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#9 羨望

 人間、あらゆる記憶はその人の都合の良いように塗り替えられてしまうものだが、嫌な記憶というものは、断片的であれど鮮明に残り続ける。それが所謂『フラッシュバック』と言うものを引き起こす原因なのだろう。
 何故こんなにも、幸せな記憶よりも悲しみや恐怖といった記憶の方が強く残ってしまうのか。更にはそれを克服できる人間と出来ない人間が生まれるのか。

 その人なりの苦悩や困難はあったとしても、生涯の殆どを幸せに生きている人間には、このどうしようもなく体に染み付いた悲しみは理解出来ないのだろう。そもそも、そんな悲しみなんて一生理解出来なくてもいい。寧ろ出来ない方がいい。
 そう思いながらも、不幸に部類される人間は結局誰かに救いを求めてしまう。それなのに、違う解釈をされる度に「お前なんかに分かられてたまるか」と突き放してしまって、また独りになる。自己嫌悪に駆られる。また縋り付く。その繰り返し。
 幸せな人間と不幸な人間の考え方や価値観は真反対を向いている。ドン底を知らない人間の、上っ面な「そんなの大丈夫」「きっとこれから良いことがある」という言葉に何度憤りを覚えたことだろう。いや、どん底を知りながらも這い上がって来た人間の自信に満ち足りた「大丈夫」の方が苛立ちを覚えるかもしれない。自分の弱さをまざまざと見せつけられているようで。自分の至らなさに腹が立つ。
 僕がサイトを運営する理由を彼女が知ったら笑うんだろうか。
 なんてくだらない私情だろう、と。

 僕が悪夢にうなされ起きてから1時間後の深夜2時。パソコンに向かって新たな業務の連絡を確認していると彼女がもぞもぞとベッドから体を起こし始めたのが見えた。
「起きてらしたんですか」
「いや、1時間前くらいに起きたとこ。まだ夜中の2時だし、寝てなよ」
「大丈夫です。どのくらい眠っていたか分かりませんが、もうだいぶ体も軽いですし」
「そう、それは良かった」
「新しい巣立ちの方ですか?」
 ぼんやりと付いていたパソコンの明かりを横目に彼女は聞いて来た。
「そう、まだ決まってないけど。相談。たまに来るんだよね、死にきれない死にたがりの人生相談がさ。ここはそんな所じゃないのに。お門違いだ」
「あなた、感情が欠落していますね」
 僕は少し驚いた後に大笑いしていた。ああ、そうか。僕も感情の欠落した人間の一人だった。
「でも、間違っていないだろう?ここは本気で死にたい人間しか来ないんだ。僕はこの世に未練のある奴には興味がないんだ。そんなつまらない奴なんて、僕だけで充分だ」
 そう言った直後、なぜかつうっと涙が流れて来た。泣くまいと焦れば焦るほどに涙は止まらなかった。
「ごめん、泣くつもりなんて……」
 僕をじっと見つめる彼女の視線が何故か怖くて顔を隠しながら涙を拭った。でも彼女の視線は伝わって来る。
 しばらくして彼女が静かに口を開いた。
「泣いて良いのですよ。自分が幸せになるのを願うことはごく自然なこと。むしろ私たちみたいな人間にあなたが思うほどの面白みなんてありませんから。生きていて面白くないから死ぬんです。自分の人生を面白くできる方法を知らなければ、手段も残ってないんです。だから死ぬしかない。泣かないで。あなたはまだ救われる側の人間です」
 そう言って彼女はふらふらと近づきながら僕の頭をふわりと包み込んだ。
 包帯に巻かれた折れそうに細い腕がやけに大きくて温かく感じた。
 彼女の鼓動が近くに聞こえる。
 どくん、どくん。
 彼女は生きている。僕は初めて人に抱きしめてもらえた気がした。
 人の温もりはこんなにも安心できるものなんだと知り、人間が一人で生きていけない理由は案外仕様もないことなんだと分かって情けなくなった。
 僕はつい彼女の腕にしがみついておいおいと泣きじゃくっていた。
 そうか、僕は幸せになりたかったのか。本物の愛をこんなにも知りたかったのか。人と触れ合っていたかったのか。
 初めて真面目にそんなことを思ってしまって、人前で泣いていることすら恥ずかしいのに尚更どうしていいのかわからなくなった。ただ彼女はそれ以上何も言うことなく僕が泣き止むまで抱き締め続けてくれた。

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「ありがとう。もう大丈夫。怪我してるのに立たせっぱなしで悪い。痛いだろう、座って」
 彼女は僕の肩を撫でながらふわりと笑った。
「私、悲しいことにそう簡単に死ねないんですよ。何度も何度もこうして自分で痛めつけても、誰かに痛めつけられてもどうしてか生きてるんです。何の嫌がらせなんでしょうね。死んでほしくない人は死んでゆくのに…」
「……社〔ヤシロ〕か?」
 何となく触れてはいけない部分に触れてしまったようで沈黙が続いた。
「悪い、デリカシーがなかった」
「いえ…。昨晩ここに住んだらどうかと仰いましたよね?それ、本気にして良いのですか?」
 自分で言ったことなのにすっかり忘れてしまっていた。それに、彼女が本気なことにもびっくりした。
「え、ああ、君さえ良いなら全然構わないよ。男と二人だよ?大丈夫?」
「今更無理だなんて言われたら傷付くくせに」
 悪戯な笑みでそう言うものだから、僕ははにかむくらいでしかその場を凌ぐしかなかった。
「私、親を憎めないんです。こんなに傷つけられても私の親に変わりはないし。でも基本的には怖いし嫌いなんです。可笑しいでしょ?死ぬのに未練なんて一番いらないので、離れたいんです」
 突然の彼女の両親への吐露は嫌に心地よく僕の胸に響いた。親への執念が自分と同じで可笑しかった。僕たちは互いに不器用な人間なのだ。
「うん、良いよ。この家全然物がないから、必要な物があったら言って。用意する」
「ありがとうございます」

 こうして、命の期限の定められた彼女と、3ヶ月程の同居生活が始まることになる。

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