宝塚記念は父の日


 もう一人の自分がいる。
 目の前にいる。
 そいつ、というか〝俺〟は線路の向こう側で若かりし頃の親父に肩車されていた。
 
 目を開けるのすら憚られるほどの日差しが容赦なく自分に照りつける。俺は思わず手をかざして陰を作った。梅雨の季節だというのに、雲は一向に仕事をする気配はない。
 見渡す限りの青の下、俺は昨日買ったばかりのビジネスバッグを置くと、不慣れな手つきでネクタイを緩めた。
 久しぶりに就活で帰ってきた地元の駅。改札を抜けてすぐにあるロータリーは多少舗装されていたが、近代化と無縁な姿は相変わらずだった。ロータリーの真ん中には花壇と謎の銀のオブジェがそびえ立つ。そしてその下にある地図の看板はかなり昔に作られたものなのだろう。随分と色褪せてしまっている。

 視線を前に戻す。踏切の音だけが陽炎のように響き渡る中、親父の上ではしゃぐ小さかった頃の自分。しかしそんな幻を見ても決して驚きはしない。
 それはなぜかって? それは昔から何度も見かける光景だからだ。

 笑いながら話す親父の右手には二つのビニール袋が下げられていた。おそらく中身はタオルやスポンジの類いだろう。
 土曜日の夕方になると、よく親父が銭湯に連れていってくれた。話の種は決まって競馬で、俺は全然興味が無かったけど、その日のレースを熱く語る親父は何となくカッコいい気がした。銭湯の帰り道、二人並んで飲んだコーヒー牛乳は格別だったのを覚えている。
 ところが、そんな楽しい日々はそう長くは続かなかった。母親と離婚して以降、親父とはめっきりと会わなくなってしまったからだ。
 最初のうちは本当に仕事の都合だと思っていた。でも今思うと離婚の準備段階だったのかもしれない。
 親父が単身赴任をしてから一年とちょっとたった頃だろうか、トントン拍子で離婚の話は進められていった。

 電車の音が少しずつ大きくなってくる。
 近づいてくる気配すらどこか古臭くて、無理やり走らされている印象さえ受けた。ついつい感傷的に目の前を見過ぎていたせいで、少し線路に近いかもしれない。俺は一歩後ろに後ずさった。
 ――シャリ。
 ん? 何かを踏ん付ける音。足元を見ると、まだ真新しいであろうチラシが目に入った。
 『父の日フェア開催!』
 でかでかとこれみよがしに書かれているゴシック体の謳い文句。宣伝広告なんだから目立つのは当然といえば当然か……。
 赤い字で書かれた日付を見ると、もうすでにその日は過ぎていた。そうか父の日は先週だったっけか。
 電車が通り過ぎると緑の木々が揺れ、それと同時に人の群れも動き出す。携帯電話片手に横を走り抜けるサラリーマン、おどけて歩く制服姿の男女、おばあちゃんと手をつなぎながら風船を持って歩く女の子。みんなそれぞれの思いを胸に散らばってゆく。
 
再度目の前にいる父親を見遣った。
 ――父の日。母の日ほど印象が薄いのは今も昔も変わりない。
 当時は母親からお金をせびってネクタイやハンカチを渡していた記憶がある。今思うとプレゼントじゃないな……。お金の発生している元が親父の金だし。
遮断機が上がっても微動だにしない二つのシルエット。若い頃の親父は視線を必死に下へ下へと向けていた。そこにはガキだった俺を包み込むような暖かな表情がある。
 よし、もう遅くなったけど、久しぶりにプレゼントを渡そう。今度はちゃんと自分の稼いだお金で。
 
 とはいえ、今さらネクタイやハンカチをあげるだなんて照れくさい真似はもう出来ない。
 多分親父は今でも競馬のことを考え続けているだろう。馬のタイピンなんかいいかもしれない。そんなものがあるか知らんけど。
 あ、そうだ馬券もプレゼントしてやろう、俺の初馬券。
 線路に立ち止まる二人を横目に走り抜ける。俺はこの持ち慣れていない真新しいバッグを置くため一度実家に戻った。

