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【後編】ラナンキュラス号事件

前編はこちら

◆◆◆

「イケメンニンゲンブロマイドを取られたぁ⁉︎」

通信機の向こうでスガルが叫んだ。岩に縛られたまま通話を聞いていたアトリがこくんと頷く。

「……か、返して欲しかったら自分たちのいう事を聞けって……やり取りはライトを使ったモールス信号で……」

ハナコには思い当たる節があった。ラナンキュラス号を発見する直前、アトリのライトが突然謎の点滅をし始めたのだ。

「あれは調子がおかしくなったんじゃなく、奴らに情報を送っていたのか。我々が待ち伏せしている事、人数構成……その辺りだな?」
「はい、そうです……」

ハナコの質問に、アトリはうなだれたまま頷いた。

「何たる事だ……人魚の裏切りなど前代未聞だ」

通話機の向こうでスガルが嘆息した。会議室の中で天を仰いでいる様子が目に浮かぶ。

「卑劣な連中だ。他人の弱みを握って利用するとは……」

ドリマが苦々しげに呟く。どうやら奪われていた視力は元に戻ったようだ。激昂したのはナマコ姉妹たちだ。

「だからってこっちの邪魔してどうすんのよ! このままじゃアイツら本当に地上に出ちゃうわよ。そうなったらアンタのせいだからね……⁉︎」

怒鳴られたアトリはわっと泣き出した。

「ごめんなさい、ごめんなさいいぃぃぃぃ……!」
「謝るなら最初からやるな──ッ! せめて誰かに相談しなさいよ!」

海底トンネルにアトリの泣き喚く声が響く。ハナコはスガルに指示を仰ぐ事にした。

「ひとまずアトリはこのままにしておいて、残りのメンバーで掘削潜航艇……奴ら曰く<ラナンキュラス号>を追います。よろしいですか?」
「ああ、頼む……状況は非常にまずいぞ。追いつけそうか?」

流石のスガルにも予想外のトラブルだったのだろう。いつもの冷静沈着さが失われ、その声には焦りの色が滲んでいた。

「……確約はできません。しかし全力を尽くします」

実際、追いつける確率は限りなく低いだろうとハナコは推測していた。シュモクザメ人魚やマンタ人魚、カジキ人魚など泳ぎの得意な人魚族ならば別だが、今ここにいるのはいずれも泳ぎの遅い種族ばかりだ。

「わかった。私は地上界に連絡し、奴らが上陸する可能性が高いとミズグモ社長に伝えておく。大騒ぎになるぞ。お前たちは可能な限り奴らの上陸を阻止するんだ。また連絡する」

そう言って通信は切れた。

「聞こえたな? アトリはここへ残す。急いで奴らの後を追うぞ」

一行は直ちに行動を開始した。ラナンキュラス号を追ってトンネルの先へと進む。アトリによる妨害によってかなりの時間を失ってしまった。カニ人たちはすでに掘削再開予想地点である深度2000メートル近くまで到達しているかもしれない。

「ハナコ、あれを!」

ドリマがある方向を指差して叫んだ。行く手のトンネルの壁面に大きな穴が空いている。間違いなくラナンキュラス号のドリルが掘ったものだろう。それを見たハナコは焦りを覚えた。

「まずい、もう掘削を開始したんだ」

既存のトンネルを使う必要がなくなったという事は、すなわちすでに地表が近いという事だ。ポッカリ空いた穴の奥から硬いもの同士がぶつかり合うようなガリガリという音が聞こえてくる。

「まだ近くにいるぞ! 急げ、奴らが地上に辿り着く前に何としても捕まえるんだ!」

ハナコが飛び込んだのを皮切りに、他のメンバーたちも次々に穴の中に進入する。ラナンキュラス号はトンネルの途中で停止していた。あのちょびヒゲカニ人が船外に出て、仲間にあれこれと指示を飛ばしているのが見える。

「急ぐカニ、早くしないと奴らに追いつかれてしまうカニ」

何かトラブルでも起きたのだろうか。ちょびヒゲの声は焦っていた。

「まだ突破できないカニか?」
「駄目カニ、岩盤が硬すぎてラナンキュラス号のドリルじゃびくともしないカニ」
「おかしいカニ。超特注品のオリハルコン製のドリルカニよ? 闇市でこれを手に入れるのに何年バイトしたと思ってるカニ? 計算ではこのラナンキュラス号に貫けない岩盤なんてないはずカニ。きっと電気系統に何らかの不具合があるのだカニ。パワーダウンしてるに違いないカニ」
「何度もチェックしたカニ。電気系統には問題ないカニ」
「じゃあ何で突破できないカニか。地上はもうすぐカニ。こんな所で足止めを食ってるヒマは……」

