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#13 僕らの距離

 水族館であれ程までにはしゃいでいた彼女は、それから何日か経った今となっては、これまでと何の変わりない、表情の微弱な少女に戻っていた。やはりあのインスタントカメラを探しに行くべきだったかと業務の傍らぼんやり思考したが、あれは僕の記憶に焼き付いたからこそ美しいものになっているのではなかろうかと臭いことを思ってみた。

 不幸体質人間の特徴なのか分からないが、心から楽しんでしまった翌日というのはその反動でただひたすらに落ち込むことがある。いつもはなるべく避けて通っているはずの多幸感を一度に味わうと後の喪失感が堪らなく辛いからだ。マイナス要素だけが吸収率の良い僕らには、多幸感などというものはただの毒でしかない。

 彼女も例に倣って、僕が知る限り翌日は部屋から一歩たりとも出てこなかった。部屋の中でどうしていたかは知らない。そういう時に声をかけるのは彼女の場合野暮だろうと放っておいた。助けが必要なら自分から声を上げるだろうから。

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 水族館から2日後になって、彼女は亡霊のような顔で僕の前に現れた。
「おはよう。調子はどう?」
 デスクから彼女へと体を向けた。椅子の軋む音が無機質な部屋に嫌に響いた。
「普通です。ありがとうございます」
 どう見たって普通じゃない彼女を横目に時計を見やると、時刻は間も無く14時を回ろうとしていた。
「お昼ご飯、食べるかい?僕も作業に集中してしまっていてまだなんだけど」
「では、頂きます」
 彼女が来てから、僕は人生で初めて自炊というものに挑戦していた。とはいっても簡単なものだけだ。炒めるだけで精一杯。今日は卵とネギと豚肉でチャーハンを作ることにした。
「湊太さんて意外と家庭的ですよね」
 カウンターの向かいから刻まれていくネギを見つめながら彼女が呟いた。人の顔を見ずに声をかけるのは彼女の癖だ。
「これでか?だとしたら君の家庭的のハードルがだいぶ低くて助かる」
「私、チャーハン作るの苦手で…」
 彼女は恥ずかしそうにそう言った。
「読んで字の如く、ただ炒めるだけの飯じゃないか。何が難しいんだ?」
「パラパラなご飯にならないんです」
「そんなハイクオリティーなものを求めなきゃ良いのさ。こんなの味が良くて食べられればそれで良い。…まさか僕にそのクオリティーを求めないよな?」
「まさか。作ってもらっておいてそれはあまりに傲慢です」
 よかった、ここまで作っておいてそんなもの要らないなんて言われた時には立ち直れない。
 卵をボールに割り入れて軽く混ぜる。そこに直接あまり物のご飯を入れると彼女が「えっ?」と声をあげた。
「ご飯を炒める前に卵と混ぜるんですね…!なるほど…」
「パラパラにしたいわりにこの方法を知らないなんて修行と知識が足りないな」
「う…うるさいですね。家ではなかなか作れない環境でしたし、義務教育のときですら学校にほぼ行ってないんですから仕方ないじゃないですか」
 僕がどやした顔で言うとそれはまあ必死に言い訳を並べてきた。
「じゃあその手に持っている四角い機械はなんの為にあるんだ?」
「それはですね…」
 言葉に詰まった彼女を見て勝ったな、なんて思ってしまう僕はどうしようもなく大人気がない。
「文明の利器は賢く使わないとな。まあ冗談はさておいて。ほら、もう少しで出来上がるから飲み物とか用意しておいて」
 彼女はやれやれといった顔でグラスを二つ戸棚から取り出して、お茶を注いだ。
 テーブルには簡素な昼食が並んでいるだけなのに、セットが二つ用意されるだけでいかにも幸せで穏やかそうな空気を醸し出してくれる。ただそれを食す二人がまるでそれとはかけ離れているのが問題だ。
「美味しそうですね」
「お世辞でもそう言ってもらえて良かったよ」
 早速席について二人で食べ始めた。よく考えてみると、屋外で出会った時以来、自宅でこうして向かい合って共に食事をするのは初めてだった。何やら緊張する。
 食事の時ほど人間が無防備になる瞬間はない。自分の粗が見えてしまいそうで、今までの生活からして人と食事をするのはどうにも慣れない。部屋にはただただ食器が触れ合う音だけが響いて、まるで高貴な貴族と食事でもしているような気分だった。
「なんでそんなに無言なんですか?」
 突然話しかけられた僕は情けないことに米粒を誤飲してむせ返った。急いでお茶で流し込んでは詰まっていた呼吸を取り戻した。
「いや…こう改まると慣れなくてだな…」
 言葉を交わすというのがどれだけ場の空気を変えるかをひしと体で感じた。さっきまでの張り詰めた空気は一気に軽くなった。それとも僕の取り越し苦労だろうか。
「なんとなくそうだろうとは前々から思ってましたよ」
「食事って一番性格が見える瞬間で苦手なんだ…」
 なんだかとても子犬でも見るような目で見られている気がする。
「気にしすぎじゃあありませんか?」
「君はどうなの。気にならない?」
「私は別に。少食だなとか、綺麗に食べるなとかは思いますけど、食べ散らかすわけでもないんですから相当なことがない限りそこまで気にしなくたって。それって湊太さんの方が相手の食事に気になってるんじゃないですか?」
 言われて気がついた。確かに、昔から食べ方にはやたら口煩く躾けられたから気になってしまうのかもしれない。
「…で、僕の作ったチャーハンはどうよ」
「美味しいです。本当にパラパラしてます」
「だろう?少しは見直したか」
「見直すも何も、見誤ったところも見つかってないんですがね」
 この"強がり"はあくまで自分の非を認めないつもりらしい。
「言ってろ」
 僕は少し不貞腐れてみた。彼女が笑った。
 これが後何回見れるだろう。どうしてかそんなことを思った。
「能崎、この夏にまだやっておきたいこと、他にはないのか?」
 グラスを持ち上げかけた手が止まった。みるみると顔がまた暗くなって彼女はグラスをそっと置いた。
「……まつり」
「え?」
「お祭りです。お祭りに行きたいんです。なんでも良いから」
 怒っているような、悲しんでいるような、なんとも複雑な顔をし彼女はそう言った。
「お祭りかー、僕も久しく行ってないなあ。最後に行ったのも思い出せないよ」
「本当はいつか好きな人とお祭りデートがしたかったな…」
 叶えてあげられぬ声に思わず僕が泣き出しそうだった。
 そんなに悲しい声で悲しい顔で、懇願するように言わなくたって…。
「僕がちゃんとエスコートするさ。君の地元のお祭りにでも行くかい?」
 考えるより先にそんなことを口走っていた。
「本当ですか…?」
「もちろん。それも君が望む、やり残したことの消化ならね」
「…はい、これもあなたに依頼する業務です。お願いします」

 夏の終わりはもうすぐそこに迫っていた。

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