 玄関を開けると猫がそっけない態度で出迎えてくれた。手を向けてやると一目散にリビングに入っていってしまう。
 自分の部屋に荷物を置いてそそくさと階段を下りる。すると再び猫と目が合った。だがやはりというべきか、久しぶりの再会だというのにそれを待ち侘びていたような素振りは一切見せない。
「あら、おかえり」
 今度はリビングから顔を出して母が現れる。昨年から妹も一人暮らしを始めたので、母は猫と一人(二人?)暮らしだ。
「ただいま」
「帰ってくるならメールの一つでもしなさいよね。誰かと思って毎回びっくりするんだから」
 母はエプロンで手を拭きながらしかめっ面を作る。
「俺と杏子以外鍵なんか持ってないだろ」
「……まあそうなんだけどさ。でも分かっててもびっくりするものなのよ。で、外暑かったでしょ? 今麦茶入れてあげるから座って待ってなさい」
 パタパタとスリッパの音。
 テーブルの上にあった新聞を取り、ソファーに座る。しばらくすると母はコースターの上に麦茶を置いてくれた。
「最近あんたの父さん、岩田さんのとこには行ってるの?」
――岩田さん。それは俺の親父のことである。離婚してから母は親父のことを上の名前で呼ぶことが多くなった。少なくともただお父さんとは言わなくなった。必ず枕詞に『あなたの』が付く。
「もう何年も行ってない。でも、今日は特別な日だから今から久しぶりに行ってくるよ」
「ふ~ん。せっかくだから私も行こうかと思ったけど、親子水入らずの時間を邪魔するのも悪いかしらね」
 そう嫌味っぽく言い残すと、冷蔵庫を開ける音が響く。奥から何かを取り出しているようだった。
「これ持ってって、あんたの父さんが好きだったお酒だから」
 渡されたのはビニール袋に入った一本の缶ビールだった。
「はいよ」
 俺は新聞を置き麦茶を一気に飲み干すと、ソファーから立ち上がった。
「何もう行くの?」
「ああ。ちょっと寄りたいところがあってさ」
「そう。気を付けて行ってらっしゃいね。あと一応お父さんにもよろしく」

 最寄駅から電車を乗り継いでWINS(場外馬券販売場)を目指す。親父とも何度か行ったことがあるので、場所はちゃんと記憶していた……と自分では思っていたつもりだったが、最後は競馬新聞を持っている年配者の群れに付いていって何とか辿り着いた。

 それにしても物凄い量の人がひしめき合っている。お祭りか、はたまた何かのイベントか……。それが率直な感想だった。
 多分大きいレースがあるのだろう。最近はテレビでさえ見ることがなくなってしまったので、知識についてはめっきりである。
 入口近くで買った競馬新聞に目を通す。一面には『宝塚記念』という赤い文字が躍っていた。
 ――宝塚記念。競馬の詳しくない俺でも名前くらいは知っている。
 
 親父ならどの馬を買うだろう……。競馬新聞と睨めっこしながら、俺は想像を巡らせた。何度か親父の馬券成績を見たことがあるが、かなり儲かっていて、良く万馬券を当てていたのを思い出す。
 暑さから逃げるように張り付いたクーラーの下でうんうん唸っていると、持っている新聞に陰ができた。思わず顔を上げる。するとそこには一人のオジさんが突っ立っていた。
「なんだ兄ちゃん、予想にお困りかい?」
 齢五十過ぎといったところだろうか、ハンチング帽で耳に赤ペンを差している姿は正に競馬ファンそのものだった。
「競馬は記憶のスポーツ。過去のレースにヒントは転がってるよ」
 赤ペンで指した先には過去の成績が書かれている表があった。
「はぁ、そうですね」
 適当に頷きながらその表をざっと眺める。やがて一頭の馬の名前が目に飛び込んできた。
 ――タマモクロス。
 それは何度も聞いたことのある名前だった。親父がこの馬の大ファンで、よく昔話をしていたのを覚えている。しかし、そもそもタマモクロスってどんな馬なのだろう。
「このタマモクロスって馬は結構強い馬だったんですかね?」
 少しの間。そしてすぐさまオジさんの表情が曇った。オジさんは赤ペンで頭を掻きながらわざとらしい溜息を漏らす。
「何だお前、タマモクロスも知らないのか。強いも何も超有名な馬だよ。知らなかったら、それこそもぐりって言われるぞ」
 オジさんは後ろの大型テレビを親指で指差す。そこには過去の宝塚記念の映像が流れていた。若干不鮮明な映像はすぐに昔のものだと分かった。