その時、ふと背後から殺気を感じたちょびヒゲ。振り返った瞬間、鬼気迫る形相で殺到してくる人魚たちの姿が見えた。

「ギャアァァァ来たカニィィィィィ!」

慌ててラナンキュラス号に乗り込むカニ人たち。ハッチが閉まりきらないうちにエンジンが全開になり、振動でちょびヒゲが危うく振り落とされそうになる。

「……っ、とと! もう追いついて来たカニ。とにかくどこでも良いから岩を掘り進んで逃げるカニ!」

前面に装着された花弁型掘削用ドリルが唸りを上げて回転する。だが岩盤に突き立てられたそれは掘り進んでいるようには見えなかった。水中に猛烈な火花を散らしてはいるが、肝心のドリル自体は全く沈んでいかないのだ。

「エンジンが焼き切れても構わないカニ、とにかくパワー全開にしてここから逃げるカニ!」

ラナンキュラス号の船体は爆音と共に異常に振動し始めた。エンジンをフルスロットルにした影響で船体に過剰な負荷がかかり、各パーツが悲鳴を上げているのだ。あちこちから火と煙が吹き出してきた。

「くっ、逃げるつもりだ……! 奴らを止めろ!」

ハナコは叫びながらラナンキュラス号に追いつこうとする。だがわずかに遅かった。ついにドリルの先端が硬い岩盤に沈み、ちょびヒゲの喝采と共に船体が前に進み始めた──その時だった。

「……っ、な、何事カニ……⁉︎」

ぐらり、と地面が揺れた。巨人の大鼾のような地鳴りの音を、その場にいた全員の耳がとらえた。大地の底から響いてくるような、重くて低い音の連なり。まるで何か途方もなく巨大な生き物が唸っているようだとハナコは思い、そのイメージが彼女を戦慄させた。

──いけない。まずい。ここにいるのは良くない。絶対に。

原因不明の恐怖がハナコを襲った。背筋を流れる冷たい汗。本能的な恐怖が呼び起こされる。だがそれはハナコ一人だけに起きた現象ではなかったらしい。周囲を見渡せば、仲間の人魚たちはおろかカニ人たちでさえ、まるで石化してしまったかのようにその場から一歩も動けずにいた。

やがて地面が微かに震動し始めた。カタカタと音が鳴り、徐々に大きくなってきたかと思った次の瞬間、トンネル全体がうねるほどの激しい揺れがハナコたちを襲った。

「退避──ッ! みんな急いで元のトンネルまで戻れ!」

ハナコが叫ぶと、人魚たちは一斉にその場から避難し始めた。壁や天井から崩れ落ちてくる岩盤を避けながら、ハナコも最後尾をひた走る。瓦礫はラナンキュラス号の上にも容赦なく降り注いできた。

「やばいカニ! 後退! 後退するカニィ──ッ!」

ちょびヒゲは急いで船をバックさせようと指示を出したが間に合わず、大きな岩の塊に挟まれて完全に動けなくなってしまった。岩塊の荷重で船体が歪み始める。超希少金属オリハルコンを使用している部分とそうでない部分とで強度に極端な違いが出るため、全体に圧力がかかると脆弱な部分から壊れてしまうのだ。船の内部は特殊なジェルで満たされており、ニンゲンが使う潜水艦のように中空ではないため深海で破損しても瞬時に水圧で圧壊する事はないが、それでも岩そのものの重さには耐え切れなかった。カニ人たちが慌てて船外に脱出する。その直後に天井が崩落し、あたりはもうもうとした土煙に包まれた。

「……っ、ゲホッ、ごほっ……み、みんな大丈夫カニか……? 一体どうなったカニ?」

ちょびヒゲは崩落したトンネル内で目を覚ました。どうやら少しばかり気を失っていたらしい。起きあがろうとすると地面についたハサミがズキリと痛んだ。辺りはまだ濃い土煙が立ち込めていて何も見えない。仲間たちはどこへ行ったのか。ラナンキュラス号はどうなったのか。

「おーい、みんなどこにいるカニ? いたら返事してくれカニ」

呼びかけると土煙の向こうから弱々しい声で反応があった。

「ここカニ……助けてくれカニ……」

ちょびヒゲは喜び、瓦礫の下敷きになっていた同胞たちを救い出した。だが肝心のラナンキュラス号の姿が見えない。周囲を探していると、助け出した仲間の一人が高い場所を指差した。

「あそこじゃないカニ?」

皆が一斉に視線を上に向けた。下からでは影になっていてよく見えないが、確かに土煙の中にラナンキュラス号と思しき巨大な構造物のようなものが見える。だがなぜあんな所にあるのかとちょびヒゲが疑問に思ったその時、ふと地面に奇妙な形の岩が落ちているのに気付いた。表面がゆるやかなカーブを描いたそれは、よく見れば周囲のあちこちに落ちている。まるで一つの大きな塊だったものが、何かの拍子に砕けて散らばってしまったようだとちょびヒゲは思った。

