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はなびのまえ

 うっすらと夕暮れが近づく。いつの間にか朱色のラインが空に出現した。

 地面はまだ日中の熱気を残していて、足の裏に熱が伝わる。一歩足を進めるごとに、体を汗がつたう。既に家に帰ってシャワーで汗を流す瞬間を思い浮かべてしまうほどに。ただ子どもだけが、これから始まる祭りの空気を敏感に感じ取ってはしゃいでいる。

 「ママ、はやく!」 

 子どもに手を引かれながら会場へと向かう。この大きな公園で打ち上がる花火は、この地域の一大イベントだ。会場が広く、とにかく打ち上げ会場までが遠い。ベビーカーやらクーラーボックスやら大きな荷物が私と夫の足取りを重くする。

 会場に向かう途中大きな橋がある。子どもが、欄干につかまり下を覗き込む。この公園はサイクリングロードがあり、その橋の下を自転車が通るのだ。それが子どもの心をつかんだのか、なかなか動かない。

 「いくよ」声は喧騒に飲まれて子どもには届かないようだ。

 「先にいくよ」

 私は子どもから離れ数歩を歩きだす。そして橋を振り返った。

 そうだ、この橋だ。

 私の細胞がぷつぷつと音をたてるように、1つの記憶を呼び覚ます。私はその記憶に目を向けたいような、背けたいような曖昧な気持ちで橋を見つめる。

 あの日もなかなかここから動けなかった。

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 2009年8月22日の土曜日だった。今年のカレンダーを見て驚いた。6年経って同じ曜日になったらしい。

 「来ないじゃん。」

 そこにいた全員が携帯を手に苛立っていた。待ち合わせにこの橋を指定したのは、確か彼女ではなかったか。

 「日にちを間違ってるとか?」

 私の手に握られた袋の中で、すでに溶け始めたドライアイスが、熱とも冷気ともつかない温度を伝えていた。ずっと無言でいた私が口を開いた。わらいごとにするつもりで。

 「まさか。自分の誕生日を間違えないでしょう。」

 彼女の誕生日がちょうどその花火大会に重なって、そこで誕生日を祝おうということになった。発案したのが誰だったのか、彼女がそのことを喜んでいたのか、やけだったのかよく思い出せない。 彼氏が誕生日に会ってくれないと言うのだ。

 私達は大学の同期の仲間で社会人になってから3年目の夏だった。年を重ねるごとに、仲間内でのイベントが少なくなってくる。でもまだ1年に2度ほどは集まっていたと思う。

 「彼氏が祝ってくれないなんて、おかしいでしょ」

 私は彼女を守るつもりでそう言ったのだ。それが彼女を傷つけたとしても、それが私からの精一杯の義理のつもりだった。


 彼女の携帯電話には無数の着信と連絡を促すメールが残っていただろう。私は「どこにいる?」という一通だけを送った。誰にも返事がこなかった。橋で待つ事をあきらめ、会場に向かう。すでに闇があたりを包み始めていた。そこで私の隣を歩いていた仲間内の一人が口を開く。

 「あの子と彼氏さ、別れそうじゃない?この前飲んだとき愚痴ってたよ」

 仲間内では私と彼女の仲が一番よかった。ケーキの選定をまかされるほどに。この前、とはいつのことなんだろう。私は動揺を悟られないようにゆっくり言った。

「そうなんだ。実は私、最近会ってないんだ。」


 あの花火大会の日にすべてが終わってしまったらよかったのに。あの日から連絡がつかなくなってしまったらよかったのに。そうしたらあそこにいた全員とそれを共有できたのに。あの夏の事件として終わらせることができたのに。あの後何度かそう思って自分のあさましさにぞっとした。

 実際には花火が打ち上がってしばらく経った頃、全員にあてた謝罪メールが届き(そこには、家を出たら浴衣で連れそう幸せそうな男女がそこかしこに目につき、家にもう一度入ってしまったら出られなくなってしまった、という経緯がつらつらと書いてあった)、それに対して酒の勢いもあって「なんなんだよあいつー!」と全員が笑って、ぐちゃぐちゃに溶けてもはや液体と化したアイスケーキをわけあって、その日は終わった。そして私と彼女の間も関係が細々と続いた。

 ゆっくりと疎遠になっていった。思い出したようなメールと、それに対する思い出したような返信。確信もつかず、探るようで、曖昧で。義務のような悲しいメール。数年後には誕生日を祝うメールだけになり、そしてさらにその数年後、その返信がこなくなった。

 今までも数々の友人たちとそうやって疎遠になっていった。何人と疎遠になったのかもうわからないほどに。でも彼女とのことはこうやって何度も思い出す。人の誕生日をほとんど覚えられない私が、夏の気配を感じるともうそわそわしている。許せないのは、忘れられないのは、誕生日メールに返信をくれなくなった彼女じゃない。

 

 花火大会の数ヶ月前だろうか。

「なんで結婚しないの?」

 そんな風に言ってしまったんだと思う。私が結婚した年だった。久しぶりに飲みに行った席で。あの時の彼女の顔は忘れられない。

 彼女は笑ったのだ。

 「ね」

 それだけ言って。昔の私達だったら、言い争っただろう。大学時代は何度もけんかした。議論した。それが私達の事じゃなくても、他人のことでもいつも言い争っていた。私はその時気付いたはずだったのに。あの笑顔は、私をあきらめた顔だったこと。

 彼女はコップについた水滴をゆっくりおしぼりで拭ってもう一度私を見た。

 「ほんとにね」

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 やっと会場につき、ビニールシートを広げる。子どもが聞く。

 「あと何分ではじまる?」

 私は携帯電話を取り出して、時間を確認した。

 「まだ30分くらいかかるよ。」

 えー、子どもが不服の声をあげてビニールシートに崩れた。

 私は携帯電話を見た。この携帯にもう彼女のアドレスは入っていない。いつだったか、不意に消してしまったのだ。なんでもないことだと思おうとして。

 ねえ

 私はふと思い立って呼びかけてみる。あの時のメールと同じように。

 どこにいる?なにしてる?

 返事はもちろんない。

もう時間を共有することはないだろうか。一緒に花火をみることはないだろうか。

 「花火ってさ、消えたらどこにいっちゃうの?」

 子どもが口を開く。私は答えられなくて、空を見上げた。朱色のラインは消え、闇が広がっていた。もうすぐ花火があがる。この広い会場を一体感が包んで歓声があがるのだ。夫が答える。

 「来年の分になるんだよ。来年またあがるために一度消えるんだよ」

 子どもが私を見る。

 「えー。ママ、そうなの?」

  

 「そうだよ。」

 また、らいねん、みよう。

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