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妖精を売る男

1.折れた薄羽

 第八異端審問所の審問七課は、殺人の異端を苛烈に追求する一課と違い、市民の相談を最初に受ける課である。故に、彼女たちの朝は、順番待ちをしている市民を相談室に案内して話を聞くことから始まる。だが、仕事が始まる前のルーチンについては、課の中でいくつかにわかれた班によって異なった。二班の朝は、一杯の紅茶で始まる。
「今日は、待合の人が多い気がしませんか?」
 先日こちらに配属された、ジル・ハドソン六級審問官(※1)が誰にともなく呟く。長い茶髪をリボンでまとめながら。よりも先に来て、紅茶の準備をしていたエドワード・オズボーン五級審問官が全員の席にカップを置き、
「俺もそう思った。何かあったのかな」
 怪訝そうな顔をする。普段は黒色に見える彼の髪の毛は、陽の光に当たると本来は紺色であることがわかる。
「毎朝どうも。何かあったにしちゃあ、人数が少ないと思うぜ。そんな大事件があるんだったら、もっとヒステリックに詰め寄ってくれなきゃ! 『審問所は一体何をしてるんですかーッ! キエーッ!』ってさ。そうでなきゃ何も面白くねぇ」
「不謹慎だぞ、ロイ」
 エドワードにたしなめられるのは、ロイ・サンダース七級審問官。この中では一番の若手である。あまり堅苦しいところはなく、ピンクがかった赤毛の印象で明るく見えるが、同時に軽薄な印象も与える青年だ。エドワードの紅茶を毎朝真っ先に飲むのも彼である。
「エドワード、ありがとうございます」
「召し上がれ。今日は総出だな。ああ、マーサ。あなたは出なくて結構ですよ」
「……そうね」
 ティーカップを口に運びながら、この部屋の主にして班長、マーサ・キャロライン四級審問官が応じた。
「そうさせて頂くわ」
「サインしてもらう書類はたくさんありますからね。暇にはならないと思います」
「まあ、暇なら暇で楽しんでれば?」
 ロイがクッキーをかじりながら言う。ジルは……なんと声を掛けたら良いかわからずに押し黙っていた。
 マーサ・キャロラインは強烈な女性である。年齢は四十二歳。短い髪はくすんだ金色、瞳は鋭いアイスブルー。身長は百六十に届くかどうか。見た目だけなら、どこにでもいる中年女性だが、かなり苛烈な性格をしている。市民の悩み事の応対が主な仕事であるこの課においても、異端の匂いを嗅ぎつければ即座に審問開始。その裏に潜む事件を暴き出し、異端を追い詰め、裁きの場に引きずり出す。
 審問官としてはまことに正しい行いである。まことに正しいが、その過程で、苛烈な性格が災いすることも多い。市民や同僚との衝突が多いのである。ジルは、マーサの相棒として配属になったが、聞くところによれば、マーサの相棒と言うのは頻繁に変わっているそうだ。不安しかなく、先日起こった「妖精詐称事件」でも、マーサと自分の間にある深い溝を実感して落ち込んでいるところだ。
 であるからして、審問七課に数人いる班長の一人であるにも関わらず、マーサは相談業務に就かない。これは第八審問所の暗黙の了解である。マーサ本人は、異端の糸口は相談から、と思っているので相談業務に就きたがっている向きはあるのだが……エドワードにぴしゃりと申し渡されるとそれ以上は逆らわない。
「何か不審なことがあったら教えて頂戴」
「それはいつものように。さ、皆行こう」
 エドワードが手を叩くと、ジルとロイはカップを置いて、彼に続いて部屋を出て行った。
 ジルはドアを閉める前にちらっと振り返る。どこかむすっとした表情のマーサが、斜め下を見つめながら紅茶をすすっていた。

 午前一杯掛かって相談業務を終えた。ジルは、妻と同居の母が毎日喧嘩している、なんとかして欲しいと嘆く男性の愚痴をひたすら聞いた。結婚していないジルにはなんとも言えないが、暴行などはまだ発生していないと言うことで、
「あなたが二人の仲介をしたら良いのではないでしょうか。何か言う前にこらえてくれと」
「老いた母に我慢させるなんて……!」
 結婚していないジルにもピンと来た。この男、妻より母の方が大事なのだ。だがそのことは指摘せず、
「ですが、仮に我々審問官が介入するとしても、お母様にも奥様にも、多少の我慢は必要、と。そう言わざるを得ませんよ」
 人間関係は異端審問で解決するものではない。異端審問官ではどうにもできない、それは個人同士の問題である。もし暴力などが発生した場合はまた来て欲しい、ということを告げると、頭が冷えたのだろうか、しょんぼりしながらその男性は帰った。
(結婚って大変そうですね……)
 マーサは? マーサは結婚しているのだろうか。あるいは、結婚歴があるのだろうか。少し気になった。