やがて土煙がおさまってきた。仲間の一人が持ってきていたランプを灯す。だが光に照らされたそれは彼らの船ではなかった。複雑に隆起した体節、巨大な口、鋭い牙、禍々しい二本の角、皮膚の表面に走るさざ波のような紋様。その黒い影の表面の一部が縦に裂け、ギョロリと光る円形の模様がちょびヒゲの方に向けられたまま静止した。それが巨大な生物の眼球だと気付いた時には、すでに彼は悲鳴を上げていた。

◆◆◆

一方、落盤から逃れるために元来たトンネルまで引き返してきた人魚たちは、カニ人たちが掘った穴の奥から突如として悲鳴と轟音が響いてきたのを聞き、思わずびくりと体を震わせた。

「な、何……? 今度はなんなの……⁉︎」

ナマコ姉妹が怯えた様子で言う。だがハナコは何も答えられなかった。彼女にも状況が全く掴めていなかったからだ。カニ人たちはどうなったのか。死んだのか。それともまだ生きていてラナンキュラス号で地上へ向かっているのか。これからの行動を決めるためには、まず中で何が起こっているのか正確に把握しなければならない。それを調べようと提案しようとした時、だしぬけにカニ人たちの掘ったトンネルから正体不明の黒い物体が飛んできた。

「……っ、危ない!」

反射的に身をかわす。巨大な質量を持つ物体が体のわずか数センチ横をかすめていき、それにより引き起こされた波でハナコたちは体勢を崩した。吹き飛ばされてきたのは無惨に破壊されたラナンキュラス号だった。船体がめちゃくちゃに破壊され、電気系統が剥き出しになっている。かつて掘削潜航艇だったものの残骸は、壁や天井にぶつかりながら轟音を立ててトンネル内を転がり、ハナコたちから数十メートル離れた所で停止した。

「…………」

不気味な沈黙が流れた。誰も、一言も発さない。目の前で起こっている事態が理解できないのだ。ただ一つだけ、この場にいる全員が理解しているのは、何かとてつもなく不吉な事がこれから起こるだろうという確信めいた予感だけだった。

「ギャアアアアァァァ──ッ!」

突然、土煙の奥からカニ人たちが一斉に飛び出してきた。全員が必死の形相で脇目も振らずに走っている。ハナコたちの存在も意に介していない。いやむしろ気付いていないようにさえ思われた。

「なっ……こら待て、お前たちどこへ……⁉︎」

ハナコは先頭を行くあのちょびヒゲを引き止めようとしたが、彼は逆に切羽詰まった様子で走りながら叫び返してきた。

「人魚ちゃんたちも早く逃げるカニ! ヤバいやつが来るカニ!」
「は? ヤバいやつ……何よそれ?」

ナマコ姉妹のふるこが怪訝そうに呟いた瞬間、岩盤を吹き飛ばしながら山のように巨大な生き物が人魚たちの前に現れた。

「キャアァァァァァ──ッ⁉︎」

ハナコたちは甲高い悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ出す。巨大な生き物は彼女たちの後を追いかけて来た。爬虫類のような鱗に覆われた体はラナンキュラス号よりもずっと大きく、後脚がないため前脚だけで全身を引きずるようにして這い進んでくる。焔のような円環状の物体が頭の二本の角と両腕に一つずつ付いており、それが不思議な力場を生み出しているようだ。

明らかに竜種の特徴を備えた生物だが、ハナコはその個体の素性が全く分からなかった。それほど多くの人竜族と交流があるわけではないが、それでも背後から迫ってくるそいつの姿に見覚えはない。まず間違いなくオトヒメ社長ではなかった。彼女の変身後の姿であるレヴィアタンは実際に目にした事がある。淡水域に住むミズグモ社長とは面識がないが、彼女は主に地上世界を棲家としているから、こんな深海のトンネルにいるはずがない。では一体誰なのか。心当たりがなかった。だがいずれにせよそいつは非常に怒っているように見えた。図体に対してトンネルの幅が狭すぎるのか、壁を破壊しながら無理やり体を捩じ込むようにして進んでくる。

「な、何よアレ、あんなのが出てくるなんて聞いてないんだけど……⁉︎」

ナマコ姉妹の長女・ふるこが叫んだ。彼女たちの種族は泳ぎがあまり得意ではなく、走るのも遅いので皆に置いていかれないように必死だ。その前を後輩のジュウモンジダコ人魚が泳いでいるが、あまりの恐怖に涙を流しているのが見える。その後ろにドリモネマが続き、ハナコは最後尾だ。カニ人たちは少し前を行っている。通常は人魚族よりも泳ぐのが遅い彼らだが、何かに追われている時と可愛い女の子を見つけた時だけは別だ。しかしそれでも先ほどから何匹かが足を取られたり落下してくる岩にぶつかったりして転倒し、そのまま後方からやって来る竜の口へと吸い込まれていった。

