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竹箆返し

ひとけのない山道で、男は立ち止まった。
誰かに見つめられているような気がしたのだ。
首をめぐらし、後ろを振り返る。
懐中電灯のぼんやりとした明かりの中には、今来た山道があるばかりだった。
男の他には、誰もいない。

「──気のせいか」

訝しげに呟いたが、それも束の間、男はまた歩き始めた。
先ほどよりも、ほんの少しだけ早足で……。
時刻は、もう間もなく日没を迎える頃合い。
町の盛り場で飲みすぎ、帰るのが遅くなってしまった。
この辺りは昔から妖怪変化が出ると噂されるいわくつきの土地である。
そのことに思い至り、自然と足が早くなったのだ。

「ったく、嫌だなあ、一度考えると、そればかりが頭から離れなくなる」

その時、行手の方向からガサガサと物音がした。
はっとして、男はその場に立ち止まる。
今度は間違いない。
何者かが息を殺して、こちらを窺っているような気配だ。
明らかに視線を感じる。
お化けや妖怪に怖がるような歳ではないが、それでも男は動くことができなかった。
理屈ではない。
本能的な恐怖が体の奥から湧き上がってきていた。

闇中から「もし……」と声がしたのは、そんな時だった。
あやうく懐中電灯を取り落としそうになる。
あわてて光を振り向けると、照射された森の一角に、何やら煌びやかなものが揺らいでいるのが見えた。
ぶっとい注連縄を七五三の「かのこ」のように頭に巻きつけ、そこに大きな花を一輪あしらった髪飾りだ。
そんな異様なものを銀糸を撚り合わせたような長髪に飾りつけ、歳の頃は十四、五と思われる赤い和服姿の少女が、にわかに闇中より現れ出たのであった。

「ちょいと、お兄さん……」

その涼しい声色に得体の知れぬ妖しさを感じて、男は怯えた。
鼠色の肌がぞっとするほど奇異ではあったが、よく見れば尋常ならざる美しさを持つ少女である。
絵画に描かれた天女のように整った顔立ち。
宝石のような空色の瞳。
ツンと上を向いた厚ぼったい唇は、常日頃なら思わず見惚れてしまうほどの艶やかさに濡れ光っていた。

しかし、それでもなお、男はその少女に人ならざるものの気配を感じ取っていた。
こんな時間に、こんな場所で、このように異様な風体をした少女がふらりと現れるわけがない。
十中八九、もののけの類。
男はそう確信していた。

「ちょいと、お兄さん。あたし、道に迷ってしまってねぇ。山寺へはどう行けばいいか、ご存知?」

首を傾げながら、少女は男に近づいてくる。
一歩、また一歩と進んでくるたびに、頭上の髪飾りが揺さぶられ、男の中で恐怖が増していく。

「ねえ、お兄さんったら、聞いてるの……?」

じりじりと寄せてくる乙女の、はだけたその胸元には異国風の入れ墨があった。
男がその見慣れぬ紋様に目を奪われている間に、少女は三歩と離れていない距離にまで迫っていた。
思わず二、三歩、男は後退る。
その態度に、少女も勘づいた。

「なんだ、お兄さん、もう気づいてたのかい」

声音が、先ほどまでとは違っていた。
瞳が、にわかに妖しげな光を放つ。

「あたしが、人間じゃないってね──ッ!」

そして、猛然と目の前の男に飛びかかった。
懐中電灯の明かりが、少女の全身を照らし出す。
その腰から下は、蛇体であった。
両腕も乙女の細腕とはまるで違う──それはまるでトカゲかカナヘビの前脚を巨大にしたような、鉤爪を思わせる禍々しいものであった。

「ひいィィィィィ、ば、化け物──ッ⁉︎」

男は、たまげるような悲鳴を上げ、その場から逃げ出した。
異類と化した少女は、しばらくその背を追いかけていたが、やがて追跡をやめ、手近にあった大木によじ登ると、死に物狂いで斜面を駆け下りていく男を見て、腹がよじれんばかりに大笑いした。

