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磁足

世の中には垂直に立った”モノ”は目に見える範囲で無数に立っている。家の中では壁や建物そのもの。一歩外に出てみれば建物だけではなく標識、看板などありとあらゆる”モノ”が垂直方向に向かって施されている。小さいものだと縁石や車止めは低いけれども壁を形成している。

そんな垂直に立って平面を遮断するあらゆる壁たちが磁気のようなものを発していて、歩いていると足がそれにくっついてどうしても離れないということがあるだろうか?

長男は歩き出しのタイミングで壁などに足の側面を当てながら進む。家の中であれば壁に足をドン、ドンと当てながらその通りの幅を確かめるように進む。スーパーの駐車場に車を停めた時などは、隣の車のタイヤに足の側面を当てたりするので、”させないように”ヒヤヒヤしながら進んだものだ。

時にはその壁面に足が磁石のようにくっついてしまうようで、どれだけ彼の手や身体を引いてもその足は一定時間を経過するまで離れない。自分の意思で離さないようにしているという見方が”常識”ではあると思うのだが、本人の少し困ったような表情や私たちに引っ張られて身体が前のめりになっても、大股で股が裂けそうになっていても、くっついた彼の片足は離れてくれないように見えた。

行動に障がいがあるというチンケな言葉で簡単に隅に追いやられる彼らの見せる”非常識”は、私たちの持っている”常識”というものをいとも簡単に揺さぶってくる。揺さぶられてもなお、自分の”常識内”で理解しようとしてしまう自分はよく出没した。時折り自分の常識を揺さぶってくれる長男の存在は、私自身が自分の”常識”という檻の中で生きて窮屈にしているんだなと感じさせてくれた。しかし、人はまた自分の居心地の良い檻の中に戻っていく。そんなことを繰り返し感じていくのが生きていくということなのかもしれない。

ほんの些細な「足が壁にくっついてしまう」という彼の日常は、彼にとっては常識的で窮屈なことだったのかもしれない。だって、足が壁にくっついて離れないのだから。

常識、非常識で分けて見ているから私たちの目に留まりやすい行為であって、全ての人は何かにこだわったり、ついついしちゃうことに困ったり、やめようとしたり、ワクワクしたりもしながら生きている。見えないように隠しながら、折り合いをつけながら。それが人の営みのようにも感じる。人々をあえて混ぜることもなく、共に居させることでもなく、意識せずに違いが「在る」ということを確認し合えば、自分たちが閉じこもっている”常識”という檻の隙間は広くなって、もっと出入りしやすくなるような気がする。

呼吸など自然に委ねていることから始まり、何でもない動きや情動であっても、ひとつひとつが生きているということ、「表現」と呼ばれるものだろうと思う。たまたま絵に描いたら”アート”と呼ばれる表現のひとつとなるのだろうが、「足が壁にくっついてしまう」のも「彼が生きていてこそ」であって、それは彼の紛れもない「表現」であった。

常識や非常識という区別を無意識的にしている自分を見出すことができれば、世の中は混ぜなくとも既に渾沌としており、それはバランスよく個々の「表現」という形をとりながら調和していくような気がしている。

※渾沌=荘子によると、物事の区別がなく人の手が加えられていない未分化な状態で、無為自然のことを意味している。


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