 中にはもちろん異端に関する相談事もあるが、八割は愚痴だ。赤毛のロイはこの愚痴をさばくのが大変に上手い。部屋に戻ると、一番多く相談記録を抱えているのは、やはりロイであった。
「いやー、今日も面白い話いっぱい聞けたねぇ。男と女に二股掛けてたらバレてその二人が恋仲になったとか、異端でもなんでもねぇよ身から出た錆だ!」
 手を叩いて大笑いしている。
「あなたは何て答えたの?」
 書類にサインをしながらマーサが尋ねた。ロイは肩を竦めて、
「司祭に相談しろって言ったよ。もし殴られたり、身の危険を感じたりした時は力になるって言っといた。ただ、二股掛けられた者同士はそいつのことなんてもう眼中にないんだよな。可哀想だけど、異端審問官の仕事じゃねぇんだよ」
「そうね」
 マーサは首を横に振った。そこに、エドワードが怪訝そうな顔で戻って来る。
「おい、どうしたよ相棒」
 ロイが紅茶を淹れ直しながら尋ねると、
「いや、今の相談者、不審者のことで相談に来ていたんだが……その不審者がいた所で、怪我をした妖精を見つけたって言うんだ」
「その話だったら、この前、私も聞きましたよ。物音がするから、見に行ったら妖精が怪我してたって。羽が取れ掛かっていたそうです」
 ジルも、類似の相談内容を思い出した。妖精が見える、ということをひどく懐かしく感じたものだ。
「何で? 盛りがついてんの?」
 ロイがクッキーをぼりぼり咀嚼しながら首を傾げた。
「エド、私も最近その話を聞くの。この審問所で何件目かしら?」
「ちょっと待っててください。記録を見てきます」
 エドワードも引っかかりを覚えていたのだろう。眉間に皺を寄せたまま、紺色の短い髪をがりがりと掻きむしりながら部屋を出て行く。
「子供の頃は妖精も見えたんだけどな。大人になってからは見えなくなったよ。ジルはどうだ?」
 ロイがクッキーを更に出してテーブルの真ん中に置いた。
「私ですか? 私は、うんと小さな頃は見えていたみたいですよ。だけど、他の子たちよりも早く見えなくなっていました」
「そうなのか。ジルって善良そうだから妖精の方から寄ってきそうだと思ったんだけどな」
「人間と妖精で善悪の基準は違うと思うわよ」
 マーサがつまらなさそうに言う。どう言う意味だろう。ジルがその言葉の意味を深読みするよりも早く、エドワードが戻って来た。
「マーサ、ちょっとおかしいですよ。今月で五件目です。その内三件は、不審者絡み。何かありますよ」
「多いわね。ふむ……」
 マーサは顎に手を当てた。その眼光は既に鋭く、これを「事件」であると認定している様だった。その鋭い目が、ジルを見た。
「調べましょう。エドはロイと一緒に聴取記録をまとめて。ジル、行くわよ」
「は、はい」
 マーサは立ち上がり、つかつかと部屋の扉に向かう。その前に立っていたエドワードはどきながら、
「ああ、マーサ、どこに行かれます?」
「まずはドロシーに、妖精のことを聞いてみようと思うの」
「じゃあ、先に行っててください。自分はちょっとジルに聞きたいことが」
「わかったわ。ジル、ラボで待ってるわ」
 特にエドワードを問い詰めることもせず、マーサはあっさりと部屋を出て行った。ジルは困惑してエドワードを見る。
「何でしょうか?」
「ジル、マーサとやって行けそうか?」
「た、多分大丈夫だと思います」
 エドワードは痛ましそうな顔になり、
「君の前任は、マーサと喧嘩してコンビを解消しているんだ。マーサも悪い人じゃないんだが……いかんせん評価されない期間が長くてね。人に対して心を閉ざしがちなところがある。だが、それは君とは関係ない。もし、仕事を続ける上で辛いようなら言ってくれ。異動続きになってしまうとは思うが、上に掛け合ってみる」
「ま、あのおばちゃん、ちょいと考え足らずなところがあるからね。こっちも何も考えないで喋るくらいが丁度良いぜ」
 呑気に口を挟むロイ。エドワードは肩を竦めて、
「皆が皆、お前みたいに神経太くないんだよ」
「エドはどうなんだよ」
「俺は慣れた」
「ほんとか?」
「あ、あの、エドワード、その、お気遣いありがとうございます」
 ロイがにやにやしているのを横に、ジルは笑顔を見せた。
「いつでも相談してくれ」
「はい、そうします。失礼します」
 ジルは逃げるように部屋を出た。