「アハハハハハハッ! やった、大成功! あの怯えた顔…………最ッッッ高!」

◆◆◆

少女は、ツチノコ人爬という人外の種族だった。
普段は『アガルタ』という地下世界に住んでいるお寺の娘だが、生来刺激に飢えている性質で、時折こうして地上に現れては、退屈しのぎに人間を驚かせて遊んでいるのであった。

「いやぁ、先生にも見せてあげたかったなー」

場所は変わって、山上の神社。
簡素ながらも立派な造りの拝殿の前で、先ほどの蛇体の少女が地面に座り込みながら、心底愉快そうな顔で酒杯を呷っていた。
その頬は熟れた林檎のように赤らみ、とろんとした瞳で体面に座した『先生』に話しかける。

「あのびっくりした顔……これだから人間おどかすのはやめられませんね」
「──ほどほどにしておきなさいよ。あんまり調子に乗っていると、今にしっぺ返しを食らうわよ」

呆れたように言ったのは、人爬とは種族が異なれども、これまた人外の存在であるキツネ人獣であった。
人間の女の上半身に狐の下半身を併せ持ち、神々しい幾本もの尾を持つ彼女もまた、アガルタから地上にやって来た者の一人だった。
ツチノコよりも長く生き、また早くから地上へとやって来ていたキツネは、いわば人生の『先生』として、刺激を求めるあまり羽目を外しがちなこの少女に、色々とアドバイスをしていた。

釘を刺されたツチノコは、はーい、と首をすくめ、ペロリと二股に分かれた舌を出した。
その様子に、キツネはハァ、とため息をつきつつ、自らもまたちびちびと舐めるように酒を呑んだ。
このおてんば娘になまじ説教などしても、ほとんど何の効果も及ぼさないということを、これまで幾度となく思い知らされてきたのである。

「そういえば、人間の様子も随分と変わりましたね。提灯も変な形だったし」
「……あれは提灯じゃなくて、懐中電灯。火ではなく電気を使って明かりを作り出しているのよ」

話題を変えようとしたツチノコに、キツネが答えてやる。
人間たちから神聖な存在として祀られ、崇め奉られているキツネと違い、ツチノコは地上に常住しているわけではない。
アガルタと地上を不定期に行き来しているのである。
そのため、人間の新しい技術については、ツチノコよりもキツネの方がはるかに詳しかった。

「デンキ? へぇー、そんなのがあるんだ。いきなり照らされて、目が眩んじゃった」
「前に来たのは十五年ほど前だったものね。無理もないわ」
「十五年……そっか、そんなに前でしたっけ? あたしが向こうにいる間に、大きな戦があったんですよね?」
「そう。ついこないだまでね。人間の歴史上、他に類を見ないほど大規模な戦いが……。いなくてよかったわ。見ていて楽しいものではなかったから……そうだ、戦といえば、あなたたちの国はどうなってるの? まだ虫の国とやりあってるの?」
「あ、そっちはもう終わりました。前の王朝がクーデターで崩壊しちゃって、今は武家と公家でいがみあってる感じで──」

ふむふむ、と興味津々な様子で耳を傾けるキツネ。
ずっと地上にいるキツネは、逆にアガルタの近況に少し疎いところがある。
こうして教え子から土産話を聞くのも、彼女の密かな楽しみの一つであった。

「……ってな感じで、どんどん窮屈になってるんですよ、ウチの国。ヤバくないですか?」
「まあ、それは確かに大変ね。特に、あなたにとっては困った状況なんじゃない? 楽しみが減ってしまって」
「そうなんですよー、だからもう、正直あまり帰りたくないっていうか……こっちにいる方が楽しいかなー、なんて思ったりもして」
「あら、ダメよ。お寺の大切な跡取り娘なんだから、ちゃんと向こうでも修行しないと。お父様がお嘆きになるわ」
「えぇー、いいんですよウチの父は……古いし、ダサいし、なんにもいいとこ無いんだから」
「こらこら、よしなさい。実のお父様をそんな風に言うもんじゃないわ」
「だってー……こないだなんてひどかったんですから。あたしが何度言っても……」
「まあ、そうなの?」

