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【感想】『科学的とはどういう意味か』から「サイエンス」の意義を問い直す

こんにちは、白山鳩です! クルッポゥ!

マガジン『本を読んだら鳩も立つ』での本のご紹介です。


前回の記事はこちらです。↓↓↓


さて今回は、森博嗣さんの著書『科学的とはどういう意味か』から、

そのタイトルとおり、「科学的という言葉の意味」を見ていくとともに、

経営学における「サイエンス」の言葉の意義について考えていきます。



1つの記事あたり、だいたい5分で読めますので、お気軽にスクロールしてみてください!

ただし、ネタバレ注意です!


「科学」という言葉

さて、森博嗣さんといえば、

模型飛行機を飛ばしたり庭園に鉄道を引いたりするための金が欲しいなあ

という動機で、大学に勤めている間に、バイト感覚で小説家になったという稀有な経歴の方です。


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「作品のプロットを事前に文字で起こすようなことはせず、頭の中を出力しながら小説を書く」

「1時間に5000字タイピングする」

といったそのバケモノ級の能力で、100冊以上の小説を出版しているほか、数多くの新書も出版しています。


さて、今回取り上げる『科学的とはどういう意味か』のは、そんな森博嗣さんの著書の1つです。

同書のまえがきには、こんなことが書かれています。


(前略)それはともかく、「科学」という言葉を知らない人はいないだろう。

もの凄く頻繁に使われている言葉だ。
それなのに、いったいどういうものを「科学」と呼ぶのかというと、それに明確に答えられる人は少ない

(実際に僕の周囲で軽く調査してみたが、「どうしてそんなことをきくの?」という目で見られるだけだった)。


たしかに、これだけ「DX」だの「ICT」だのとテクノロジーがもてはされている時代だというのに、

「そもそも科学とは?」

ということを考える機会は少ないように思います。

言葉を使っているというより、言葉に使われているかもしれません。


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科学というものをぼんやりとしか認識できていない人が多い中、

「まあ、大勢の人が考えている流れに乗っかっておけば無難でしょ」

という考え方を、同著は次のように批判します。


考えれば自分勝手になってしまうから、あまり考えない方が良い。
素直に感じてしまうと、自分だけ浮いてしまうかもしれないから、なるべく感じないように、と感情を遮断してしまう。

人の感情を口では重んじているけれど、実はその分だけ自分の感情が遮断されているのだ。
そういう人が大勢いるように観察される。

そして、そういう人ばかりになると、
みんなが周りばかりを気にして、
笑えば良いのか、
怒れば良いのか、
と不安な顔を見合わせることになる。


そんなところで、誰か一人がぼそっと呟くと、みんながそれに同調して一気に大きな流れになることもある。
一方的な見方、短絡的な意見であっても、大勢が同じ方向へあっという間に集まり、メータが振り切れてしまう。
そういう現象が起こりやすくなる。

(中略)

そうならないためには、一人ひとりが、いつも自分で考え、自分で感じることが大切だ。
こんなごく普通のことで、社会は全体として落ち着き、冷静な集合体となるはずである。


「自分の頭で科学的に考え感じることができないまま、大きな流れに巻き込まれているだけの人間が多い」

という点を批判しているわけですね。


科学は「信じる」ものではない。

さて、森博嗣さんは、

「幽霊はいると思いますか?」

という疑問文を通して、「科学的な態度」と「主観」を切り分けることの大切さを説いています。


まず、この「いると思いますか?」という質問が変なのだ。
僕がどう思っているのか、ということは、ものの存在とは無関係なのである。

おそらく、「幽霊の存在を信じますか?」ということがききたいのだと想像するが、この質問でもまだおかしい。
何故なら、ものの存在というのは、「信じるか信じないか」という問題ではない。
自分の目で見たからといって考えが変わるわけではない。
自分がどう感じようが、また自分が信じようが信じまいが、
科学的か非科学的化の評価には影響しないのである。

そもそも、科学は「信じる」ものではない。
「正しそうだ」という予測はできるし、
研究の当事者ならば、「真実であってほしい」という願望もあるだろう。

でも、「正しい」と信じるものではない。
信じても、正しさが確かになるわけではないのだ。


個人が「正しいと信じる」ことは自由でしょう。

しかし、それを「科学的な態度」と結びつけることは難しいわけですね。


科学的というのはどういう方法か

では、そもそも「科学的」という言葉はどのような意味を持ち、

「科学的に考える」にはどうすればいいのでしょうか。


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まず、科学というのは「方法」である。
そして、その方法とは、「他者によって再現できる」ことを条件として、組み上げていくシステムのことだ