「ひいっ……! いやだ、あたしまだ死にたくないです先輩……!」

カニ人が貪り食われるボリボリという音を耳にしたジュウモンジダコ人魚が、軽いパニックを起こしながら叫んだ。

「……っ、喋ってる暇があったらつべこべ言わずに泳ぎなさい! それにアンタそこそこ泳ぐの速いんだから、捕まるとしたらあたしの方が先でしょうが!」

ジュウモンジダコ人魚は一瞬キョトンとした顔をした。

「……あ、そうか。なら大丈夫ですね!」
「クソがっっ! そういう所が嫌いなのよアンタの! いいからとっとと泳げやぁ──ッ!」
「ひいぃぃぃ、ごめんなさいぃぃぃっっ!」

怒りと恐怖でそれぞれスピードアップした彼女たちにつられ、ドリマとハナコもペースを上げて前を行くカニ人たちに追いついた。それに気付いたちょびヒゲが振り向く。

「あんなのが出て来るなんて完全に想定外カニ! 助けて欲しいカニ……!」

しかしこれを聞いたナマコが完全にブチ切れた。姉妹を代表して長女のひるこが叫ぶ。

「はぁぁぁぁ⁉︎ 何ふざけた事言ってんのよ、元はと言えばアンタたちが撒いた種でしょうが。自分らで何とかしなさいよ!」
「アホのナマコ人魚ちゃんなら兎も角、流石に竜種相手じゃ勝負にならないカニ! ラナンキュラス号もペシャンコにされちゃったし、打つ手なしカニ!」

この期に及んでさりげなく罵倒された事でナマコの怒りは頂点に達した。ひるこ、ふるこ、みるこの三人で同時にちょびヒゲを引っ掴むと、その真っ赤な体を頭の上に高々と持ち上げる。

「うわぁぁ何をするカニ⁉︎ やめるカニ! 助けてくれカニィィィ!」
「誰がアホじゃあぁぁぁっっ! それにアンタらの都合なんて知らないわよ! いつもいつも余計な事ばかりして……いいから足止めの一つでもしてきな──」
「待て、ひるこ!」

ナマコが今まさにちょびヒゲを放り投げようとした瞬間、後ろからハナコが鋭く叫んだ。急に呼び止められたナマコはつんのめりそうになりながらも、左右からジュウモンジダコ人魚とドリマに支えられて何とか体勢を立て直した。

「……っ、ちょっと、どうして止めるのよ⁉︎」
「ここでいがみ合っていても仕方ない。それよりもそいつに聞きたい事がある」

ハナコはちょびヒゲを真正面から見据えて言った。その目はどんな嘘も誤魔化しも許さないという強い気迫に満ちている。

「な、何カニか……?」
「この近くに大きなマグマ溜まりがある場所を知らないか? 進行ルートを決める際にある程度の調査はしただろう。できればトンネルのすぐ近くまで迫ってきてるようなヤツがいい」

ちょびヒゲはしばらく考えてから言った。

「……それならここから一キロメートルほど離れた所にあるカニよ。でもそんな事聞いてどうするカニ?」

ちょびヒゲはハナコの意図するところを掴みかねていた。だが彼女にはある作戦があった。最初にそれに気付いたのはドリマだった。

「……ひょっとしてトンネルを塞ぐつもりか?」

ハナコがこくりと頷くと、ドリマは慌てて言った。

「よせ、流石に危険すぎる」
「……まさか、マグマを噴出させてアイツにぶつけるつもりなの?」

二人のやり取りから意図を察したひるこが尋ねると、ハナコはこくりと頷いた。

「無茶よ! いくら私たちでもマグマを浴びたらヤバいって!」
「そうですよ、怪我じゃ済まないかもしれませんよ?」

ジュウモンジダコ人魚も心配そうに言うが、ハナコは頭を振った。

「危険は承知の上だが、他に方法がない。でないと遅かれ早かれ我々はあいつに食べられてしまうだろう」
「それは、そうかもしれないけど……」

まだ何か言いたげなナマコに、ハナコは微笑しながら言った。

「ありがとう。だが私もみすみす黒焦げになるつもりはない。お前のキュビエを貸してくれないか?」
「キュビエ?」
「ああ、それが命綱になる。合図をしたらすぐに引っ張ってくれ。ドリマ」
「なんだ?」
「君がこの中で一番力が強いだろう。牽引役を頼む。岩盤を壊すのは私がやる」

ドリマが渋い顔をする。

「……もし巻き込まれたらどうする? ナマコたちの言う通り、無事では済まないぞ」
「そうならないようにこの役を君に任せるんだ。時間がない……頼む」

ドリマは数秒間黙っていたが、やがてハナコの目を見て頷いた。ナマコに掴まれたままのちょびヒゲもウンウンと頷く。

「任せておくカニ。我々がモンハナシャコ人魚ちゃんをしっかり救出するカニよ」

だがハナコはそんなちょびヒゲに対し、何を言ってるんだコイツは、という視線を向けた。

「いや、お前は私と一緒に来るんだ」
「え……?」
「当たり前だろう。お前がいないとどこを殴ったらいいのか分からないじゃないか」

ダラダラと冷や汗を流し始めたちょびヒゲを引っ掴み、ハナコたちは曲がりくねったトンネルを彼の指示に従って進み始めた。ちょびヒゲの説明によると、大きなマグマ溜まりがある場所というのはハナコたちが入ってきた廃トンネルの入り口と、最初にラナンキュラス号と接触した合流点とのちょうど中間辺りに位置するらしい。そういえば、ここへ入ってきた時やたらと暑い場所があったなとハナコは思い返していた。

