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年相応、は架空の想像


「年相応ならよい」


初対面の同年代であろう女性の言葉。
漠然と、はて? と疑問に思ったのと
この、トシソウオウ。にとても違和感を感じましたので書いてみます。



年相応という言葉の語源



昭和世代という括りにするのは荒いですが、
わたしのような50代目前の世代は
この方みたいに年齢で分けることって当たり前だったような気もします。

でも
なんかもう古い価値観というか、
(失礼極まりないですが)
こんなエイジレスでノージェンダーな
世界があると知ってしまった現代には
わたしは男だ、とか
わたしは女である、みたいな
意味のない分類分けと同じで
年相応、という言葉も化石では?



昭和世代、とくに女性は、わたしも含めて
「年相応」に敏感かもしれません。
期待されている像
求められる像を演じようとする。

なぜって
教育のせいって言いたい訳じゃないけど
時代的に。というのはあると思います。



年相応の世界観



では「年相応」の世界観とはどんな世界なのかを
想像してみます。

30代はオバさんの入口
(20代が若さの頂点と考える)
40代は老化の始まり
(白髪を発見、初めてショックを受ける。わたしもうおばさんだから、と誰かに言われる前に自虐的に言う)
50代は更年期
(自分より若い人に嫉妬する。体型変化。老いることへの恐怖と不安)
60代はシニア
(孫ができたりする、諦めがありつつも若い世代に上から目線)
70代は介護世代
(認知症になり、身体が不自由になり周りに悪態をつく)
80代は二極化
(ここまで生きてきたので老人だから周りがやって当然、謝らない、御礼も言わないか、周りが居てくれてありがとうと、好かれる老人になるかの二極化)


あ。今更ですけどわたしは「年齢ってなんだっけ。
そんなの関係あるの?」と考える側の人間です。
こんな区切り方には元々興味がなく、想像しただけなので言葉が乏しいし失礼極まりないのですが、
なんでしょう。書いていても嫌な気分になるので
やめますね。笑

評価されたい、はマイナス面の払拭から始まる



年齢に相応しい言葉使いや見た目、所作や態度、
そういったものがあるとしたら
人からの評価を優先で生きている人は
無意識に
こうならないように、こう見られたくないから
を基準にして着る服、ヘアスタイルからアクセサリーまでをコーディネートするのでしょうか。

歳の割には、とか
こんな歳のくせに、、(恥ずかしくないの?)
という誰かからの無言の圧力を感じたりして。

角野栄子さん

人生100年とは言うけど
わたしの好きな作家さんのひとり
角野栄子さんがいます。


84歳の今も、私は「現在進行形」

角野栄子 /「作家」と「魔女」の集まっちゃった思い出/角川書店

あの、有名な巨匠、宮崎駿の代表映画、
魔女の宅急便を生んだ原作者でもある角野栄子さん。なんと84歳。

とてもオシャレで、好きな色や似合うデザインも
ご自身の感覚に忠実。
アクセサリーも、ジュエリーではないおもちゃのような遊びのようなデザインだったり、キッチュな赤や原色を選んでいたり、グレイヘアの短めボブと
赤いフレームのメガネが似合いすぎている。
角野栄子さんが何歳であるか、ではなく、
何歳だろうと、素敵さが見る人に勝手に伝わってしまう感じ。

角野栄子さんがトシソウオウなんて言ったら
どんなファッションをされるのだろうか。
きっと変わらず好きなものを着て、好きなスタイルを貫いておられるはず。
そもそも、年相応なんて意味不明です。
84歳らしいって???


素敵な人は好きなものを諦めない



素敵な人はいくつになっても素敵だし
自分に似合うものや好きなものに
妥協しない。


残り何年生きるかなんて
誰にも分からないけど、少なくとも
同じ時間を過ごすにしても、自分で決めるか、
何かに決められて生きていくのか、その違いは大きいということです。

世間体を重視し、
体裁を守り、
社会的に価値があることをして
初めて自分の価値が生まれると考えるか。


誰かや何かに認められたら、価値があるのか?
価値がある、と感じることが
ひとの幸せと結びついているのは確かだと思う。


しかしですよ。
誰かや何かに認められることでしか
自分の安心や、満足が得られないとしたら
永遠に満足なんかできないじゃないですか。

人にどう思われるか、は
自分にはコントロールできないんですから。

やはり、年相応、は架空の想像。


誰にとっても同じような年相応なんてものは
存在しないし
架空の想像でしかありません。
昔ならともかく、
だって「普通」、ってみんな違うでしょう。

何十代だから、その歳らしく。って
具体的になに?
相応しい外見なんて年齢でわかるものでもないです。



相応しい、っていうのは
その人に合っている、と周りが感じる評価だけど
自分でも自分が何が好きで何を着ていたら似合うのかを諦めたりせずに、何歳になろうと知っていることだと思う。

だから結論、自分が自分に心地よかったり
相応しいと感じることを
する以外にないんです。
だから、自分相応。


自分相応は激しく同意


年齢なんてただの数、ってどこかの女優みたいに
そんなカッコいい感じには言えないけど
わたしがどんな見た目であれ
ひとつの数でしかないとは思いますよ。

年齢を聞くのとか、年代で区切るのって
日本人独特の文化だと思います。
何メートル、とか
何リットル、とか
何グラム、みたいな、ただの単位でしかないのに。

単位に決定権を委ねるって
「年なんだから諦めなよ」って
目に見えない圧力に流されるというのは、
着たくもない服を着てるような感じ。

本当は、着たい服があるなら着ればいいし
正しいとか
年齢じゃなく、自分に相応しいものを探す。



例えば自分のことを自虐的に
「もう、いい歳だし、だってオバサンだし」
と笑いながら言う言葉だって
実は表面は笑っていても

「本当は歳をとりたくない」という
不安や悲しい気持ちもあるはず。
本当の自分は悲しんでいる。


年相応にしたら?って誰かに言いたいのは、
自分も抑えているからです。
自分が我慢してることって
それを誰かがしていたら言いたくなるものだし。



歳関係なく、生きている人は
人のことは気にならないし
いい意味で興味がないですからね。そういう知人が実際にいるからわかるんですが。
まさに、年齢不詳。何歳かなんて誰も気にしない。


年相応なんて言葉に従って
自分にとっての相応しさを決めたりはしないのは、
自分相応を知っているから。


人が気にならないっていうのは無理があるけど
気になって仕方ない、の真相は
常に監視するもうひとりの自分が自分の中にいるんです。見張ってる、自分を常に。
誰から見ても、粗相がないようにって。

本当は、在るが儘でいたい、という
願望を抑えて
「こうすべき」
「こうじゃなきゃおかしい」
誰かから見た視点基準で
服や見た目を決めると

段々と、誰かが決めたつまらない
「年相応」になっていくのでしょうね。


やっぱりわたしはどうしたって
年相応なんかになれないし
なろうとも思わないので


40代や50代に相応しい服やメイク特集
から選ぶより
今の自分に相応しい服やメイクを
自分で研究した方が断然楽しいです。
年相応より、自分相応で。

お読みくださりありがとうございます。

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