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春に「ウッ」となるはなし

先週誕生日を迎えたとき、母からメッセージカードをもらった。その中で母は、わたしの誕生日を「冬と春のちょうど真ん中の日なのかも、と毎年思う」と言っていた。たしかに、いつの間にか刺すような寒さはどこかへ行き、日差しは柔らかさを増している。洗濯物を干すためベランダに出れば花の香りが漂って来て、時間の進み方までスローモーションになったかのような、のどかでのんびりとした空気に包まれる…というような日が増えた。

そんな「春」の色が日に日に強くなるにつれ、わたしは少々落ち着かない気分になる。わたしにとって「春」はソワソワと浮かれた季節のように感じられ、そのソワソワ感が少々苦手だった。おそらく、毎年春が来るたびにこの感想を抱いている。

重いコートを着用する必要がなく、花がたくさん咲く春という季節自体は嫌いではない。ただ、春から想起されるモノが苦手だった。たとえば卒業式、入学式、新入社員、歓迎会、異動・転勤……。ありていに言えば、春とは出会いと別れの季節。そこに発生するイベントや、人々の様子(期待や不安、高揚に包まれた状態)が、わたしは苦手だった。というより、苦手なのだとつい最近やっと自覚した。

たとえば、卒業式。
別れを惜しんでか、急激に距離が近くなり手を取り合うクラスメイトたち。写真撮影、寄せ書き。たいして親しくもなかった者同士が、笑顔と涙の入り混じった顔で会話を弾ませている様子。そこに招き入れられる自分。調子のいい言葉。でも頭の片隅には、今日このあと誰と帰るか、この”惜しむ”をいつ切り上げればいいのか、なんてことを考えている。そして結局一人きりで帰路をたどる寂しさ。

入学式はどうだろう。
最寄り駅から学校に行くまでの緊張。前を歩く生徒が、自分と同じクラスなのか考える。名前順に座らせられた生徒、教室。どんな人間が同級になるのか、チラチラと周りを気にするクラスメイトたち。自意識過剰。隣に座る生徒に頑張って話しかけるべきか、手に汗を握りながら自問自答。初めて「昼」をまたぐ授業があるとき、その昼休みが近づくにつれ気が重くなること。クラスの確固たるポジションにつくべく、調子に乗った生徒の耳障りな冗談。

社会人になってもそうだ。
どんな顔をしてオフィスに入っていけばいいか、エレベーターの中で考える。向けられた視線に、下手な笑顔。新しい仲間と交流を図るべく、連れ立ってランチに行くこと。メニュー表を見ながら、自分だけが注文を決められない。自己紹介を求められ、背中に汗をかく。質問にうまく答えられない。繰り広げられる会話のぎくしゃくさ。そして緊張を壊すためのある種の予定調和、一斉の笑い。

……なんだかそういったことが思い出されて、心が「ウッ」となるのだ。

はたから見れば、むしろこれらはすべて微笑ましい、好意的に取られるイベントの数々だと思う。または、わたしが悪い側面にばかりスポットを当てがちなのかもしれない。
もちろん、春になるたびにこういったイベントの思い出を鮮明に思い出すわけではないけれど、冬の終わりと春の訪れを察知するたびに、この苦手の数々たちがわたしの鼻をかすめる。これはもう条件反射ともいえるだろう。そして完全に余計なお世話なのだが、春のお昼時、新入社員のような人たちが先輩に囲まれながら連れ立って街を歩いているのを見かけると、勝手に「ウッ」となるのだった。これも、毎年どうしても起こってしまう反応だ。

フリーライター・個人事業主として仕事が続いたのは、わたしがこんな風な性格だったからだと思う。収入面のシビアさは半端じゃなかったが、「一人仕事」な働き方は非常に性に合っており、大変さと楽しさを両立しながら仕事をしてこれた。一応組織に属した今も、働き方は完全フルリモートであるし、フリー時代にずっと一緒に仕事をしてきた人たちが仲間なので、「ウッ」が発生しづらい。だったら、そろそろ春の訪れを素直に楽しめればいいのだが、この季節特有の”ソワソワ”にはどうしても慣れることができなかった。

今日はそんなわたしの「春がちょっと苦手なはなし」でした。


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