背後からは岩盤を掘り崩しながら進んでくる恐ろしい音がずっと聞こえている。進めば進むほど水温はどんどん上昇し、やがてそれは蒸し暑いのを通り越して熱湯の中にいるような高温になった。

「ここカニ! この辺りにマグマの溜まり場があるカニ!」

ちょびヒゲが示したのはいかにも頑丈そうな岩壁だ。周囲の温度はすでに耐え難いほどに熱くなっている。行きの時には他の事に気を取られていて気付かなかったが、過去に何度かマグマが漏出しているのだろう。枕上溶岩と呼ばれる太短いソーセージのような形をした岩石がそこかしこに転がっていた。これは流出したマグマが流れながら冷えて固まった時にできるもので、火山活動が活発な海底や、かつて活発だった場所ではよく見られるものである。

壁や天井にはあちこちにジグザグ状の亀裂が走っている。中からオレンジ色の光が覗いているのは、すぐ下にマグマがある証拠だ。これならいけそうだとハナコは思った。ナマコからキュビエを受け取り、それを自分の体にしっかりと巻き付ける。

「よし、あとは私がやる。みんなは急いで退避してくれ」
「間に合わないと思ったら遠慮なくロープを引け。無茶するんじゃないぞ」
「ああ、分かってる。ありがとう」

ハナコが礼を言ったその時、空間が震えるほほどの咆哮が背後から聞こえてきた。思わず全身が総毛立つ。

「急いだ方がいいカニよ、モンハナシャコ人魚ちゃん。間に合わなくなるカニ」

ハナコはトンネルの向こうに目を凝らした。身の毛のよだつものがゆっくりとだが確実に近づいて来る気配がする。一瞬、闇の中で両目が光ったような気がした。向こうも確実にこちらの位置をとらえている。

「よし、やるぞ!」

恐怖を振り切るようにハナコは叫んだ。ナマコたちがその場から離れるのと同時に、渾身の力を込めて目の前の壁を殴りつける。音速を超えるスピードのパンチは、凄まじいエネルギーを伴って周囲の海水を揺るがせた。

「……っ!」

だが崩落にはほど遠い。もっと、もっと強い力で打ち込まなければ。

「モンハナシャコ人魚ちゃん、竜との距離およそ400メートルカニ!」
「……っ、ハナコでいい! うおおおらぁぁぁぁぁぁ──ッ!」

ハナコは目にも留まらぬ速さで連続パンチを繰り出した。キャビテーションによって生じる気泡が大量に破裂する音が響く。右のダクティル・ヒールに亀裂が入った。激痛に顔をしかめる。だがここで止まるわけにはいかない。視界の端でどんどん竜の影が大きくなっていた。咆哮がさっきよりも大きく聞こえる。もはや一刻の猶予もない。

「残り200メートルカニ! 急ぐカニよ、ハナコちゃん!」
「……っ、まだまだァァァ──ッ!」

激痛をこらえながらハナコは一心不乱に拳打を放ち続けた。打ち込むたびに拳銃を発砲したような音が響く。壁の亀裂が大きくなってきた。ハナコがパンチを入れる度に広がっていき、周囲がオレンジ色の光で満たされ始めた。あと少し、あと少しで──。

「残り50メートル! もう駄目カニ! ハナコちゃん、逃げるカニィィィィィ!」
「まだだ! あと少し……もうちょっとなんだ……!」

だがちょびヒゲの言う通りだった。ハナコの視界が突然暗い影に覆われる。頭上を見上げると、そこには彼女を見つめる二つの巨大な目があった。あまりの存在感と恐怖に全身が硬直する。タイムリミットだった。

「あ──」

縦に裂けた瞳孔が怒りに燃えていた。目の下には小型のボートほどもある牙がずらりと並んだ口が見える。そうか、自分はここで死ぬのだなとハナコは思った。先ほど食べられていったカニ人たちのように、この大きな牙で無惨に噛み砕かれ、呑み込まれるのが自分の最期なのだ、と。

竜の顎がゆっくりと開いていく。眠りを妨げた愚か者に罰を与えるために。ハナコはゆっくりと目を瞑り、やがて訪れるであろう確実な死を予感し、逃れられない運命に身を委ねた。どうか、なるべく苦痛なく死ねるようにと祈りながら。だが──。

「フンッッッッ!」

突然、耳元で何かがブチブチと千切れるような音がした。彼女の体が何者かによって抱き上げられる。びっくりして目を開けると、そこには丸太のように太い腕があった。あり得ないほどに膨張した全身の筋肉があった。ギリシア神話に出て来る巨人のように筋骨隆々とした男の腕の中で、ハナコはいわゆるお姫様抱っこのポーズになっていた。

