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#12 置き去りの夏

 『夏が終わる前に思い出を残したい』

 彼女の一言で僕らは突然恋人紛いなことをすることになった。
 というのも今日は彼女の要望で朝から水族館というベタ中のベタな場所へやってきている。
 水族館に着くなりインスタントカメラを渡され、私を撮ってくれとの要望だ。これも死ぬまでの要望の一つだと。
 水族館に着くなり彼女はそこいらの女の子と同じようにキラキラとした笑顔ではしゃぎ始めた。家に留まっていたらこんなにも明るい表情(かお)をするだなんて知らずにいたのだろう。彼女の内なる乙女な純粋さに驚いた。同時に、僕は普段からこんな早い時間に外出をしないため、ましてやこの暴力的な暑さに耐性もないものだから体力をもたせることに必死であった。
 大きな水槽の前まで行くと少し離れたところにベンチが見えたので、僕はやれやれと腰を下ろした。その間も彼女はゆったりと泳ぐ魚たちをじっと眺めている。遠目にそれを見守る僕は、まるで娘を連れて来た父親のようだった。
 時折見える彼女の横顔は優しい笑みを浮かべたり、そうかと思えばふとどこか泣きそうな表情をしてみたり。
 彼女の後ろ姿をカメラに収めた。今、どんな表情をしているだろう。優しく淡い水色に包まれた彼女が今にも消え入りそうで、心がざわつく。


 今朝、彼女は気付いた。
「私…今年の夏が人生最後の夏になるんだ…」
 ぽつりと呟いたその一言は僕を強烈なまでに不安な気持ちにさせた。初めての感覚だった。嵐のあの日から共に過ごし始め、彼女の存在が仄かに、そして着々と、"普通"で"日常"なことになっていてすっかり忘れていた。
 彼女が秋には費える存在だということを。  


 どのくらい大水槽の前に居ただろう。ゆらゆらと目の前を行き来する魚をよくそこまで飽きもせず見ていられるものだ…と思ったが、そんな彼女を飽きもせず見ていた僕も大概か。
「そろそろ違う水槽のところに行かないか?」
 割と分かりやすく脅かさないよう近づいていったつもりだったのだが相当集中していたのだろう、彼女はピクリと肩を震わせ目を丸くしてこちらを見た。
「びっくりした…!そうですね、移動しましょう」
「もう少しでイルカショーがあるみたいだけど、行く?」
「良いですね!見に行きましょう!」
 また彼女はるんるんとしながらショースペースまでの順路を進んでいった。僕もまたカメラのシャッターを切った。
「湊太さん、あれ、買いません?」
 子供の持っていたソフトクリームを目で追いながら訊ねてきた。
「君はクリームソーダといい、ソフトクリームが好きだね」
「美味しいじゃないですか。いらないなら自分の分だけ買ってくるので、先に席を取って待っていてください」
「僕も食べるよ。席取っておいて。買ってくるから」
「ありがとうございます。お願いします」
 親子やカップルが一緒に売店に並ぶ中、互いに別行動をするあたりが僕らの淡白さを物語っている。
 並んだショップにはこの水族館オリジナルの所謂"映える"ドリンクなるものや、彼女が御所望のソフトクリームにもイルカが型取られたクッキーが付いていたりと、可愛らしいものが置かれていた。
「お待たせしました、ご注文伺います」
「このイルカのソフトクリームを二つ下さい」
「かしこまりました、お会計1000円です」
 内心、アイスごときにとんでもない値段をつけるなとは思ったがそこはこの会場の雰囲気とこの可愛らしいイルカに免じて許してやることにした。
 両手にソフトクリームを持って座席まで戻ってくると、僕を見るなり彼女はゲラゲラと笑いだした。
「あははは!おかしい…っ!全然似合わない…っ!」
「おい…今すぐこいつを顔面に叩きつけてやろうか…?」
「ごめんなさい(笑)こんなにソフトクリームが似合わない人がいたなんて…!」
「もう全部一人で食べてやる」
「あーーーーっ!ダメです!!」
「じゃあ何か言うことは?」
「ごめんなさい、もう言いません」
「よかろう」
 隣に座って彼女にソフトクリームを渡したとほぼ同じタイミングでショーの音楽がかかり始めた。煌びやかな音楽と飼育員とイルカやアシカたちの洗練されたパフォーマンス。彼女はまたわくわくとした表情でショーを見つめては時折「今の見ました!?凄いですね!!」と話しかけているんだか、やたら大きな独り言なんだかな感情を見せた。ショーに夢中でアイスがこの熱気で見る見るうちに溶けていく。それが彼女の手を伝っていたが、僕がいくら溶けて無くなってしまうぞと忠告してみてもお構いなしにショーに真剣だった。せっかく要望通りに買ったと言うのに。お陰でショーが終わる頃には服にまで滴っていて、トイレまで駆け込む事態になってしまった。
「教えてくれてもいいじゃないですか…!」
 でろでろになった残骸を処理して戻ってきた彼女は不満そうに言った。
「何を言ってるんだ、僕は何度も伝えたぞ。君がショーに夢中になってたんじゃないか」
 子供のようにむすっとしている彼女に若干の面倒臭さを感じつつも、それほど楽しかったのだろうと自身の父性を思わせるような感想を抱いた。
「ショーは楽しめたのか?」
「はい!私初めて見たんです!イルカショー!」
「そうだったのか。楽しめたなら何よりだ。服の汚れは?」
「大体は大丈夫そうです。あの…アイス…」
「ん?ああ、食べたいのか」
「はい…」
「ったく、仕方ない、買いに行こう」
 そう言うとパアッと顔を輝かせて先ほどのショップへと向かっていった。
 イルカの形をしたクッキーを咥えながら戻ってきた。こうしていると本当にただの女の子だ。ここにいる一体誰が彼女のことをこれから死を控えた存在だと思うだろうか。
「ソフトクリームはやっぱり良いですねぇ〜」
 そんな呑気な彼女を僕はまた記録に残した。
「もう水族館は堪能したか?」
「はい、お陰様で。ありがとうございます」
「じゃあそろそろ日も落ちてきてるし、それを食べて一息ついたら帰ろう。僕の体力も限界だ」
「そうですね、帰りましょう」


 電車の座席で揺られながら会話をするでもなく、ぼんやりと景色を眺めて過ごした。夕焼けが家々の窓を照らす。夕焼けはいつだってもの寂しいものだと思っていたが、今日だけはその濃いオレンジが綺麗だと感じた。珍しく世界に彩(いろ)を感じた。彩をこの目で見た。
「綺麗な夕焼けですね」
 同じ景色を、彩を、彼女と共に感じた。
 夕焼けは突然光線となって僕らを突き刺した。激しい眩しさに目を瞑った。
 目を閉じた先は更なる極彩色だった。今日見たあらゆる色が押し寄せては駆け巡る。彼女の明るい表情が断トツに眩しい。
 眩しさを避けるために目を瞑ったまま、僕らは自宅の最寄り駅を優に越える程眠りこけてしまった。急いでまた反対方向への電車に飛び乗る。
 やっと家に帰れると思ったのもつかの間、飛び乗った電車の中で気が付いた。
 あっという間に撮りきってしまったインスタントカメラを、眠りこけていた座席に置き去りにしてしまったことを。

 僕らはそれを取りに行くことはしなかった。

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