 マーサのことをどう思っているかと言うと、もちろん「苦手」だ。どう話しかけたら良いかわからない。こちらが最大限の礼を尽くしたとしても、マーサはにこりともしてくれない。仕事だから、と言われてしまうとそれまでだが、もう少し笑顔が欲しい。もう少し好意を見せて欲しい。マーサの変わらない態度が、ジルには少々堪えていた。
(自分よりすごい人と『ともだち』になろうとする人はあまりいないんですよ)
 先日、妖精を騙る悪魔にたぶらかされた少女に掛けた言葉だ。
 恐らく……マーサはジルと必要以上に親しくするつもりはないだろう。
(逆に、私が割り切った方が良いのかもしれない……)
 重いため息を吐きながら、彼女は廊下を歩いた。

2.糸口を求めて

 待ってると言われたラボに行くと、研究員のドロシー・ノーランドの大きな笑い声が聞こえた。
「キャロライン、あんたね、それっくらいでテーブルひっくり返すんじゃないわよ! あー、おかしい……」
「あなたにはわかりませんよ。まったく、どいつもこいつも笑い話にする……」
(な、何の話をしているのかしら……)
 自分が入って行ってしまって良いものか。いや、しかし盗み聞きはジルの良心が許さないし、何よりマーサは自分を待っているのだ。あまり遅いと思われても困る。慌ててノックした。
「どーぞ、ジル」
 ドロシーの陽気な声が聞こえた。ジルは驚きつつもドアを開けて、
「な、なんでわかったんですか……」
 恐る恐る尋ねる。ラボの研究者は、一本にまとめた、目の覚めるような長いブロンドヘアを揺らして笑った。
「なんとなく。で、何があったのよ」
 どうやら、マーサはジルが来るまで説明を待っていたらしい。そうすると、さっきまでの会話は雑談だったと言うことになり……。
(マーサの雑談ってどんなのだろう……)
 ジルが口をつぐんでいると、マーサが説明を始めた。
「……と、言うことなのよ。怪我をした妖精の目撃証言が、今月だけで既に五件よ。流石に多いわ。妖精が怪我する状況ってどんな状況だと思う?」
「あたしなら何でも知ってると思ったのね、キャロライン。ふふ、あなたの信頼、とっても嬉しいわ」
 緑色の目を細めながら、ドロシーはにっこりと笑う。同性でもどきっとするような笑みだ。どぎまぎしているジルの横で、マーサは何事もないかのように、
「あなたの知識には助けられていますからね。それで、どうなの?」
「知らないのはあたしだけじゃないわ。妖精って言うのは謎が多いのよ。どちらかと言うと、幽霊とか神とか悪魔の側ね。だから、この前も悪魔が妖精を騙ることができたわけ」
「で、でも、悪魔と妖精は厳密には違うわけですよね」
 悪魔が妖精を「騙る」と言うことは、両者の間には明確な違いが存在すると言うことになる。
「そうよ。悪魔は魔王ヴェントスの眷属」
「では、妖精は雷神トルリマの眷属ですか?」
 ジルは胸に下げた逆さ剣を意識しながら尋ねた。
「そうとも言うし、そうでもないとも言う。すごく遠い親戚、みたいな。弟の娘の息子の娘の娘の息子くらいじゃない?」
「と、遠いですね」
「一応血は繋がってるって感じ。そりゃ、妖精は善悪で言ったら善だけど、立場的には中立よ。だってあいつら、教会の結婚式でも悪戯するわ」
 確かに、神に忠実な眷属であれば教会で悪さはしないだろう。
「だからと言って、人を堕落させるようなことはしないし、悪魔祓いは効果無し。そこが妖精と悪魔の決定的な差よね」
「人間から見てぱっと区別はつかないと」
「そう言うこと」
 ドロシーは肩を竦めた。
「グルーバー博士って人が、この辺では一番詳しいんじゃないかなぁ。紹介してあげよっか?」
「是非お願いするわ」
「オッケー。伝書鳩飛ばしておくよ。ついでに紹介状も書いてあげる。ちょっと待ってて」
 ドロシーはウィンクすると、ペンを取って書き物机に向かった。

