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柴犬になりたい

いや、まあ分かってるんですよね。人間だとかがクソだって思うのって、本人の捉え方のせいでもあるってことは。それを踏まえたうえで私はやっぱり人間好きになれないんですよね。
みんな利己的じゃないですか。他人と自分を比べて自分にメリットがある人間と関係を築いて、必要がない人間はどんどん切り捨てて。自分にもその気があるのを知っているから凄く嫌で。
人間嫌いと言う割には一人は嫌なんですよね。いろいろな人と仲良くなりたいとは思っていて、思っているんだけど、ああ、この人私に興味なさそうだなと思う瞬間が本当に悲しくて。友達になれそうだと思っていたの自分だけだったかーみたいな。自分にとって数少ない友人であったとしても、その人にとって優先順位が高い友だちにはなれなくて、まあ他にも友達いるよねって自分を納得させる時間が悲しくて。
それなのに、自分があまり興味を持てないような人間のことを若干雑に扱ってしまっている気がする自分も、結局その人たちと同じことをしている事実があって。不甲斐なくて。

仲良くなりたいってのも結局損得勘定。私にとってのメリット、私のことを少しでも理解してくれるかもしれないという淡い希望を他人に持ってる。
私は今までの人生で関わる人関わる人それぞれに変な人って言われ続けてきた。自分でも私は変な人だからって他人に公言はしているのだけれど、その言葉を言うたび、言われるたびに少し心が削れていく感覚があるような気がすることに最近になってやっと気づいた。その言葉って少し拒絶の意が含まれているよなというか。なんなんすかね変な人って。自分は普通の人だと思ってるんすかねその人たちは。まあ変な考え方してるんだなぁと、楽観的に、そのくらいに思えるようになったほどには生きてきたのに、新しい人間に出会うたびに、もしかしたら自分のこと理解してもらえるかなあとか、その希望をどうしても相手に持ってしまう。でもやっぱり噛み合わなくて、勝手に裏切られた気分になってしまうのがオチ。
その度に人に期待しないようにしようとは心掛けてはみているんだけど、無理ですよ。だって人に期待したいから。結局私が人が嫌いっていうのも自分にとって煩わしい感情を人間が持ってくるから嫌いっていうのが、やはりその「人が嫌いなのは本人のせい」ってのを証明していてつらい。

普通に仲良くしてくれていたのに、いつの間にか、何も言わずに去っていかれることも多かった。もちろんそんな人は私の何が気に食わなかっただとか理由なんて言ってくれない。そのたびにまあ自分が何かしてしまったのかなと割り切ってはいるのだけれど、やっぱりとてつもなく悲しい。
まあ仲良くしたいと思っている割に他人に興味ないし、何かそういう相手に対する期待みたいな自分勝手な感情が透けて見えるのかもしれない。そのたびにあの態度が悪かったとかあの発言が悪かったとかいろいろ思い返してみるのだけれど、そう考えているのも結局利己的で独りよがりでくそ気持ち悪いムーヴしてる気がして八方ふさがり。
自分から他人を嫌いになることがほとんどない。ライブドタキャンされても全然平気。いきなり音信不通になったとしてもまた連絡くれたらいいよ。音信不通のまま終わったとしても嫌いではないよ。元気でやっていてくれたらいい。
そんなだから、人が離れていく時って、相手がこちらに対して思うことがあった場合が多いのが分かっていて。
その人たちと仲良くしたいという気持ちは本当だったから、そういう対応を取られてしまった度に、どうすれば良かったのか分からなくてなって苦しい。どんな相手にも平等に、そしてなるべく誠実に接しているつもりだから。だからこそ卑屈になってしまう。
人を信用していないわけでは全然なくて、むしろ基本的に人を信用していると思う。信用しているからこそいつも、そのギャップに落胆してしまう。傷つきたくないが先行して人間関係構築に労力を割きたくない。
私と仲良くしてくれている数少ない友人、まじで死ぬほどやさしい人たちだから自分と仲良くしてくれているのでは、とか思ってしまう。本当にごめん。一生大切にしたい。ありがとう過ぎる。
友達いないんだよねって他の人に言いがちなんだけど、その友人たちに失礼だなって思ったことがあってそれ以来友達いないとはあまり言わなくなった。

まあでも疲れたんすよ。端的に。
人間と関わってると悲しくなることが多すぎてたまに激鬱が訪れるんですよ。自分のせいって分かってるところもあるから救えないんですよ。このまま地球爆発しねえかなとか思ったりしていて仕方なくなるんですよ。なんか芸術とかに魂って捧げられないんですかね。絵でも始めてみようかな。
建築業界にいるけど、建築ってひとりだと創作ができないんですよね。なにか建築を思い描いたとしても絵に描いた餅にしかならなくて、自分のうっ憤だとかが具現化することがなくて。不満を叩きつけられる何かが必要だと思う。絵とかだったら頭空っぽにして無から有を生み出す生産者になれるかもしれない。どうだろう。

