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「音楽的感動って何だろう?」

 若い頃読んだ小沢征爾氏の著書『ボクの音楽武者修行』に、武満徹作曲『ノヴェンバー・ステップス』ニューヨーク初演のときのことが書かれていた(※その本は現在手元に無いので、細かい点で違っている箇所があるかも知れない。最初にそれをお断りしておく)。

 ニューヨーク・フィル創立125周年記念委嘱作品として書かれた『ノヴェンバー・ステップス』のスコアを見たオケの団員たちが、尺八・琵琶という「未知のジャパニーズ・インストゥルメント」に対して、始めのうちは懐疑的だった。当時、音楽後進国と見なされていた日本から、得体の知れない民族楽器奏者を2人も、なぜ高い費用を出してまで連れてこなければならないのか・・・。スコアを見ただけでは、尺八や琵琶の実際の音が聞こえるわけではないので「フルートとギターで良いではないか」という声が多かったらしい。
 そういった雰囲気の中で行なわれたリハーサル初日。琵琶奏者の鶴田錦史氏と、尺八奏者の横山勝也氏に対して好奇の目が集中する中、邦楽器の音が最初に聞こえてきたときには、失笑が漏れた。全く予備知識が無いとすれば、無理もないかも知れない。伸びの無い弦楽器、息が漏れてかすれた音がする木管楽器の音は、「原始的で未完成な音」として聞こえただろうと思う。
 ところが、練習が進み、彼ら2人が、そんな冷笑的な空気などものともせずに、凄まじいばかりの集中力で発する音に彼らも胸を打たれ、最後には拍手が起こったという。

 練習を見に来ていたバーンスタインが、この2つの邦楽器に強く興味を持ち、自宅に彼らを招待し、演奏を請うと、彼らはそれに応えて純邦楽曲を何曲か演奏した。バーンスタインは、その演奏に感動し涙を流し、これまで、このような音世界があることを全く知らずに生きてきたことが悔やまれるという感想を残した。著書全体を通じて最も感動的な場面で、読んでいるこちらまで目頭が熱くなった。

 その本を読んでから何年も経っていない頃、作曲家・高木東六氏の講演を聴く機会があった。その時、日本の伝統音楽のことを、和声が欠落している単旋律主体の未発達な音楽として蔑んでいたのには抵抗を覚えた。「ハーモニー無きところに感動はありません」と、自信たっぷりの表情で言い放ったときには、胸の中で声にならない声が、吹き荒れていた。和声が生み出す音楽的効果が大きいことはわかるが・・・、

 ― では、バーンスタインのあの感動は何だったのだ?
 
 ここまで書いてきた内容にしては、いささか単純な結論になってしまうが、何事に対しても、極端に貶める発言というものは大きな抵抗を生むということを、そのとき痛感した。

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