「…………へ?」

一体誰が、と思って顔を上げると、その逞しい肉体の首から上はあのちょびヒゲのカニ人であった。これこそがカニ人たちの一族に伝わる秘技、持続時間2秒という色々な意味で驚異の身体能力向上形態、<超カニ人モード>である。

「後は任せるカニよ──!」

そう言うと、ちょびヒゲ超カニ人はひび割れた壁に向かって全力全開の右ストレートをぶちかました。目を開けていられないほどの衝撃波がハナコの脳を揺さぶる。ダクティル・ヒールによる連打によって崩壊しかかっていた岩盤は、これで完全にトドメを刺された。壁が粉々に砕け散り、一気に噴き出した大量のマグマがハナコのいる方へ溢れてくる。凄まじい熱と光に目が眩みそうになるが、しかしここで悠長に足を止めている暇はない。なぜならちょびヒゲの体があっという間に元の大きさに戻ったからだ。さっき述べたように超カニ人モードは2秒しか持続できないという制約がある上、終わったら全身筋肉痛になってしばらく気を失ってしまうというデメリットがあるからだ。ハナコはぐったりしたちょびヒゲの体をすばやく掴んで抱き寄せると、間髪入れずに胴体に巻き付けていたキュビエを連続で引っ張った。

「……っ、来たぞ! みんな、死ぬ気で引けぇぇぇぇ──ッ!」

ドリマの掛け声と同時に、待ってましたとばかりの凄まじい勢いでキュビエが引き戻され、ハナコを一瞬にしてその場から離脱させる。赤熱するマグマはもはや壁だけではなく天井からも漏れ出し、そこにいた竜の全身にまともに降りかかった。摂氏一千度を超える灼熱の溶岩を浴び、さしもの竜も苦痛に呻く。大地を鳴動させるほどの咆哮をあげ、滅茶苦茶に暴れて逃れようとするが、体のサイズが大きすぎて咄嗟に方向転換ができず、みるみるうちに大量の溶岩に飲み込まれていく。最後のあがきとばかりに伸ばされた腕もハナコには届かず、彼女は間一髪の所でその鉤爪から逃れる事ができた。

感極まったハナコは雄叫びを上げながらトンネルを脱出した。それを見た仲間たちが歓声を上げて近づいて来る。

「やったわね! すごいじゃない!」
「ギリギリ間に合ったようだな。怪我はないか?」

二人の質問に頷きつつ、ハナコは腕に抱えていたものを見せた。

「彼が最後に助けてくれたんだ」

動かないままのちょびヒゲを見たナマコは目を丸くした。長女のひるこが尋ねる。

「こいつが?」
「ああ、超カニ人になってな。私では壁を破れなかった。彼のおかげで竜を閉じ込める事ができたんだ」
「……そうか、最後に聞こえた衝撃音は超カニ人のパンチだったのか」
「いやいやいやいや、でも元はといえば今回の事件はこいつらが起こしたんじゃないの。それくらいの事はして当然よ」

ひるこの辛辣な言葉にハナコは笑った。ようやく緊張の糸が解け、心に余裕が戻ってくる。もう大丈夫だろう。そう思い、リラックスした途端に地面がわずかに揺れるのを感じた。

「……え?」

海底のあちこちからブクブクと細かい気泡が溢れ出す。ドリマやナマコ姉妹たちも異変に気付き、慌てた様子で周囲を見回す。

「何これ、一体何が起こってるのよ……?」
「これ、もしかして噴火するとかじゃないですよね? ハナコさんがマグマを噴出させちゃったから……」
「いや、それならむしろ圧力は下がっているはずだ。しかしこれは……」

その時、猛烈に嫌な予感がハナコの背筋を走り抜けた。全身の毛穴が開くと同時に、聞き覚えのある音が遠くの方──地面の下から聞こえてきた。あの恐ろしい咆哮が。

「……っ、まずい、みんなすぐにここから離れ──」

直後、ハナコたちの足下の地面が根こそぎ爆発した。大量の土砂と土煙がまるで噴煙のように立ち上り、その中からあの竜の頭が、次に腕が──そして最後にずるりとその全身を現した。

「う……うぅ……」

ハナコは近くにあった岩場に叩きつけられていた。全身を襲う激痛に呻く。何が起きたのか。仲間たちは無事なのか。分からない事だらけだが、彼女にはまず真っ先に立ち向かわなければならない敵がいた。地面に手をついて立ち上がる。右のダクティル・ヒールはついに折れてしまい、感覚がない。だがまだ左腕は動く。それに生きている。

