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長めの独り言ちょっと聞いてよ。

鬱の頃の私っておもしろかった。
今の私は、その頃に比べたら大したことはない。と思っている。
今の方が圧倒的に生きやすいことには間違いないけど、昔のあの奇抜な思考はもう出来なくなった。



24.5歳で何か解脱したような気持ちになった(結論してはないと今は思う)。
鬱のどん底から這い上がった経験をしたからだと思うのだけど。
振り返ってみると大した経験では無かったのかもしれない。しかし、当時渦中の私の中では大きな転機だった。
鬱どん底だった当時の私は、自力でどうにかこうにか這いあがろうと(病院は行ったけど)、鬱に関する勉強を色々とした。
鬱という病気がそもそもなんなのか。
……というところから始まり、心理学・哲学を広く浅くざっくりと勉強して、自己分析死ぬほどして、大嫌いだった自己啓発本は馬鹿みたいに読み漁ってみた。もっと早くこれらを知っていれば苦しまずにいただろうな、と月並みなことを思った。
昔大人に言われた「君は休むのが下手くそだ」の意味と休み方をその頃に知ったわけだけど、なぜあの時にその場で教えてくれなかったのかまじでそれだけは分からん。意地悪すぎる。それくらい教えてくれてもバチは当たらないだろうに。
そんなわけで私は"私"というモノを全く知らなかったこと、どうしたら自分をコントロール出来るのか、を24.5歳で初めて理解したわけだ。

私がどうやってコントロールしてるのかなんて、書かなくても世の大方の人は分かってるであろうことばかりだけど、とりあえず以下は私のメモとして見てやってくれ。

・自分の機嫌は自分で取る。
・嫌だったこといつまでもいつまでも考えない。
・→そんなに考えたいならその解決策を考えろ。
・自分の苦手と嫌いを理解する。
・好きと出来るも理解する。
・こうすればリラックス出来る!を知っておく。
・無理はしなくていい。無理していいこと微塵もない。
・物事をシンプルに端的に。
・ある程度色んなことをパターン化する。
(諦めがつくポイント作っとく)

まあ、なんかこんな感じ。
ね、みんな知ってるでしょ。基本の基よ。
これらをさも「こりゃあ世紀の新発見だ!」とでも言うようなテンション感で解脱途中の私は実感しちゃったわけです。
大学でコミュニケーション学も取ってたもんだから、心理学も(ペラく)勉強した私は強気になっちゃって「私、人とも自分との関わり方もぜんぶ分かっちゃったかも!」みたいなでっかい気持ちになった。





鬱で沈んで上がるまでの私がシーズン1だとしたら、ここからシーズン2が始まる。

でっかい気持ちな私は、世界は残酷なのだと考えておけば大抵のことへ寛容になり、良くも悪くも許せるようになった。
何か傷付いたり嫌なことがあっても「君も辛かったんだよね、だからそうするしかなかったんだよね」とナウシカにでもなったような考え方をいつしかするようになった。
人間が理解し合うことの難しさを幼少期から身近にとても感じて生きていたため、理解し合えないんだから最初から期待しないで生きていた方が楽。
という思考に終着した。

するとどうなるか。

達観して多少生きやすくなってしまった途端に人生が半分くらい面白くなくなった。人をナナメに見るようになったし、自分も他人もパターンに当てはめて安心したがる癖が付いた。
"生きづらいこと"が少し解けたとたんに創作意欲が薄れていったのだ。

世界の創作物はいつまでも癒えないコンプレックス若しくは超絶前向きな希望で出来ている。
……と、思っている。
自分を知って欲しい気持ちとか、もっとこうなりたいとか、世界がこうなって欲しいとか、楽しいこといっぱいしたいぞー!みたいな。
だからそれを持ち続けられる人は本当に強い。



私は中途半端にコンプレックスが解けてしまったから、頭に浮かぶ案も中途半端で、何かが足りないといつも思う。
自分がまた霞がかって見えてきている。
「あなたのことは理解してあげる。でもどうせ理解し合えないんだから近づかないで」
そんな感じ。

今後の私の課題は
自分の深部をまた抉り出してインナーチャイルドを癒してあげること。
表層の自分が見えても根底が変わっていない。
実際メンタルはまだグラグラしているから。
拒絶は楽だよ。だけど、そうじゃない解決を私はしたい。言葉を交わしてあげたい。
他人のことは知ったような口ぶりなくせに、自分のことが分からなくて困るんじゃ元も子もない。
自分で自分に"正しい愛情"を持ちたい。
それって自己肯定感なのかな。
もう少し。もう少しな気がする。
そうしたらまた創れる気がする。



そんな葛藤の中にいる。

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