MASA

1967年生まれ。岐阜県関市在住。町工場社長を11年務め、渾沌とした状態を組織の中に許…

MASA

1967年生まれ。岐阜県関市在住。町工場社長を11年務め、渾沌とした状態を組織の中に許容する『渾沌経営』を行ってきました。現在は社長を退任し「出来てしまう空気感」を日々観察中。 知的障がいの息子は24歳で他界。

最近の記事

そのうちニューヨーク

「そのうち」と聞いて皆さんはどう感じるだろうか。ネガティブな感情や態度として使われることが多いと思うこの言葉に私はポジティブな可能性を感じている。 タイパやコスパなど、いわゆるパフォーマンスやリターンを予測した評価基準に慣らされてしまった私たちは、早急に答えを出すことが評価につながったり、問題解決という実感を伴う満足感を得ることがあるため日々奔走してしまっている。 そのため問題や課題というものを探し、解決するべきだと目標設定をしたり、そのための順序や枠組みまで考えてしまう

    • 日々は常ではないような

      コロナに罹患した。なかなかしんどい時間を過ごしなんとか回復したが、体力の無さを今更ながら実感している。夫婦順番に罹患していき、”いつ罹ってもしょうがないよね”と少しばかりの余裕もあった。 「コロナ禍」と言われた時期は数年に渡り人々が口にしていたと思うが、思い出すとそれが始まった時期には私はまだ経営者であり、知的障がいの長男と認知症が進んだ母親と同居していた。自分の環境が変わったのだという実感をひしひしと感じる。 今はもう長男・母ともに存在としてこの世にはいない。 コロナ

      • しないのっ!

        この言葉を見た時に強い安堵感を覚えた。親としては誠に身勝手なセリフではあるが、そう感じてしまったことに間違えはなかった。”息子の言葉を聞いた”と勘違いしたとも言えるが、そうなのかもしれないと私自身が想像を巡らしていた内容だった。そうであったら良かったと思いたかったのかもしれない。 息子と暮らしの中には、悩ましいことや怒りに似た悲しみは私の日常に溢れていた。なぜ悩ましいのか?悲しいのか?その心を持っているのは私自身であって”彼”の中には全くその要因とするものはない。私の奥底に

        • 磁足

          世の中には垂直に立った”モノ”は目に見える範囲で無数に立っている。家の中では壁や建物そのもの。一歩外に出てみれば建物だけではなく標識、看板などありとあらゆる”モノ”が垂直方向に向かって施されている。小さいものだと縁石や車止めは低いけれども壁を形成している。 そんな垂直に立って平面を遮断するあらゆる壁たちが磁気のようなものを発していて、歩いていると足がそれにくっついてどうしても離れないということがあるだろうか? 長男は歩き出しのタイミングで壁などに足の側面を当てながら進む。

        そのうちニューヨーク

          平たんなうねり

          落ち着く、整う、心穏やか。 どれも今の心境を表す言葉にはならないけど、なんとなく心の”うねり"と"うねり"の波間は平たんになっている。 明るく努める、元気よく努める、前向きに努める。 どれも今気にしている事柄を表す言葉にはならないけど、なんとなく衝動の”うねり"と"うねり"の波間は平たんになっている。 まだまだ頻繁に起こる”うねり”を観察しながら、その”うねり”の間隔は広くそして低くなったと感じている。落ち着いているとか混乱しているとかのどちらににも当てはまらない平たんな景

          平たんなうねり

          まちが映る

          地域の方々の協力もあり、アート展「渾沌の中の調和Ⅱ」の会期を終えることができた。昨年に引き続き今年もこの時期に向き合うことになるのが、”これはアートなのか、そうではないのか”、“障がいであるとか健常であるとか”という他者や自分からの問いである。少ししんどい引っ掛かりを抱えたまま長男の2月の命日に向かっていくというのが昨年からの流れである。 「伝えたい」という思いが希薄な私ではあるが、岐阜県障がい者芸術文化支援センター(TASCぎふ)と共同主催のイベントを開催するには、最小限

          まちが映る

          境界線

          2023年2月10日〜23日。岐阜県関市において「渾沌の中の調和展Ⅱ」の開催に至った。岐阜県障がい者芸術文化支援センターさんと共催したアート展である。その一部は完全メタバース内展示とした。 なぜ私がメタバースに興味を持ったのか?それは「自閉症という知性」という書籍の中に仮想空間の中で活き活きと活躍する自閉症の方々の物語があり、興味を持ったからである。書籍の主題は「ニューロダイバーシティ(神経構造の多様性)」というもの。脳のバリエーションは人それぞれで、それを活かすことによっ

          境界線

          こころのもよう

          アフォーダンスという言葉をご存じだろうか?ある方の文献でこの言葉を知った私は興味を持っていた。 デザインなどにも用いられる概念で、引く・押すを直感的に促すドアの形状であったり、ボタンやレバーなど意識しなくとも促されてしまうことはある。大自然の中にも物質的な中にもその作用は活きていて、人はそれに無意識的に影響を受けている。そう、私たちは環境・物質・自然・人と関わり、アフォーダンスの中で生かされている。匂いで季節を感じたり、水のせせらぎに落ち着いたり、山々を見て荘厳さを感じたり