3.グルーバー博士の講義

「どう思いますか?」
 グルーバー博士の研究所へは、馬車で向かうことになった。その客車で、ジルはマーサに尋ねる。
「なんとも言えないわ。まずは専門家の意見を聞かないと。ただ、妖精が怪我すると言うのは、確かに子供に羽をもがれるだとか、握りつぶされそうになって、というのは聞いたことがある」
「犯人は子供でしょうか?」
「わからないわ……私はそもそも、妖精に怪我させたことなんてないのよ。あなたは?」
「私もないです」
「ただ、たまに聞くわね。小さい頃、妖精に出会って、ついつい捕まえたくなって羽を掴んだら取れてしまった、と言う話は」
「まあ」
 ジルは顔をしかめる。
「酷いことをするんですね」
「子供のやることだからね」
 マーサは肩を竦めた。
「マーサは? 妖精に会った時、どう思いましたか?」
「薄気味悪いと思ったわ。あなたは?」
 ばっさりと言い放った。ジルは少したじろぎながら、
「羽が綺麗だけど、触ったら壊れそうだから、触りませんでした」
 子供の頃の記憶に少しだけ残っている。陽の光を受けて虹色にきらきら光る妖精の羽。
 魔法の様だと思ったし、実際、魔法の力に近い所にいる存在だ。魔法をきちんと制御できるようになった今でも、思い出の中の羽の美しさは、自分の手には収まらないような気がしている。
 ただ、ジルは今朝ロイに言った様に、人よりも妖精が見える期間が短かった様に思う。
(人間と妖精で善悪の基準は違うと思うわよ)
 マーサの言った言葉も蘇った。
(……仕事なのに、もう少し良好な人間関係を求めてしまうこのわがままが、私の悪い所なのかしら……)
 知らず、逆さ剣のアミュレットを指先でいじり回している。
 やがて、馬車が停まった。馭者が客車を開ける。
「さ、着きましたよ、お客さん。ここが、アーロン・グルーバー妖精研究所です」