キツネは思わずクスクスと笑い、その反応に気をよくしたツチノコは、さらに話を続けた。
人獣と人爬、種族を超えた師弟の久方ぶりの酒宴は、明け方近くまで終わらなかった。

◆◆◆

「…………ん」

翌日の昼すぎ、ツチノコが目を覚ますと、山上の神社にキツネの姿はもうなかった。
竜種を祀る神職である彼女は色々と忙しい身なので、朝早くからどこかへ出掛けてしまったのだろう。
いつのまに寝入っていたのかは覚えていないが、ツチノコの体の上には、キツネが用意してくれたのであろう暖かい毛布がかけられていた。
寝乱れた衣服や髪を整え、心臓が止まりそうなほど冷たい水で顔を洗い、よし、とツチノコは気合いを入れた。
準備はばっちり。
さあ、今日はどんな人間をおどかしてやろうか。

◆◆◆

「うわあぁぁぁ、出たあァァァァ──!」

素っ頓狂な叫び声が樹間に響く。
恐怖に血走った両目をかっと見開き、灌木の茂みをかき分けながら夜の森を疾走するのは、歳の頃十七、八歳と見える若者。
その背中を十メートルほど遅れて追いかけてくるのは、髪を振り乱し、恐ろしげな姿を装ったツチノコ人爬である。

「待てえぇぇぇぇ──ッ!」

両手を振り上げ、牙を剥き出しにしながら、ツチノコは内心おかしくてたまらなかった。
昨晩の男の反応もなかなかのものだったが、今度のはまた格別だ。
ここまで怖がってくれるなら、半日ずっと山の中をうろついていた甲斐もあるというもの。
ようやく見つけた獲物、できるだけ楽しみは長く味わいたいと思い、ツチノコはいつもより長くその若者の背中を追いかけていた。

「ひっ、ひいッ、まだいる、まだ──⁉︎」

哀れ、飽き性の人爬の暇つぶし相手に選ばれた若者は、半狂乱になって走る、走る、走る。
そのすぐ後ろに蛇体をくねらせた妖女が迫る。
目の前には小さな崖。
落ちても死にはしないだろうが、飛び降りるには少し勇気がいる。
だが、死の恐怖に突き動かされた今の若者にとって、多少の崖などは問題ではなかった。
ためらわずに飛び、軽やかに着地したのは流石の若さがなせるわざか。
追手の様子はどうかと振り返り、かろうじて手放さなかった懐中電灯の光を向けると、先ほどまで確かについてきていたはずのもののけ娘の姿は、一瞬にして幻のごとく消え去っていた。

「…………?」

若者一人が、その場に残されていた。
あたりは一面、暗い闇。
鳥の声も、虫の鳴もなく、ただ漆黒の闇のみが彼を取り囲んでいる。
もしや、いなくなったのか。
自分を追いかけることに飽きたか、あるいは縄張りの外に出たか……。
妖怪変化の理屈などまるで見当もつかないが、とにかく何がしかの理由で、あのもののけは自分を追うのをやめたのだ。
そう思い、若者はホッとため息をついた。
その瞬間、

「──バァっ」
「……ッ⁉︎」

蛇体を木の枝に絡ませ、ふいに頭上から現れたツチノコ人爬の間近で見る異様な姿に、若者はついに恐怖の極点に達し、失神した。
頭を打ちつけて怪我をしないように、くずおれる体をツチノコは優しく抱きとめ、そのまま地面に横たわらせてやる。

「おっとっと、ちょっとやりすぎちゃったか。ごめんね。あとでちゃんと人里の近くまで送ってあげるからね」

そう言って、んー! と伸びをした。
まだその瞳はキラキラと輝き、口角は吊り上がったままだ。
どうやら、予想以上に楽しかったらしい。
気絶した若者には悪いが、彼は一級の遊び相手だった。
これまでに出会ったどんな人間よりも。
本人は嫌がるだろうが、時間をおいてまた遊びたいと思えるほどの手応えを感じていた。
次はどんな風におどかしてやろうか。
どんな仕掛けを施してやろうか。
そんなことをアレコレと考え、興奮状態にあったツチノコ人爬は、死角から何かが近づいてきているのに気づかなかった。