海底面には爆発によって巨大なクレーターができていた。その中心からあの竜が這い出して来る。信じがたい事だが、煮えたぎるマグマの熱さに耐え、竜種の持つ摩訶不思議な力を使って全身を拘束する溶岩ごと分厚い地殻を吹き飛ばしたのだ。まっすぐハナコの方へと近づいて来る。その執念深さに驚嘆の念すら抱きつつ、彼女は左腕だけを胸の前に上げ、ファイティング・ポーズをとった。無論、勝てるわけがない。そんな事は分かっている。だがまだ終わっていない。ハナコの闘志は死んでいなかった。

「…………」

その様子に感じ入るものがあったのだろうか、竜は正面からハナコを見据えたまましばらく動かなかった。ゆっくりと目を閉じ、また開くと、今度こそこの小さな無礼者を叩き潰すため、高く掲げた左腕を勢いよく地面へと振り下ろした。

「……っ!」

確実な死の恐怖に目を瞑る。だがその一撃はいつまで経っても訪れなかった。どこからか不思議な音楽が聞こえてくる。耳に馴染みのない、しかしどことなく東洋的な雰囲気を湛えた音色。ハナコは実は自分がもう死んでいるのではないかと錯覚した。幸運にも苦痛のない死を迎え、天上にあるという世界に迎え入れられたのではないかと。微かに聞こえてくる音楽は死後の世界で奏でられているものであると言われれば、その美しさにも納得がいく。だが彼女がおそるおそる目を開くと、目の前の光景は先ほどと全く変わっていなかった。竜は拳を振り下ろそうとした姿勢のまま固まっていた。

「やあ、どうやらギリギリ間に合ったようだな」

ハッとして声のした方を見ると、キロネックス人魚のスガルがフワフワと漂っているのが目に入った。

「管理官……どうしてここに……? それにこの音は一体……?」

ハナコは状況が全く飲み込めていない表情で尋ねた。スガルはニコリと微笑むと、黙って上方のある一点を指差した。

「あれは……」

そこには天女の羽衣のようにフワリ、フワリと舞い踊りながら笛を吹いている人魚がいた。カメ人魚のにしきだ。

「神楽だ。カメ族は巫女の家系だからな」

ハナコのすぐ近くに降りてきたスガルが言った。

「竜を祀り、音楽や踊りで荒ぶる心を鎮めるのも彼女たちの役目だ。にしきは耳が良い。あの竜が眠りから目覚めた音を聞いて、急いで駆けつけてくれたというわけだ」

カメ族は人魚の中で最も聴覚が優れていると言われている。世界中どこの海で言われた悪口でも、彼女たちの誰一人として決して聞き逃す事はないと。どうやらその噂は本当らしかった。にしきは目を瞑ったまま演奏を続けている。奏でられているのは、とても一本の笛から出ているとは思えないほどの複雑な音色だ。聴いていると体中の痛みや疲労が引いていくような気がした。竜はさっきまでの暴れっぷりがまるで嘘のように大人しくなっている。美しい蝶のように海中を舞うにしきの姿を目で追い、うっとりとした顔で彼女が奏でる音色に聴き入っている。

やがてにしきは竜の顔の前まで近づいていった。思わず呼び止めようとしたハナコをスガルが手で制す。

「大丈夫だ。見ていろ」

にしきは竜に語りかけ始めた。その巨大な鼻先にピッタリと体をくっつけ、ハナコには意味がわからない言葉──古の竜の言葉を囁く。何と言っているのかは分からない。だがそれはまるで母親が子供を寝かしつけている時のような、穏やかで優しさに満ち溢れた光景だった。それからしばらくしてにしきがそばを離れると、竜はおもむろに足下を掘り返し始めた。凄まじい土煙を立てながら地中に埋まっていく。やがてその巨体が完全に見えなくなると、にしきはふうっとため息をついてハナコたちのいる所まで降りてきた。

「もう大丈夫ですよ。お休みを邪魔したこちらの無礼をお詫びし、再び眠りについて頂きました」
「あの竜は一体何なんですか……? オトヒメ社長とも、ミズグモ社長とも違う……管理官はご存知ですか?」
「いや、私も知らなかった。にしきはどうだ。知っていたのか?」
「……申し訳ありませんが、あのお方のお名前を今この場で教える事はできません」
「それはお前たちの一族の職務に関わる事か?」
「ええ……ごめんなさい。しかし一つだけ言えるのは、あのお方はまだ目覚めるべきではなかったという事です」
「他にもあんな竜がいるんですか? この世界のどこかで眠っている竜が」
「いらっしゃいます。然るべき時が来ればお目覚めになるでしょう」

あの竜が眠りについた場所は神域に指定され、今後はカメ族が管理する事になるという。色々あったが、結果的にハナコたちはカニ人の地上進出を防いだのだ。任務は完了したと言ってもいいだろう。