          こころのもよう

          ハシワタルベカラズ

          「このはしわたるべからず」一休さんの有名なお話である。 この物語は ”端を歩いてはいけない” と読み替え ”真ん中を堂々と行く”という頓智が効いたお話であったと思う。今の世の中「どちら側をどの方向を目指して歩くのか?」と問われる風潮がある気がしてなんだか落ち着かない。正義は相反している両方にとって大切な正義であるから、どっちに賛成するのかという問いがあるだけで根本的に解決しない。一休さんのように堂々と知らんぷりしながら真ん中を歩いてみたいものである。中道とか中庸という概念が

          ハシワタルベカラズ

          見つめる先の未来

          「しょうがいをみつめる」という連載の話をいただいた。そのタイトルが気になって考えていた。いったい何を見つめたらいいのか。そもそも障がいとはいったい何なのか。 言葉。とりわけ名前は分別するために生まれたという。「私」という一人称は、「私以外」と分別するために。犬と犬以外を分別するために犬という名がある。それを仮名(けみょう)と言うそうな。言葉の世界は相対して「分別」する相手を明確にする関係を創り出しているのかもしれない。 生と死、天と地などを言葉によって分けてはいるが、どち

          見つめる先の未来

          春は悲しき

          春の芽吹きの時期が終わりに近づいている。草木は鮮やかに緑をたたえ夏の訪れを感じさせている。清々しい。 私にとっては”もの悲しい”季節でもある。 春に向かう2月には関市で初の開催となるアウトリーチ展(主催 TASCぎふ、NuNo SEKI)から始まり、なんでそんなんエキスポなど、”春とひとのあわい”にいる長男を今年も強く感じることができた。 1年前も同じような”もの悲しさ”を感じる時期であった。そして今年は母親が逝った。母が逝った春も息子が逝った春からも”今”は未来。未来

          春は悲しき

          こね~ くと

          岐阜県関市にある、とある建物…本町BASEにて「コネクト Vol.2」が開催される。告知は下記の通り。 コネクト vol.2  あ、それでいいんだ。  これもアリですか?   はい、アリアリですね 笑 【日時】2021/7/31土-8/31日 10:00〜16:00 【会場】本町BASE/岐阜県関市本町6丁目4番1(大垣共立銀行向い) TEL:0575-36-1391 【駐車場】市営安桜山駐車場 【主催】関 彩 / (仮)関市本町おもしろ会 【問合せ】事務局:大建met(

          こね~ くと

          在ると無い

          「あることないことを言う」という言葉があるのだよ。最近そればっかり考えている。 「ある」ことは言えるよね当然。「ある」のだから。 「ない」ことはどこにあるのだろう。 言葉にできるから、どこかに「ある」ことになるんじゃないか?「ない」って。 などと、うだうだ考えているのが好きである。 言葉というのは分別するために生まれたらしい。私の名前であれば、私と私でないものを区別するために。 世界(宇宙かも)は、もともと分別などなかったと容易に想像できる。ただドロドロしたものが交

          在ると無い

          人と春のあわい

          ある文献に心ひかれた「仕事」として絵を描くとは、どうゆうことか。セザンヌの言葉によると「感覚を実現すること」。彼が強い意志をもって、ものを見ようとすればするほど、ものの方が、彼をじっと見つめる。 その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。そのふたつの出会いそのものをキャンバスの上に色彩で顕わにしろと彼は自然そのものに求めらられる。 「狭い己の内なるちからから、ありありとした世へと広がりつつ。自分自身のこころそのものを顕

          人と春のあわい

          無題

          2021年2月27日その日は突然にやってきた。長男である慧正(アキマサ)が急逝したのである。享年24歳。現在私はは七七日忌法要を終えて、未だ”けむ”の杜の中をさまよっている。さまよっているのではあるが、その道筋にははっきりとした光を感じ、そして迷うことなくその”けむ”の中を歩いている。 愛別離苦仏教でいう「四苦八苦」の中のひとつで、愛するものとは必ず別れなければならない。そう、人生一切皆苦、諸行無常を叩きつけられたのである。いろいろなものを手放したつもりでいたのではあるが、

          無題

          君の姿が絵に描けない

          心に刻まれた君の最後の姿 暗闇のベッドの梁に佇むように 静かに座ってい待っていた 缶を片手にコンコンコン 母は傍でもう寝息をたてている 君は静かに座って斜め横を見てる 缶を片手にコンコンコン あれ?まだ寝てないのか? 静かに座って僕を待ってるの? 缶を片手にコンコンコン 一緒に寝ようか?待ってたの? 君はにっこり微笑み横になる コンコンコンと缶を置く にっこり抱きついてきた君は ケラケラと笑いながら眠りについた そんな姿を絵に描こうとしてみた でも、僕にはそ

          君の姿が絵に描けない