――タマモクロスが先頭! リードは一馬身くらい。ニッポーテイオーは二番手。タマモクロスゴールイン!――

 一九八八年。宝塚記念を制したのはタマモクロスだった。その神秘的で真っ白な馬体とは裏腹に、騎手の大きなアクションに応える力強い走り。でも顔はどこか涼しげで余裕すら感じられた。
「この年は凄かったな~。オグリキャップというアイドルホースとの対決は、芦毛対決って呼ばれて物凄い盛り上がりだったんだ。初めての対決は秋の天皇賞だったかな。タマモクロスが八連勝してオグリを破ったんだけど、正に無敵状態でその時の……」
 話が長くなりそうだったので、適当に相槌を打って強引に今年の宝塚記念の話題に戻した。
「宝塚記念の攻略法ってありますか?」
 ――攻略法。初心者丸出しの言い草に自分でも笑いそうになる。
「攻略法ねぇ。う~ん、この宝塚記念ってレースは宝塚記念で好走した馬の子どもが活躍するっていうのはあるかもしれん」
 なるほど。血は争えないってわけか。
「アーネストリー、ブエナビスタ、ドリームジャーニー……近年馬券に絡んでいる馬は父親がこのレースで二着以内に入った馬が多い」
「ってことは、じゃあタマモクロスもいいってことですかね?」
「う~ん、まあそうだけど、もうタマモクロスの子どもはいないよ」
 ……子どもはいない。そうか、もうタマモクロスは大昔の馬だから、子どもは走っていないわけか。
「あ、でも一頭だけタマモクロスの血を引く馬がいるぞ」 
オジさんはそう言うと俺の手から競馬新聞を奪い取り、指を差した。そこには……
 ――ヒットザターゲット。馬名と書かれた欄にはそう記されていた。そして血統の欄まで動く指の軌道を追う。
 ――母父タマモクロス。
 母父? それは聞き慣れない単語だった。
「母父だから母方の父親、つまり祖父がタマモクロスってことだな」
 なるほど。
「あ、じゃあ僕この馬にしますよ」
「え? ヒットザターゲットにするのか?」
「はい!」
 オジさんは両肩に手を置き、罪人をたしなめるように言う。
「悪いことは言わないからこの馬はやめとけ」
俺は目を少しずつ下に降ろし、その馬の成績を見てみる。一着、一着。お、二回連続で勝ってるじゃないか。
「でも、二回連続で勝ってますよ!」
「まあ確かに勢いはあるかもしれないが……今回とは相手が違いすぎる。今年はオルフェーヴルって馬がいてだな」
「今連勝中ってことは、これはタマモクロスの再来ですよ!」
 真剣な表情を察したのか、それ以上オジさんは何も言わなかった。
「今日は色々教えていただきありがとうございました!」
「うん。……でも、やめといた方がいいと思うけどな」
「では僕は寄るところがありますので!」
 オジさんの静止を振り切り、馬券売り場まで急いだ。
 
 お姉さんから塗り方を教わって初めて買った馬券は、やはり分かりやすい単勝馬券となった。馬券中央には『ヒットザターゲット』という文字が光り輝いている……ような気がする。
 馬名の通り馬券も仕留められたら嬉しいんだけど。でも今見たらオッズ六十倍も付いてるしこれは無理かもな。親父に予想を見せたら鼻で笑われそうだ。
 さてと、プレゼントの馬券も買えたし、レースが始まる前に親父のとこに急ごう。