「そうだ、吹き飛ばされたみんなを探さないと。それにあのちょびヒゲのカニ人も」
「土砂の下に埋もれていますが、皆さんご無事ですよ」
「わかるんですか?」

にしきの言葉にハナコは驚いて尋ねた。

「ええ、聞こえますから。早く掘り起こして差し上げましょう」
「そうだ。カニ人には聞きたい事が山ほどあるしな」

ニヤリと笑いながら言ったスガルが、そういえば、と思い出したように付け加えた。

「それに、アトリにもな。特にイケメンニンゲンブロマイドの件については詳しい話を聞かなければならない」
「……あ」

思わず目を見開く。岩にくくりつけたまま放置してきた仲間の事を、その時までハナコはすっかり忘れていた。

◆◆◆

海界を騒がせた「ラナンキュラス号事件」から数日後、フィリピン海底警察署の取調室に座っていたのはあのちょびヒゲのカニ人だった。向かいには管理官のスガルがいて、この数日間でとった調書の束を弄んでいる。

「意外だったカニ。てっきり懲役百年くらいは喰らうのかと思っていたカニよ」

スガルは笑った。

「ナマコたちはそのくらいするべきだと言っていたがな。君にはハナコの命を救ってもらった借りがある。これはそれに対する礼だと思ってくれ」

スクラップ帳のようなものをパラパラとめくりながらスガルは言った。そこには顔立ちの整ったニンゲンのオスの写真が所狭しと貼り付けられていた。

「それに、君はもう共有記憶にアクセスできないんだろう? 我々としてもこれ以上君を拘束しておくメリットはないのだ」
「なるほど、納得したカニ。ハナコちゃんは元気カニ?」
「おかげさまでね。右腕の怪我も治って無事に現場に復帰したよ」
「それはよかったカニ。復職おめでとうと伝えて欲しいカニ」
「うむ、承知した」

ちょびヒゲは押収されていた荷物を受け取ると、スガルに連れられて取調室を出た。保安官たちが普段仕事をしている事務所の中を通り過ぎるが、今は全員出払っているのか誰もいない。

「君はこれからどうするんだ?」

見送りの途中でスガルが尋ねた。

「それが悩みの種カニ。なぜか裏切り者判定くらったっぽいから故郷のマリアナ海溝にも帰れなくなったカニ。孤独カニ。おつとめ終えたのにえらい仕打ちカニ」
「意外に薄情な種族なんだな。裏切り者判定を喰らうとどうなるんだ?」
「カニ人は裏切り者を許さないカニ。いずれ追手が差し向けられるカニ」
「おいおい、命まで狙われるのか。カニ人というのも楽じゃないな」
「そうカニよ。基本ハードボイルドな人生カニ」

やがて二人は出口へと辿り着いた。

「それじゃあここで失礼するカニ。スガルちゃんにも色々とお世話になったカニ」
「……ちょっと待ちたまえ」

背を向けて歩き出そうとしたちょびヒゲを呼び止める。

「ん、どうしたカニ?」
「君、うちで働いてみる気はないか?」
「…………カニ?」

言われている意味が分からず、ちょびヒゲは首を傾げた。

「カニ人が、海底警察で働くって事カニか……?」
「そうだ。嫌かね?」
「いやいやいやいや、嫌とかそういう話じゃないカニ。あり得ないカニ。なんでそうなるカニか」
「うちも今は人手が足りなくてね。ちょうど迷子の部下を探しに行ってくれる人材を探していた所なんだ」

フィリピン海底警察のさまよえる保安官、カイコウオオソコエビ人魚のマリアは、ラナンキュラス号事件の途中から行方不明になり、あれから数日経っても署に帰還しておらず、目下捜索の対象となっていた。

「先日、希望峰の辺りでそれらしき人魚の目撃情報があった。おそらくその周辺にいるのだろう。君には彼女の捜索隊の指揮を任せたい。やってくれるとこちらとしては非常に助かるんだが……どうかな?」
「……ちなみにお賃金の方はどのくらい出るカニ?」
「公務員だからな。大した額は出せないが──」

スガルが提示した金額は、どうやらちょびヒゲを満足させるものだったらしい。

「その話、乗ったカニ」

スガルは満足げに頷いた。

「交渉成立だな。えーと……そういえば君たちの種族は個人という概念がないんだったな。何と呼べばいいんだ?」
「名前カニか? 好きに決めてくれていいカニよ」
「そうか? それでは……」

スガルはしばらく考えていたが、やがて彼にピッタリだと思う名前を思い付いた。

「──ラナンキュラス。君を表すのにこれ以上の名前はあるまい。どうかね?」
「なるほど、いいカニね。変な名前付けられたらどうしようかと思っていたカニ」

スガルは笑った。

「こんな形で誰かの名付け親になるとはな。ではついて来てくれ──君の制服と帽子、それから保安官のバッジを与えよう。捜索隊の皆に紹介もしないとな。主に新人たちで構成された部隊だ。彼女たちも、そして君にとっても、うちで働く上での良い経験になるだろう。しっかりやってくれ」
「了解したカニ。これからよろしく頼むカニよ、ボス」

ちょびヒゲ改めラナンキュラスはくるりと踵を返すと、スガルと二人で談笑しながら海底警察署の中へと戻っていった。

(完)

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