他者に再現してもらうためには、数を用いた精確なコミュニケーションが重要となる。

また、再現の一つの方法として実験がある。
ただ、数や実験があるから科学というわけではない。

個人ではなく、みんなで築き上げていく、その方法こそが科学そのものといって良い。


科学の重要なキーワードとして「再現性」というものがあります。

これは、「誰がやっても、そのとおりのことが起きる」という意味です。


「私はこう信じる!」「私はこうだと思う!」

と個人が勝手に主張するのではなく、

「事実として正しいか」「定理として成立するか」

などをみんなでチェックするのが科学だと同書は主張しています。


(前略)このように、科学というのは民主主義に類似した仕組みで成り立っている。
この成り立ちだけを広義に「科学」と呼んでも良いくらいだ。

なにも、数学や物理などのいわゆる理系の対象には限らない。
たとえば、人間科学、社会科学といった分野も現にある。

そこでは、人間や社会を対象として、「他者による再現性」を基に、科学的な考察がなされているのである。


科学を目の敵にする人たち

しかしながら、世間には、

世の中全てを解き明かせると思い上がっているのは、科学の傲慢さだ!

と考えている人も一定数いるように見受けられます。


特に、歳をとればとるほど、

世の中にはな、科学じゃわかんねえこともあるんだよ……

と、年下の人間に対して言いたくなってくるものではないでしょうか。


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さて、そんな考えに対し、同書は次のように反論します。

しかし、科学を目の敵のように言う人もいる。
「科学ですべてが説明できるのか?
そんなふうに思っているのは科学者の傲りだ」と。

それは違う。
科学者は、すべてが説明できることを願っているけれど、
すべてがまだ説明できていないことを誰よりも知っている。
どの範囲までがまあまあの精度で予測できるのかを知っているだけだ。

しかし、科学で予測できないことが、ほかのもので予測できるわけではない。


世の中全てを解き明かせると思い上がっているのは、科学の傲慢さだ!

というのは「科学」の意味を勘違いした言葉であり、


世の中にはな、科学じゃわかんねえこともあるんだよ……

というのは「じゃあ、科学以外の何ならわかるの?」に答えられない、というわけですね。


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そう考えれば、科学者は「科学なら全てが解決できる!」と考えているというよりは、むしろ謙虚そのものではないでしょうか


傲慢さがあるのはむしろ、

科学には分からない領域を、自分たちなら解き明かせる

というニュアンスを言外に持とうとしている非科学的な人たちの方だと鳩は思うわけです。


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同書の中で、森博嗣さんは自身の小説『喜嶋先生の静かな世界』を引用しす。

世間の大部分の人はね、貴方みたいな数式ばかり考えている人は、頭がおかしいって思っているわけ。
本当だよ。面と向かって言う人だっている。
そういうのを考えるのは、人間としての心が欠けているって思っているわけ。
心が欠けているから、人の気持ちを察することができないって思っているわけ。
だから、無差別殺人なんか起こったら、どうしてあんなことをしたんだって話し合って、結局は、犯人は人間としての心がなかったって結論を出して安心するの。
そういう人が大部分なんだから」

「知っているよ」

「変だよね。
そうやって、心みたいな言葉を持ち出さないといけないっていうのがもう変だよね。
みんなが変なんだよ。
数式を一所懸命考えている人って、みんなのことを認めているのに、
人間の心がどうこうって言う人は、数式を考えている人を認めないじゃない。
他人を認めない人の方が、人間として、なにか欠けているんじゃない?」

「みんなではないよ。そういう人もいるかもしれないね」


科学を笠に着た人たち

それでも、

科学的ではないかもしれないけど、なにか気持ち悪いんだよ!

という感情を持つことはあると思います。


たとえば、

神社からもらったお守りを切り刻んでください

と言われて、いい気分がする人は少ないでしょう。


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「中に紙が入っているだけのお守り袋を切り刻んでも、人体に影響はない」

というところまでは、科学的な態度です。


しかしここで、

だから、切り刻んでも問題ないでしょう?
ほら、早く切り刻んでくださいよ。

と言っているのは、科学ではなく、科学を笠に着た人間ではないか、とも思うわけです


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この問題は、2021年現在、

「原発の処理水の処遇をどうすればいいのか」

「コロナのワクチンを打つべきかどうか」

といった形で立ち現れていると思います。


重要なのは、

「どのような影響があるのかという事実」を科学は語っているということ。

一方で、「人の中に沸き起こる感情を、科学は否定も肯定もしていない」ということです


ですが世の中には、科学的な事実を説明されたときに、

それが自分の考えや信念と異なる結論を導くものだったときは特に、

私の、この感情まで否定するつもりか!

