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百物語

 指を組んで腕を前に突き出すように伸びをしたら、目の前の窓から入る春の光に触れそうな気がした。
思わず、んあ、と間の抜けた声がでた。少し剥げてきた青いネイルが、伸ばした手の先に冬のなごりのように残っている。その手の向こうのモニターに、スーツ姿のカジモトが映っている。
「なあ、知ってるか。桜の樹の下には死体が埋まってて、だからあんなに心が惹かれるんだよ。これはな、信じていいことなんだ」
 小さな出版社の編集者であり、幼馴染でもあるカジモトがZOOMミーティング中に言い出した。しかもニヤニヤしながらなのが、ちょっと腹立つ。
「今年も出たね。カジモトの梶井基次郎。あんた、毎年それ言ってるね」
「へへ、今年も春が来たって感じがするだろ?」
そう言いながら、画面の向こうでまだ高校生と言っても通用しそうな童顔で白い歯を見せる。

 カジモトは、大学時代に梶井基次郎にハマった。以来毎年桜の季節になると『桜の樹の下には』を引用してくる。彼が学生時代から暮している地方都市に丸善があったら、たぶん檸檬を置く遊びもしただろうけど、幸いなことにその街の大きな本屋はジュンク堂書店しかなかった。
「桜の森の満開の下でデートすると、最終的に女もあんたも花びらになって消えて、冷たい虚空だけになるから気を付けてよ」
「坂口安吾の『桜の森の満開の下』だな。アンコだけに」
 私の名前は、杏子の杏に子どもの子で、「きょうこ」だけど、カジモトだけは私を「アンコ」と呼ぶ。
「アンコって呼ぶのはあんただけだよ。で、さっき言ってたweb連載の件って何?」
 昨日なぜかカジモトから送られてきた甲子園球場100周年記念マグカップに入れたコーヒーを一口飲んでから、私は話題を戻す。
 カジモトは、ちょっと考えるような仕草をしてから答えた。
「それなんだけどさ、百物語やらない?」
「え、百物語?百物語って、あの怪談のやつ?」
「いや、怪談に限らず百篇のショートストーリーを毎日100日間連続でうちのサイトに載せる。最終的にまとめて出版するつもり。怪談だけじゃないから、むしろ千夜一夜物語って感じかな。どう思う?」
 無邪気に「どう思う?」なんて聞くな。3ヶ月以上毎日書くのはいいけど、毎日違う作品なんて。100周年記念マグカップの緑が視界の端に見える。
「やる。面白い。いつから始めるの?ゴールデンウイーク明け?」
 湧き上がりそうな不安が口から出る前に、やると言い切った。高校球児ならきっと挑戦すると思ったから。たぶん。
「へへ、ノッてくると思ったよ。4月24日からスタートのつもり。そうすると、ちょうど100日目が8月1日になるからキリがいいだろ?とりあえず、来週までに10篇くらいストックを書いておいて。あとは走りながらやっていこう」
「待って、4月24日ってもう1週間後じゃん。なんでそんな急なの」
「やるんだろ?いつもより原稿料は高めに設定するからがんばって!」
 やる気はあるけど急すぎる。いきなりアンダンテからアレグロにテンポアップした鼓動を落ち着けるため、またコーヒーを一口飲む。少しだけ土のような匂いが混じった深みのある香りが鼻を抜ける。
 あ、あいつ!いきなり100周年のマグカップなんて送り付けたのは、この企画に絡んだジョークか。伏線回収したつもりか。下手くそ。

 ZOOMを閉じたあと、残ったコーヒーを一気飲みする。なんとなく椅子から立ち上がって、花粉を恐れて閉め切っていた窓を開ける。目の前にほとんど葉桜になった桜の樹が植わっている。風が桜の枝を揺らすと、波のような音と一緒に花びらがあおられるように舞って部屋に入ってきた。春の風は強いのに心地よい。深呼吸しようとしたら、鼻がムズムズしてきたので窓を閉める。
 私は盛大にくしゃみを一つして、またパソコンに向かう。デスクの端に置いてあるティッシュを座りながら一枚引き抜いて、間抜けな音を立てて鼻をかむ。
デスクの上には、鼻をかんだティッシュと桜の花びら。空気清浄機がフルパワーで稼働し始める。
「やってやろうじゃん。百物がた─ひぇっくしょん!」



七緒よう

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