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#7 傷だらけなのは心か体か

 ドアは彼女の投げ出された足に引っかかっていたようだった。
「おい…どうしたんだ…!いつからここに……おい!しっかりしろ!」
「あ……湊太さん…すみません…インターホン押す前に力尽きてしまって……」
 へらへらと笑う彼女に幾らか腹が立った。こんな見た目で笑われても何も面白くないし、自虐されるには見るに耐えなかった。
「とにかく中に入って。立てるか?」
 彼女は力無く首を左右に振った。仕方なく、僕は彼女を抱え込んで家の中へと入れた。
 抱きかかえた彼女は熱かった。傷も酷いし、完全に風邪か何かに感染している。早く手当てをしなくては………。
 彼女をベッドにもたれさせて思う。
 救急箱がない。
 こういう時に、モテない自堕落な男が使えないことを実感させられる。
 とりあえず、このびしょ濡れな状態は良くない。無理矢理にでも着替えさせないと…。
 下着だとか肌だとか破廉恥だとか、そんなことは今は言っていられない。死ぬことを望む彼女だって、こんな形で息絶えるのは本望ではないだろう。
 意を決して、聞いているか分からない状態の彼女に一応断りを入れ、傷に気を付けながら服を脱がしていった。
 濡れて肌に密着した服を力無い者から脱がすのは骨の折れる作業であった。
 まずTシャツ。腕にかすり傷や切り傷が見られた。所々に打撲痕もある。普通に転んだだけじゃこんなに傷は付かないだろう。
 そしてスカート。ロング丈のスカートは水を吸ってだいぶ重くなっていた。脚にも痣があちこち。
 脱がしていけばいくほど、痛々しい体が露わになって、厭らしい感情のひとつも生まれなかったが、弱り果てた彼女を見て"美しい"と思う自分の感情には嫌気が差した。
 下着姿の彼女をバスタオルで拭いて、自分のスウェットパーカーを着させた。
 引き出しを引っ掻き回してやっと見つけた消毒液で出来る範囲で消毒し、ベッドに彼女を寝かせ、僕は急いで薬局へ向かった。

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(こういう時、どんなものを買うんだっけ…。)
 薬局に駆け込んで来たは良いものの、幼い頃に怪我をした時の記憶を引き出すのに意外と時間がかかった。
 そもそも、人に手当てをしてもらうという温かな記憶を僕は持ち合わせていなかった。怪我をしたところで放っておけばどうにかなったし、そこまで酷い怪我をしたこともなかった。
 そういえば一度、公園で脛のあたりを割れたガラスでざっくり切った怪我をしたことがあったが、あれも確か自分で処置をしたような気がする。
 あの時自分でどう対処したのやら。全く思い出せなかった。
 両親が何かしてくれた記憶が無いということは、そういうことなんだろう。
 思い出せるのは対処法とは程遠い、あの時の感情や痛みだけだった。

 店内でただ慌てふためいたり、ぼーっとしたりしていると、どうしたのか、と店員が話しかけて来た。
 怪我をして高熱を出している者がいること、どう処置するのが良いのか分からないことを、あたふたしながらも伝えた。
 落ち着いてくださいね、それは大変ですね、と本心からなのかマニュアルに沿った返答なのか分からない温度感で店員は言った。その店員は乾いた空気を出したまま、処置に対する説明を色々とし始めた。
 説明を受け、言われるがままにガーゼ、それを止めるテープ、包帯、冷却シート、清涼飲料水、痛み止めなどを次々と購入した。
 帰りの道中、コンビニで彼女が食べられそうなゼリーやうどん、お粥や果物をいくつか購入し、急いで帰路についた。

 帰宅し彼女を見ると、ベッドでぐっすりと眠れている様子が確認出来た。
 悪夢を見ていなければ良いな、なんて、まるで自分らしくないことを思った。
 調達したものをガサガサと整理していると、彼女がむくりと起き上がった。
「ごめん、起こしちゃったかな。起き上がって平気か?」
「はい…なんとか…」
 頭を手で押さえながら消え入りそうな声で彼女はそう言った。
「お腹は空いてる?何か食べられそう?」
「少しなら食べられそうです…」
「そうか、それなら先に処置をしてご飯にしよう」
 僕は買ってきた治療セットをテーブルに広げ、治療のために彼女へ向かって手を伸ばした。そのまま消毒液の方へ顔を向けた僕だったが、手首の辺りを掴む予定だった右手が宙(くう)を掻いたのに気付いた。
 彼女の方を見やると、彼女は壁際の隅で体を小さく丸め小刻みに震えていた。
 はっと我に返った彼女が、小さく「ごめんなさい」と言った。
「大丈夫、僕は何もしない。痛かったとしても、それは攻撃的な痛みではないはずだよ。無理そうなら、また後にしてご飯にしようか」
 彼女はふるふると頭を振って、自ら手を乗せてきてくれた。
 僕はそのまま治療を始めた。治療をしながら、彼女を安心させるようにゆっくりと話しかける。
「さっき、ゼリーと、うどんと、お粥を買ってきたんだけど、どれなら食べられそうかな?もしこの中に無ければまた買いに行くから、遠慮せず言って」
 時たま消毒の痛みにピクリとしていたが、パニックになりそうな感じはもう見えなかった。包帯で巻かれた腕が、尚のこと線の細さを強調した。
「お粥が…食べたい…です…」
「うん、わかった。はい、腕は終わったよ。脚はどうする?自分でする?嫌でなければこのまま僕が手当てするけど」
「自分でします…ありがとうございます…」
「ん、じゃあこれ使って。僕はお粥の用意してくるから。飲み物は?あったかいのにしようか」
 こくりと頷いた彼女を確認して、僕は用意を始めた。用意と言っても、レンジで温めるだけの簡単な作業。今時はなんでも便利になったものだ。
 レンジから熱々なお粥をお皿に盛り付け、冷蔵庫に唯一あった梅干しを乗せてテーブルに置いた。温かい緑茶を横に添えると、なんともありきたりな病弱な画が出来上がった。
「熱いから気を付けて食べてね」
 僕がデスク前の椅子に座ると同時に、テーブルに食事が用意されたのを見て彼女がベッドから出てきた。
 彼女の体は、そこら中包帯やら絆創膏だらけで、それはそれは大変儚く美し………………
「美味しいです。ありがとうございます」
「あー…ものを作ったのは工場なんだけどね。美味しいなら何よりだ」
「既製品だとしても、用意してくださった気持ちが大事ではないですか?」
「気持ち…ね……」
 人が見るからに痛々しい傷を負っているというのに、それを見て美しいと思うような人間が用意した出来合いの食べ物を「美味しい」と言って食べる彼女が、やけに愛おしくて堪らなかった。
「こんなに傷だらけになるほど、何があったんだ?」
「あなたも何となく想像がついているんでしょう?そうであれば特に話す必要もありません」
 食事を摂ってそんなにすぐ様栄養が体に回るとも思えないが、彼女の気の強さが戻り始めていた。単に、彼女が自ら話したくはないことを無理に聞き出す権利など、僕にはなかった。

「なぁ、能崎、もうここに住んだらどうだ?」

「……え?」

 この時から、僕たちの歯車は少しずつずれ始めていたのかもしれない。

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