 研究所、という看板を掲げてはいたが、実態としては自宅であった。こじんまりとした一軒家だ。外には花壇があって、季節の花が咲いている。
 アーロン・グルーバー博士は、総白髪に白い口ひげを蓄え、丸い眼鏡を掛けた好々爺であった。ジルたちが審問官であることを告げると、待っていましたとばかりに頷く。
「ノーランドさんからのご紹介と言うことで」
 伝書鳩はきちんと仕事をしたらしい。青灰色の目をぱちくりと瞬かせながら、マーサとジルの顔を交互にとっくりと眺めた。
「ええ。私は四級審問官のキャロラインです」
「六級審問官のハドソンです」
「グルーバーです。よろしくお願いします」
 握手を交わす。しっかりとした、力強い手だった。
「こちらが紹介状です」
「拝見します……どれどれ……ほほー……ほー……ふーん……へー……」
 顔を近づけたりのけぞったりしながら最後まで読んだ博士は、紹介状を元通りに畳んで机の上に置いた。より正確を期するなら、机の上に積まれている手紙の山の標高を更新したと言った方が良いか。他にも、書きかけの論文や書籍で机の表面は見えない。書籍の中にはかなり分厚いものもあり、これを扱うのに腕力や握力が求められる……のかもしれない。
(ドロシーは何て書いてくれたんだろう……)
 紹介状、と言っていたが、一体どう紹介したのか。博士は大分納得したような顔をしている。そこまで詳細を書いてくれたのだろうか。彼はうんうんと頷きながら、
「なるほど。妖精の怪我ね。まず、妖精という生き物についてご説明しましょう。知っていることは?」
「えっと、砂糖壺と塩壺の中身を入れ替えたり、葬儀の花を一輪増やしたり、結婚式で花嫁のアクセサリーから宝石を拝借したり……と、いたずら好きと言うことを」
 ジルが恐る恐る、と言う具合に口を開いた。マーサも眉を上げて、
「あとは、どちらかと言うと神の側、ということくらいです。ノーランドも、謎が多いと言っていて、専門家でなければわからないようでしたね」
「仰るとおりです」
 博士は頷いた。
「一般的にはそれくらいでしょうね。さて、では身体の構造からお話ししましょうか。妖精と言うのは魔法で構成された物質の身体なので、死ぬと大気や大地の魔力に還ります」
「人間や動物の様に腐らないと言うことですか?」
「仕組みとしては同じですが、まあ物質が違いますからね。消えるのも早いんですよ。妖精の腐乱死体なんて聞いたことないでしょ?」
「そ、そうですね……」
 なかなかインパクトの強い言葉だった。
「まあ、専門家の間でも、わかってるのはそれくらいです。だから当然、子供にもがれた羽なんかもすぐに消えているんです。聞いたことないでしょ? 私の宝物は妖精の羽です! って言ってる子供」
「た、確かに……」
 何も考えたことはなかったが、言われて見れば、妖精の一部が残るという話は聞いたことがなかった。すでに妖精が見えないジルは、残らなくて当然だと思っていたが、何故残らないかまでは考えたことがなかった。
「さて、では次に、妖精に会う方法です。妖精に怪我をさせるのは、多くの場合子供です」
「そのようですね。子供に羽をもがれてしまう妖精の話は聞きます」
 マーサが頷いた。
「その理由なんですがね」
博士は「よっこいしょ」と言いながら、机の上に積まれた書籍の一冊を取り出した。
「えーとですね、この本がわかりやすいのでご紹介しましょう」
 そう言って、該当箇所を開いて二人に見せてくれた。
「『一つ、無邪気であること。二つ、善悪の区別が付かないこと。三つ、捕まえる意思がないこと』?」
 ジルとマーサは顔を見合わせた。マーサは博士を見て、
「子供たちには捕まえる意思がないというのですか?」
「ないです。正確に言うと、捕まえる意思がある子の前には現れません。純粋な好奇心で、妖精に会ってみたいと強く願う子には見えます。ただ、子供も欲望がありますからね。綺麗なものを見ると、持って帰ってしまいたくなります。それは会うまでは芽生えない欲望です」
「欲望というのは天井がありませんものね」
 マーサが首を振った。ジルも頷く。
「会うだけで良かったのに、会ったら欲しくなってしまうんですね……」
「まあそう言うことです。とは言え、そう言うことがある、とわかっていても、妖精はその時に『捕まえたい』と思っていない子供の前には姿を現す。ですからね、妖精は子供の無邪気さを食べているのではないかと目されています」
「そうなのですか……」
「ただ、目しているだけで本当かどうかは知りません。なんせ、我々の様に血眼になって妖精を捕まえようとしている、心の汚れた大人たちの前には姿を見せてくれませんからね。ワハハ」
 博士はそう言って胸を張って大笑いして見せた。ジルとマーサは顔を見合わせる。二人が黙ったままなのを見ると、博士は自分のジョークがうけなかったことに気付いたらしい。姿勢を正し、
「とは言え、この長い歴史の中で、妖精を捕まえて売りさばく不届き者の記録は残っています」
「妖精を売りさばく?」
 ジルは驚いて思わず身を乗り出してしまう。マーサが片眉を上げた。
「穏やかではありませんね」
「まったくです。このページがそうです」
 ページをめくって、再び二人の前に示す。
「えーっと……『妖精の密猟は、人が妖精を見るようになってから、常につきまとうようになった問題である。その見目の美しさ、あるいは、神に近いところにいる眷属であると言うことで、手元に置きたがる人間は後を絶たなかった』ですか……博士、こちら、転写させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「ええ、構いませんよ」
 ジルは持ってきていた白紙に、本の内容を転写した。情報を熱に変えて紙に焼き付ける魔法の技術である。
「綺麗に写すわね」
 マーサが写しを見て呟いた。ジルは少しどきりとしてしまう。紙の焼ける匂いがわずかに漂った。マーサは顔を上げ、
「しかし、密猟や密売をしようとする人間は、当然ですが妖精を『捕まえよう』と思っているわけですよね? でも可能なのですか?」
「妖精を閉じ込める魔法そのものはあります。彼らは、魔力の要素がかなり強い存在ですので、その魔法に対抗する魔法、と言うことですね。いわば結界です。それを広い範囲に放ってしまえば不可能ではありませんが、そんな広範囲に影響する魔法を乱発していたら、百年前ならともかく、現在ではすぐにわかります」
「ええ。やはり、直接対面しないと捕まえられないわけですよね」
「とはいえ、ときに信じられない様なことをする人間はいますからね。ええ、自分すら騙すと言いますか」
「と、仰いますと?」
「『捕まえるかどうかは、会ってから考える』」
 グルーバー博士は肩を竦めた。それから、机の山脈から便箋を引っ張り出す。本の上に置いて、さらさらと何やら書き付けた。
「密猟のことを調べるなら、妖精保護団体のアレンビーさんという人がいますので紹介しますよ。とても熱心な方です。紹介続きで申し訳ありません」
「いえ、感謝しますわ」
 マーサは微笑んだ。それから、はたと気付いた様に、
「それともう一つ。妖精に会う条件がその三つと言うことですが、怪我した妖精を目撃したのはいずれも大人です。審問所に相談しに来るくらいですから、少なくとも、善悪の区別はつくでしょう。これは一体?」
「ああ、それはね、怪我して気が動転して、姿を隠すのを忘れてるだけだと思いますね。ただ、見つかった、とわかると姿を消します」
「ああ、そう言うことだったんですか……わかりました。ありがとうございます」
(自分すら騙すってどう言うことかしら……)
 捕まえるかどうかは、会ってから考える、など、自分が密猟、密売をするという自覚のある人間に持てるものなのだろうか。
 少しよれた封筒に入った紹介状を受け取って、二人はグルーバー博士の家を出た。博士は、二人の姿が見えなくなるまで玄関で見送った。

