など持てなかった

私の子ども、学生時代には「自己肯定感」などという言葉はなかったが、もしも今、自分の子ども時代を言葉にするなら、「自己肯定感を持てない」と言うのがぴったりだなと思う。

その感覚もないし、そもそも日常の中で「自己を肯定する・されること」がなかった。
「自分はまるごとダメな人間で、生きている価値がない」というのが日常的な感覚であった。
その感覚を打ち消すように、必死に努力をするわけである。
そして、努力は「焼け石に水」状態で、やってもやっても枯渇する。
いつまでたっても満たされない。
自己否定と罪悪感に塗れてしまう、私はそんな人であった。

ところで、自己とは?

そこでふと考える。
「自己」ってなに?と。
心理学では、「自己」の定義がいろいろある。心理学以外でもいろいろあるが。

脳神経生理学者のアントニオ・ダマシオと言う人が、ソマティック・マーカー論というのを展開していて、かの有名なデカルトの「我思う、ゆえに我在り」は誤りであるとした。
人間は思う(思考、脳)があるから自分というものがあるのだという、心身二元論がそれまでは主流だった。
しかし、このダマシオは「身体がなければ心もない」と心身一如を、脳神経学であきらかにした。
ものすごいパラダイムシフトである。

自己のレイヤー

そのダマシオによると、人間が自己と呼んでいるものはレイヤーがいろいろあると言っている。

まずは、時間の流れがある「自伝的自己」である。たいていの人は、これを自己、自分だと思っている。
普通、人は、昨日と今日と明日の自分は同じ自分だと思っている。自分についてのストーリーがあり、連続性が感じられる自己である。
どんな人にも生い立ちがあり、過去と未来があるという自己。
この自己はナラティブを持っていて、過去の記憶と自分の立てた未来の計画の記憶をもとにつくられている。
つまり体験した過去と、予測可能な未来の自分である。

次に、「中核自己」という層がある。
瞬間瞬間、今ここにいる自己である。
自分を中心にした視点しか持たず、時間の連続性がない。
マインドフルネスとはここにアクセスするのである。
普段はほとんど無意識のエリアだが、意識を向けようと思って意識をすれば、認識することが可能なエリアである。
猫はここが自己だと思っているだろう。(猫は中核自己にいるよとか思わないが)
一瞬前のことは忘れて、今ここにいる自己である。

次に、「原自己」という層がある。
生きていく一つの物質として、命を根底で支えている自己である。
すべての生物にあり、アメーバもこの原自己はあるだろう。(アメーバは原自己だと思わないが)
原自己は、ほとんど意識を向けることができないエリアである。
これをダマシオは「非意識」と呼んでいるらしい。
がんばって意識を向けたとしても、意識できないエリアが存在する。原自己は、がんばってもごく一部しか意識を向けることができないらしい。
この原自己は、自己の中で一番深い層にあり、それは身体の中にある。身体感覚であり、内受容感覚である。ダマシオは、内受容感覚を身体内部環境に関する感覚であると述べている。具体的な情報源として、痛みや体温を含む身体内環境、内臓、横紋筋、前庭システム、体液の状態を挙げている。

人々が普段、自己だと思っているものは、自伝的自己の部分であることが多いのではないだろうか。

原自己と中核自己は人以外の生物もほとんどが持っており、進化の過程で、自伝的自己が出てきているようだ。

(ダマシオ先生のTED↓ 面白いです。)


生かされているということ

原自己は、ほとんど意識できないが、確実に存在している。それがなければ今現在、生きていない。

この原自己、非意識を知るということは、まさに「生かされている」ことを知ることである。

自分で生きていると選択してすべてを決定しているような気になっているかもしれないが、そうではなく、どんなにがんばっても意識すらできないものが、毎日毎瞬、動いて生かされてきているのである。

自分で選択して決めていると思っているのは、脳の前頭葉(眼窩前頭皮質)が認識しているが、この前頭葉がすべてを決めているのではなく、ほとんどは原自己からの情報を拾って最終決定のみしているということが、ソマティック・マーカー論で述べられている。

この原自己は意識できないのであるから、うまく言語化することはできない。
しかし、説明はできないが、「ただ確実にある」。

自分は生かされている、そして、生かされている自分がただある。

このなんだかわからないけど、わけもなく自分の中にあるもの。
これが自己肯定感ではないだろうか。

自己肯定感とはすでにあるもの

自分の原自己とつながる。
つまり、身体とつながる。
身体の声、身体が勝手にしてくれていることを無視しない。
それがただあるということ。
それが自然である。

養老孟司先生が、「身体=自然」と言っていた。
森田ゆり先生は、自分の身体という自然とつながると癒しが起きると言う。

自分の自然とつながって生きることを思い出したとき、すでに自分は肯定されているということに気づく。

今、生きている。
それだけですでに肯定されている。

もしも、揺らいだら、またすぐそこに戻ればよい。

原自己につながると「他人と共にありながら自分は自分であって大丈夫だ」と言うのはもうすでにあると思い出せる。
だって、すべては肯定され、生かされてきたから今、存在しているのだ。

では、またね。


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