「…………え?」

唐突に、一筋の強烈な明かりが、ツチノコのいる辺りを照射した。
いきなり浴びせかけられた膨大な光に、視界が全くきかなくなる。
懐中電灯の何十倍も強烈と思える光。
それはトラックのヘッドライトだった。
続いて、とてつもない轟音──クラクション──が、彼女の耳を聾する。
激しい光と音に一種のショック状態となったツチノコは、咄嗟に身をかわすことができず、そのまままともにトラックに轢かれることとなった。

「きゃあぁぁぁ──ッ⁉︎」

バツン、バツン、と硬い布袋を引き裂くような音がして、ツチノコの体がトラックのタイヤに二度踏みしだかれる。
衝撃で吹き飛ばされ、道路から少し離れた木立の間をゴロゴロと転がった。

「あ…………れ…………?」

全身が痛み、視界が霞む。
体が動かない。
視界の端で、彼女を轢いたトラックが停車するのが見えた。
運転手が慌てた様子で降りてくる。
彼は道路脇に横たわっている若者を発見し、ひどく動転するだろう。
人殺し、実刑、刑務所──様々な思いが頭をよぎるに違いない。
だが、若者にはまだ息がある。
それに気づいた運転手は、おそらく彼を病院に連れて行くだろう。
担当医は、運転手の言い分と若者の状態がまるで食い違っているのに首を傾げるはずだ。
なぜなら、どこにも轢かれた跡などないのだから。

「……そういえば、車ってのがあるんだっけ……先生、言ってたな……」

そう言いながら、ツチノコの意識は闇の中へと吸い込まれていった。

◆◆◆

教え子の危機を感じ、出先からとんぼ返りしてきたキツネが森の中に横たわっているツチノコを発見したのは、事故のあった翌日の朝のことだった。
山上の神社で意識を取り戻したツチノコは、アガルタに帰るまでずっとべそをかいていた。
トラックに轢かれたことによって、彼女の自慢の蛇体はその大部分がぺちゃんこになってしまったのだ。
そのことが恥ずかしいやら、轢かれたのがトラウマになってしまったやらで、キツネが交通安全のお守りを与えてやるまで、ツチノコは毛布にくるまったまま神社の外に出ようとしなかった。

「…………これは?」
「お守り。あなたがもう二度と車に轢かれませんようにって、私の神通力を込めたの。これがあればもう大丈夫。肌身離さず持っていなさい」
「……うん、わかった。持ってる」

ぎゅっとお守りを掴んだまま離さないツチノコを見て、キツネは半ば呆れたように微笑んだ。
まるで子供に戻ってしまったかのようだ。

「ほら、しっかりして。いつもの元気はどうしたの。あなたらしくない」

そう言って、キツネは大きな洞窟までツチノコを見送りに行った。
そこがアガルタに通じる秘密の通路の入り口なのだ。
目を真っ赤に泣き腫らした少女は、片手にお守りを握りしめたまま、「バイバイ、先生」と言って洞窟の奥へと消えていった。

その背を見送りながら、キツネは思った。
今は気落ちしているが、あれもそう長くは続かないだろう、と。
少し時が経てば、またけろりと元の調子を取り戻すはず。
存外強い子なのだ、あのおてんば娘は。
それに──。

「可愛い教え子の顔が見られないのは、なんだかんだで寂しいものですからね……早く元気になって、いつでもこっちに遊びにいらっしゃい。先生は待っていますからね」

そう独りごちて、キツネが軽やかに身を翻すと、にわかに一陣の風が吹き、その姿は霞のように消えてしまった。
後はただ、ぽっかりと口を開けた洞窟の闇だけが残っていた。

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