4.ヘザーの苦しみ

「どう思う?」
 馭者に行き先を告げ、出発して少し経つと、マーサがジルに尋ねた。
「わかりません」
 正直に答える。妖精の生態でも、初めて聞くようなことばかりだった。
「そうよね。でも、少し考えてみましょう。事の発端は何だったかしら?」
「ええっと……確かエドが、不審者の相談に来た市民のお話を聞いていて……」
「そう。発端は不審者ね。エドは今月の分だけ調べてくれたけど、遡ったら、不審者を見かけた場所で怪我をした妖精が発見された、というケースは他にもあるかもしれないわ」
「マーサは、その不審者が密猟者だと考えていますか?」
「わからない。でも、可能性は高いわよね? どう思う?」
「不審者は大人なのでしょうか?」
 ジルが疑問を呈すると、マーサは片目をつぶって見せる。
「良いところに気付いたわね。体格の良い子供なんていくらでもいるし、そう言う子供が、妖精に怪我をさせてしまった、と言う可能性はあるわ。確かに、多少体格が良くても、大人と子供の区別は付きます。けれど、遠目で、背が高いのを見て大人だと思い込んでしまえばね」
「ですが、毎回同一人物なのでしょうか?」
「それも問題よね。体格の良い子供が複数いたとして、五件全てがそう言う子なのかしら? 子供であれば同一人物ね。大人なら、別人の可能性はある」
「では、仮に子供だったとして、何故その子は毎回妖精の怪我の現場に居合わせるのでしょうか? 一度怪我をさせたことを謝りたい、とか?」
「それだと、善悪の区別はついているわよね?」
「あっ……そうでした。善悪の区別が付かない、無邪気で、でも捕まえる気のない人が毎回妖精の怪我に居合わせる理由……」
「ありそうでないわね」
「はい……」
「これが密猟者なら、理由は思いつくけど、会えるかどうかってところなのよね」
「あちらを立てればこちらが立たず、ですね……」
「『捕まえるかどうかは、会ってから考える』……これが本当に可能な人間がいるのか……」
 マーサは顎に手を当てた。
「まあ、良いでしょう。とにかく、アレンビーさんにお会いしてから検討することにしましょう」