と怒る人がいます。


「科学的とはどういう意味か」を考えれば、事実の説明を受けいれられるでしょうし、立ち止まって考えるための道具が増えるのではないでしょうか。


科学的であるにはどうすれば良いのか

さて、科学的という言葉の意味や意義について、ここまで見てきました。

では、科学的であるには、どのような心掛けが必要になるのでしょうか。


言葉だけで理解している気にならず、思い込みを極力避ける。
そのためには、いつも疑いつづけること。
情報を広く求め、吟味したうえでも、きっぱりと割り切るような結論を出さない。
そして、常に疑問を持つこと。

科学なんて面白くない、と思う人でも、ときどき、この科学的な姿勢を思い出してほしい。
生き方が少し変わる(できれば良い方に)かもしれない。

自分も、これくらいならばできるのではないか、と探してみるのも良いだろう。
実に些細なこと、そして手間のかかることの積み重ねでも、正しいものを着実に積み重ねていけば、途中で崩れる心配はない、というのが、科学の慎重さの理由である。


これは最初にも指摘されていた、

周りばかりを気にして、笑えば良いのか、怒れば良いのか、と不安な顔を見合わせる」

とは真逆の態度であり、

まさに「一人ひとりが、いつも自分で考え、自分で感じること」の大切さそのものです。


科学は発展しすぎた、科学が環境を破壊し、人間は本当の幸せを見失っている、という指摘はよく聞かれるところである。

しかし、この場合の「科学」とは、そのまま「社会」や「経済」と言い換えてもほぼ同じ意味であり、
単に諷刺的姿勢で、警告を発している気になっているだけの物言いである。

言葉は何とでもいえる。
しかし、言葉では何一つ解決しない。

科学の存在理由、科学の目標とは、人間の幸せである。
したがって、もし人間を不幸にするものがあれば、それは間違った科学、つまり非科学にほかならない。
そして、そうした間違いを防ぐものもまた、正しい科学以外にないのである。


サイエンスの価値を問い直す

ここで、『MBAが会社を滅ぼす』というビジネススクールが聞けば発狂しそうなタイトルの著書でも有名な経営学者・ミンツバーグの、ある考えをご紹介しましょう。


ミンツバーグはマネジメントに必要な3つの要素を、

「アート」「クラフト」「サイエンス」

だと分類しました。

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マネジメントの3要素(一部抜粋)


さて、ミンツバーグが指摘したのは、

「分析、分析ばっかりのサイエンス重視で、アートとクラフトをないがしろにしているようなMBA生ばかりが集まると会社は滅びる」

という内容です。


サイエンスでは解き明かせない領域も存在する、というわけですね。


この考えは一定の指示を集めていますし、


『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』

『天才を殺す凡人』

といった有名な本にも引用されています。


この「サイエンス・アート・クラフト」の3分類は、「サイエンス」偏重のビジネススクールに牽制をかけるためのものでした。

しかし一方で、どうも最近は「アート」というものが極端にもてはやされ過ぎているのではないかとも思う鳩です。


「アートを何かに役立てようという動き」自体もあまり賛成したくはないのですが、

と同時に、「アートはすばらしい! だから、サイエンスをおろそかにしてもいい」というような雰囲気も感じてしまうのです。


さて、ここまで記事をご覧いただいたみなさんには、

科学、すなわちサイエンスの意味をご確認いただいた上で改めて、

「サイエンス・アート・クラフト」

の関係性を眺めることができるのでは、と思います。


「事実において、どこまでが明らかになっているのか」

という事実をまずはしっかりと把握する。


そして、「科学的に判断できる領域はどこまでなのか」を見定めた上で、

「科学的に判断できない領域に対して、どのような姿勢で向き合っていくのか」を考えていく。


そんな態度が、ビジネスにおいても必要なのでは、と思う鳩でした。


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まとめ

さて、ここまでの内容をまとめましょう。

自分の頭で科学的に考え感じることができないまま、大きな流れに巻き込まれているだけの人間が多い
個人が「正しいと信じる」ことは、「科学的な態度」と関係ない。
科学とは、「他者による再現性」を基にした考察
科学者は、すべてがまだ説明できていないことを誰よりも知っている。
どの範囲までがまあまあの精度で予測できるのかを知っているだけ。
「科学的に判断できる領域はどこまでなのか」を見定めた上で、
「科学的に判断できない領域に対して、どのような姿勢で向き合っていくのか」を考えていくことが大切。

みなさんも、「科学的とはどういう意味か」を立ちどまって考えてみてはいかがでしょうか。


次回「本を読んだら鳩も立つ」では、森博嗣さんの著書の感想が続きます。

短編『キシマ先生の静かな世界』から、学問の「王道」とは何かを見ていきます。


お楽しみに。

to be continued...


参考資料

・ヘンリー・ミンツバーグ(池村千秋訳)(2006)『MBAが会社を滅ぼす~マネジャーの正しい育て方』、日経BP社


・森博嗣(2011)『科学的とはどういう意味か』(幻冬舎新書)


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