見出し画像

50centについて

こんにちは、前回はアメリカのラッパーであるEminemについてまとめていきました。今回は、Eminem同様Dr Dreとの交流も深い50cent(フィフティー・セント)についてまとめていきたいと思います。

50centは、アメリカのラッパー、俳優、、企業家、エグゼクティブプロデューサー、プロボクシングプロモーターと多岐にわたり活躍をしています。
エグゼクティブプロデューサーとは、プロデューサーより上の職業で、管理職や幹部にあたるものです。
 
そんな50centは、1976年にニューヨークのクイーンズ区ジャマイカで生まれました。父親不在で生まれ、母親も幼少期のうちに亡くしてしまいます。そうして、少年時代はハスラ(ドラッグの密売人)としてあらゆる悪事に手を染めてしまいます。
そんな時に、50centに息子が誕生します。そのことが転機となり、ラップに対して真剣に取り組み始めます。
 
50centという名前は、当時のブルックリンの伝説的ドラッグ・ディーラーの名前から頂戴したものです。
そんな中で、50centの才能を見込んだ、Jam Master Jay(ジャム・マスター・ジェイ:JMJ)というアメリカのブルックリン出身のDJが、50centに小節の数え方、曲作りなど音楽について教えました。

しかし、JMJは50centのことを放してしまいます。ですが、すぐに当時ヒットを連発していたプロデュース・チームであるトラックマスターズが拾い上げ、アメリカレーベルの一つであるColumbia Records(コロンビア・レコード)と契約します。

彼らは、50centに曲作りに集中するようスタジオに2週間半缶詰状態にします。その短期間で36曲書き上げ、その曲はインディー盤「Power Of A Doller」にまとめられます。
 
そうして曲作りに没頭する中、2000年4月に50centは9か所銃で撃たれることになります。この出来事で身の危険を感じた50centは、Columbia Recordsの契約を解除してしまいます。そのような状況になっても50centは、曲を書き続けます。
 
そして、ビジネス・パートナーであったシャ・マニー・XLと共に話題作りのために完璧なミックス・テープ用に30曲以上を録音し、2001年の春の終わりに、アルバム「Guess Who’s Back?」をリリースします。それによりストリートでの信頼を得た50centは、自身のHIPHOPクルーであるG-Unitを結成します。それにより、更にヴァリエーションに富んだ曲を作り、ヒット作を生み出す能力を見せつけます。
 
以上で、今回のまとめを終了します。次回からも50centについてまとめていきたいと思います。