年齢を重ねるたびに寂しさとか虚しさだとかそういう感情が積み重なってきていて、自分でも何が何だか分からなくなる。そのたびに人と関わることが苦手になってきている気がする。
ひとりで生きるのが本当にうまくなった。料理もできるし、ずさんだけどそこそこ掃除もできるし、夏フェスだって一人で行っちゃうし。
でも時々思うんですよ。ちょっとした普段の決断、今日何食べようかなとか、欲しい靴を買うか否かだとか、全部自分で決めていくこととかって疲れるんですよ。ちょっとくらい誰かに決断を委ねたいじゃないですか。一人でいるのも疲れるんですよ。でも隣に誰もいないから、全部ひとりで決めていくしかなくて。結果的に一人で何でもできるようになってしまった。だって一人でやらないとやりたいこととか興味のあることに触れる機会ばかり逃していくじゃないですか。人を誘うのも下手になってしまったな。人間関係について全てを諦めたい自分と、まだ人間関係に希望を見出している自分が同時に存在していて辛くなる。全てを諦められたらいいのにと思う。

ふと思ったけど日本ってハグの文化がないじゃないですか。最後いつされたかもう覚えていない。小学校低学年とかの時かな。まあでも10年、下手すると20年近くは誰からも抱きしめられたことがない。誰かに抱きしめてもらいたいだけなのかもしれない。よく分からないけれど。

柴犬になりたい。かわいいし愛されるから。柴犬になって飼い主にいたずらしたい。散歩から帰るの拒否犬になりたい。雨上がりの水たまりにダイブして飼い主に怒られたい。泥まみれになって困らせたい。そして風呂に入るの拒否犬になりたい。そして撫でられたい。抱っこされたい。小脇に抱えられたい。飼い主に見守られながら死にたい。
カフカの変身みたいに、起きたら柴犬になっていたとか起きないですかね。「アカは、ある朝、胸苦しい夢からさめてみると、自分がベッドのなかで一匹の巨大な毛むくじゃらに変身しているのに気がついた。」みたいな。
柴犬を飼うのも良い。柴犬は愛せば愛すだけきっと返ってくる。抱っこしたい。匂いを嗅ぎたい。一緒にお昼寝したい。でも自分の寂しさを埋めるために柴犬を飼うのは良くないよなあとは思っている。飼ったら溺愛はするだろうけど。まあ飼うためのお金もないけど。

私は小さい子ども可愛いって思うタイプなんだけど、あれって私がいないと子どもはなにもできないという前提がかわいさを作っているのかもしれないなって考えたことがあって、我ながら薄情だなと思ったことがある。かわいいの根源が犬とかと同じじゃんって。でも子どもかわいいですよね。良い未来にしなきゃなって思うよ。子どもの笑顔を見ていると。

ああ、あとハト好きなんですよね。あんなデカい鳥が平和の象徴の面して街中にたむろっているの面白い。柿目のきょとんとした目がかわいい。オスよりもメスの方がすらっとしていて良い。むんずと掴んで揉んでみたくなる。
足が欠損していたりする個体をよく見かけることがある。結構歩きづらそうにしているから、割とすぐわかる。そういう個体を見かけるたびにすごく悲しくなる。足が不自由で辛いということを彼らは表情に見せることは無いが、明らかに他の個体よりも動くことが少なくて。彼らの不憫さに同情的になるのかもしれない。
可愛さって無垢さなのかもしれない。無垢な存在に憧れている。無垢な存在に触れる時、私の心にも無垢が生まれる感覚がある。


その辺を歩く度に、なんでそこらへんの人ってそんなに楽しそうなんだろうって考えてる。
なんでそんなにみんなと自然にワイワイできるんですか。よくわからないんですよね。
みんなこんな気持ちは持たないもんなんですか。もしかして隠しているんですか。
私はこのまま生きていたらマーティンスコセッシ作の映画、タクシードライバーのトラヴィスになってしまうんじゃないかなって思う。無敵の人が製造されていく過程を自らが追体験してる気がする。
人間なんてクソじゃないですか。ろくでもない奴ばっかじゃないですか。なんでみんな理解者だとかに簡単に出会ってるんですか。不思議でたまらないんですよね。最近とか男性性そのものを否定するような意見が普通にTwitterで流れてくるんですよ。どうすりゃいいんすか。なんで不意打ちに存在否定喰らわないといけないんだ。
こんな世の中で他人に優しくなんてなれないですよ。なんか最近常に何かに怒っている気がしていて。まあもちろん政治とかに関してもあるんだけど、対象が多すぎて一体何と戦っているのか分からなくなってくる。素っ頓狂な法律だとか増税だとかが絶え間なく供給されてくる。その度に無力感に包まれる。疲れる。

例えばなにか人生における救いってあるんですかね。勉強してる時とかすごく楽だな。音楽も楽しい。でもそれらって1ミリも温かくはないんですよ。結局いつも堂々巡りで、周期的に気持ちが沈む時期が訪れる。もしかして私は無理してるのか、それすらも分からない。この文章だって本当にそう思っているのか怪しい。文章を書くときは普段と人格が分かれる気がする。
まあでも普通に生きてはいけている。自殺なんてする気はない。全然鬱でもないし。寝すぎなくらいには寝れるし。でも、なんかこう、健康ではない。
この一連の感情だとかを自分から取っ払ったら自分じゃなくなるような気もしなくもない。満ち足りている自分は正直想像できない。何年間もずっとこれだったから。それじゃあこの状況を望んでいるのは自分である可能性もあるのか。

なにがなんだか分からない。誰に頼ればいいかもわからない。なにをしてほしいかすらわからない。めんどくさくてごめん。誰に謝ってるかわからないけど。話が散らばりすぎて何書いてるかわからない。わからないけど、誰か助けてくれーってここ最近はずっと叫び続けている気はする。はやく楽になりたい。