 ヘザー・アレンビーは、妖精保護団体の一員だった。グルーバー博士の紹介であることを知ると、彼女は嬉しそうに笑顔を見せ、
「グルーバー博士が私を紹介してくれるなんて。嬉しい。ヘザー・アレンビーです。どうぞ、ヘザーと呼んでください」
「審問官のマーサ・キャロラインです」
「同じく、ジル・ハドソンです」
「マーサ、ジル、とお呼びして良いですか?」
「構いません」
 マーサは頷きながらジルを見る。ジルもこっくりと頷いて、
「私も構いません。どうぞジルと呼んでください、ヘザー」
 応接室に通される。お茶とお菓子が出された。
「紹介状を拝見しました。妖精の密猟者について聞きたいと言うことで……」
「これは捜査事項なのですが……」
 マーサは簡単に、不審者が目撃されたところで発見される、怪我をした妖精の話をした。グルーバー博士のところで聞いた、「自分を騙す密猟者」の話も。
「と、言うことで、密猟者の線が浮上したので、こうしてお邪魔した次第です。まずは、妖精の密猟について教えて頂けないでしょうか? そもそも、妖精の密猟と言うのは可能なのですか?」
「可能です」
 ヘザーは頷いた。
「可能ですが、捕まえられた妖精というものは長生きしません。そもそも、妖精は何を食べるかもわかっていないんです。グルーバー博士は『無邪気さを食べる』と言いますが……それは人間が用意しようとしてできるものではありません」
「では、妖精は……」
「駄目なんですよ。彼ら、人間が与えた食べ物なんか食べないんです。だから、その内衰弱死してしまう」
 マーサもジルも、二の句が継げなかった。
「物珍しいからペットにしようと思う人間は後を絶たない」
 ヘザーははっきりと言った。首を横に振り、
「ひどいもんです。飛べないように羽をむしったり、羽をめでたい人のためには切り込みを入れたりして飛べないように……酷いと脚を切り落とすこともあるようですよ」
「なんですって?」
 マーサが眉を上げた。ジルも、不快感を顔に出していただろう。ヘザーは二人の顔を見て、痛ましげに表情を歪めた。
「とは言え、妖精の密猟者や、密売人というのは少ないんですよ」
「そうでしょうね。グルーバー博士に教えて頂きました。妖精に会う条件について」
「そうなんです。密猟をするのは大人です。子供に頼んだとしても、捕まえようとする限り妖精は現れません」
 彼女は首を横に振る。
「けれど……密猟者は後を絶たない?」
 ジルが尋ねると、ヘザーは頷いた。渋い顔だ。
「時代によって多少の変動はありますが、いつの時代にも、妖精を捕まえて売りさばこうとする人間はいます。買おうとする人間も同じ事です。買う方にも、売る方にも同じ罪があります」
「それは、いつの時代にも、妖精を捕まえるつもりでいながら、妖精に会える人がいる、と言うことですよね? グルーバー博士は、自分を騙せる大人なら、『捕まえるかどうかは会ってから考える』と思える人間なら可能だとおっしゃっていましたが……これはどう言う意味でしょうか?」
「妖精の密売をしようとする人間の多くは、罪悪感が欠如しています。嘘をついても言動に表れにくい。自分が損するなら、最初から捕まえようとは思わないかもしれません。彼らに共通するものの考え方は、『自分がいかにして得をするか』なんです」
「それはつまり……『得にならないから捕まえるつもりで行くのはやめよう』と、そう言うことですか? そんなことが可能ですか?」
「私には無理です」
 ヘザーはため息を吐いた。
「ええ、私には無理です。彼らを保護したい、安全な所でかくまってあげたい。そう思っていても、それは彼らにとっては『捕まえる』ことに他なりません。なおかつ、私たちはそれを『善』だと思っています。私たちは善悪の区別をつけ……善であると信じて彼らを捕まえようとする。それは、妖精たちを遠ざける結果になっているのでしょうね」
「そんな……あなたたちは、彼らの為を思っているのに……」
「こちらの善があちらの善とは限らないわよ、ジル」
 マーサが口を挟んだ。ジルはびっくりして隣を見る。ヘザーの前でそんなことを言うなんて!
「マーサ! そんなことを……」
「いいえ、ジル。マーサの言うとおりです。私たちは、自分たちのやることを『善い行い』だと思っています。けれど、善悪の区別を疎む妖精たちにとって……それは決して良いものではないのでしょうね」
「ですが……」
「ふふ」
 ヘザーはジルが眉を下げるのを見て小さく笑った。
「ありがとう、ジル。あなたが、私たちの仕事を評価してくださること、感謝いたします。あまり収穫の多くない行いですから、無駄と言う人もいますしね」
「無駄だなんて。妖精の密猟など、あって良いことではありません」
「そう。仰るとおりです」
 彼女は少し寂しそうに笑った。
「けれど、目覚ましい成果を上げられない私たちを笑う人もいるのですよ」
 ジルには、それ以上何も言えなかった。大事な仕事の筈なのに……どうしてヘザーたちの仕事は評価されにくいのだろう。新聞に報じられるほどの成果を上げていないから? 異端審問官のように罪人を捕まえることができないから? 妖精に会うことができないから?
「マークしている人間のリストをお持ちではありませんか?」
 沈黙を破ったのはマーサだった。「仕事」の話に戻す。
「前科者のリストと併せて審問します」
「あります。今、お持ちしますね」
 ヘザーが席を立つ。ジルはちらりとマーサを見た。マーサはジルの方を見もしないで、
「いいこと、ジル。善行と言うのは、かならず世界に安寧と平和をもたらすものではありませんよ」
「ど、どう言うことでしょうか……」
 そうでなければ何が善だと言うのか。
「良いことだけが起こる行いと言うのはありません。ヘザーはそれをちゃんとわかっています」
「マーサ……」
 何故あなたは私の言うことを否定ばかりするんですか、と聞きたい気持ちが喉までせり上がる。
「でも、彼女たちの仕事は評価されるべきです」
「それはその通りだと私も思うわ」
 マーサは頷いた。ジルはそれ以上、何も言えなかった。ヘザーがリストを持ってくるまで、二人の間には沈黙がちょこんと座っていた。

