見出し画像

わたしの、いなか、の、じけん「アパッチ族の最後」

(夢野久作文学賞「わたしの、いなか、の、じけん賞」応募作です。一部表現を改めましたが、内容に変更はありません)


 福岡県粕屋郡宇美町を中心にした辺りでは、いつからか知らないが、裸足のことを「アパッチ」と子どもらの間で言っていた。片田舎ではあったが、バスは1時間に数本走っているし、スーパーマーケットだってあった。道路は舗装され、子どもは当たり前だが靴をはいている。それでも、アパッチは子どもらの憧れだった。実際に裸足になって遊ぶことはほとんどなかったが、心はアパッチでいたい、と思っていた。
 1980年代、俺はいとこの家で生活していた。母が父と離婚し、俺を連れて父の実家を出た。俺は母の実家の福岡にやって来て、母のお姉さんの家に住まわせてもらうことになった。その伯母には、娘がひとり、息子がひとりいた。俺はそのふたりのいとこと仲が悪かった。原因は、もう忘れた。忘れるぐらいの大したことない原因で、いとこたちに意地悪されていた。
 俺は運動がダメだった。走るのが遅い。野球で、打てないし守れない。でも、本を読んでいて、物知りで勉強はできた。それが気に入られたのか、5、6年生の上級生の遊びに混ぜてもらうことが多かった。
 小学校のすぐ近くに池があった。放課後、遊びに行けるヤツは、池の「御柱(おんばしら)」に集合する。池の周りでいちばん大きな木に、俺たちはつなぎ合わせた縄跳び紐を巻いて、御柱と呼んでた。算盤教室のない日、俺は必ずそこに行った。
 その日は雨が降っていた。サッカー部のヤスコウチ君とサノ君は、室内練習がなかったようで、もう来ていた。でも、ヤスコウチ君の様子が変だった。
「どうしたと、ヤス君?」
 俺が訊くと、ヤスコウチ君の代わりに、サノ君が答えた。
「ヤスの姉ちゃん、知っとるやろ? 姉ちゃんの大事にしてた人形が、あの喧嘩猫に盗られたったい」
 ヤスコウチ君のお姉さんのメグミさんは、俺が家に遊びに行くと、いつも優しくしてくれた。
 そこに、新聞部のイマイ君が走ってやって来た。ヤスコウチ君が6年生、サノ君とイマイ君は5年生で同級生だ。
「喧嘩猫のアジトがわかったよ! ポップコーン売りのオヤジが住んでたボロ家だ!」
 2年ぐらい前から、時々小学校の校門前で、ポップコーンをその場で作ってみせて売ってるオヤジがいたが、ある日を境に来なくなった。そのオヤジは、町はずれの平屋に住んでいたが、今は空き家だ。
「よ~し」ヤスコウチ君が立ち上がった。「喧嘩猫をやっつけるぜ!」
 俺たちは、いったん各々の家に戻り、喧嘩猫と戦うための武器を持って集まった。そこで「アパッチ団」が結成された。
 町はずれの空き家に着くと、サノ君を先頭に中に入った。喧嘩猫は奥の座敷で寝ていたが、目を開け、ゆっくりと身体を起こした。サノ君が竹刀を振り下ろしたが、猫パンチで真っ二つにされた。続いてヤスコウチ君の木刀も折られた。イマイ君と俺は息を合わせ、イマイ君がヨーヨーを放つと同時に、俺はラジコンカーを突撃させた。ヨーヨーは喧嘩猫のひげを切り、ラジコンカーは尻尾をひいた。鳴き声を上げ、喧嘩猫は外へ逃げた。
 メグミさんの人形は、ポップコーンを作る時に使う金網の箱に置いてあった。薄汚れ、片目が無くなっていた。腕も千切れかかっていて、ちょっと不気味だった。
 その後、ヤスコウチ君はサッカーが強い中学校に進学し、サノ君ともあまり遊ばなくなった。イマイ君とは、時々図書館で会うと話すぐらいで、前ほど一緒にいなくなった。
 アパッチって知ってる? とヤスコウチ君が俺に訊いてきて、俺は、アメリカの先住民だね、と答えた。あの日のヤス君の笑顔を、たまに思い出す。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?