 地元の駅に戻り、バスに乗り込む。
 それからバスに何分間揺られていただろうか。気付けば乗客は俺一人となっていた。片手にはWINS近くの雑貨屋で買った馬のタイピン、もう片方には母親からもらったビニール袋が握られている。
 窓から流れゆく景色はどこか懐かしい。田舎の小学校を見るだけで、そこには通ってもいないのに昔を思い出してしまう自分がいた。

 バスを降り、目的地を目指す。母親からもらったビールはかなりぬるくなってしまったかもしれない。そういえば親父と酒を酌み交わすのは初めての経験だ。
 田舎道を歩いていくとやがて少し開けたところに出た。そこから見える空は相変わらず青く、山の奥に控える雲とのコントラストが美しい。バス停から歩いて十分。ようやく目的地に辿り着いた。
 
 まっすぐ前を見つめる。そこにあるのはただの灰色で無機質な石だ。まだ一回しか来たことなかったが、列の一番奥にあったから場所は覚えやすい。
 目の前にある石に向かって俺はゆっくりと一回転して見せた。
「スーツ姿、結構様になってるだろ? たまには褒めてくれてもいいんだぜ」
 目の前の石には俺の大事な人の名前が刻まれている。
『岩田清司』
 そう、風呂が大好きで競馬が大好きでビールが大好きで、そして俺のことも大好きでいてくれた大切な親父の墓である。

 一陣の風が通り抜ける。
 緑に囲まれているせいもあって同じ風でもどこか涼しい気がした。
 俺は持ってきたビニール袋からビールを取り出し、墓の上からかけてやる。そして残ったビールに自分も口を付けた。
「乾杯」
 墓石の端に缶ビールを当てる。親父が好きだったビールはぬるくて苦かった。
 ……と、そんな悠長にしている場合ではない。慌てて時計を見ると、時刻は三時四十分を回っていた。
「やべっ。間に合わない間に合わない」
 俺はすぐさま携帯を取り出し、ワンセグ機能に切り替えて墓の上に立て掛けた。ついでにその横に競争馬のタイピンも置いてやる。
 画面からレースの発走を告げるファンファーレが流れ、競馬場に駆け付けたファンが新聞を叩いて盛り上がる。
「良かった、何とかレースに間に合った。でも親父の予想を聞く暇が無かったかな」
 競争馬たちがゲートの中に促されると、ゲートが開き一斉にスタートした。俺は単勝馬券を握りしめながら必死にヒットザターゲットを目で追った。
 残り八百メートル。う~ん、手応えはあまり良くなさそうだ。
 
 ――オルフェーヴル復活! 今一着でゴールイン!――

 オルフェーヴルが一着。ヒットザターゲットは馬群の中だ。
「あ~オルフェーヴルって馬が勝ったか。あのオジさんが言ってた通りになっちゃった」 
 ヒットザターゲットは惨敗。ここでタマモクロスの血が騒ぐことはなかった。それと同様に俺に流れているであろう馬券師?の血も騒ぐことはなかった。現実はかくも厳しい。
「あーあ。ヒットザターゲット負けたか……。親父の前で一度馬券を当てる姿を見せたかったんだけど。まあいいや、来年もリベンジしに来るからよ。それまで待っててくれよ、親父」
 最後手を合わせて一礼すると、俺はバス停へと歩き出した。

 その帰り道、まだ水分の残る頭を掻きながら、俺は古ぼけた電車の風に身を委ねた。
 もう幼かった頃の自分を見ることもないだろう。
 遮断機が上がると同時、そこには誰よりも好スタートを切った俺がいた――。

記事がためになりましたら、ご支援いただけたら嬉しいです。ご支援はMラジのサーバー代、ステッカー代等の維持費に使わさせていただきます(^^)