5.ブライアン・ジョンソン

 ヘザーに見せてもらったリストを転写して建物を出ると、すっかり日が暮れていた。馬車に乗り込み、審問所に到着する。ラボに直行すると、ドロシーが鼻歌を歌いながら何かの分析をしていた。
「ドロシー、まだ帰らないの?」
「あら、キャロライン、ジル、お帰り。あんたちこそ、まだ帰らないのね。あたしはごらんの通りよ。何を持って帰ってきたの?」
「妖精の資料と、妖精の密猟について怪しい人間のリストよ。ジルが転写してくれたから、定着をお願い」
「はいはーい」
 転写魔法というのはあくまで一時的なものだ。この上から、更に固着させる魔法をかけなければ、数日もすれば落ちてしまう。転写と違って、やや煩雑で繊細な技術であるため、研究所などで専門家に頼む必要がある。
 ドロシーが資料を持って奥に引っ込んだ。マーサは時計を見る。午後七時を過ぎていた。
「エドとロイはまだいるかしら」
「いるんじゃないでしょうか」
 ドロシーから定着してもらった資料を受け取って、班の部屋に戻ると、案の定エドワードとロイは残っていた。ずっと資料を探していたのだろう、エドワードの方は目頭を揉んでいる。ロイの方は平然として紙をめくっていた。
「お疲れのようね、エド」
 マーサが声を掛けると、目を細めたエドワードが渋い顔で、
「ああ、お帰りなさい、マーサ、ジル。どうでしたか?」
「妖精の専門家から色々と興味深い話を聞いてきたわ。そちらは?」
「怪我した妖精を目撃した人から、不審者の特徴について詳細を確認してきました。そうしたら、一人浮上しましたよ」
 そう言って、まとめた資料を差し出す。
「ブライアン・ジョンソン……前科者リストに載っていたの?」
「まあ、それがエドの目がぶっ壊れてる理由なんだけどな。この審問所の管轄のリストには載ってなかった。エドってば可哀想に、文字拾いの魔法で引っかからないのは自分の腕が悪いからだと思って全部さらったんだぜ。俺も手伝ったけど」
「大変だったわね……」
「載ってないわけないと思ったんですよ」
 エドワードは言い訳をするように言った。まだ目頭を押えている。
「そんな、複数箇所で不審者と言われるほど不審な動きを平然とするような奴、絶対に前科者だと思ったんです」
「ま、その前に別の手を打った方が良かったんだよな。ブライアンの奴は流れ者だ」
「そうでしょうね。今回の件は、妖精の密猟に絡んでいる可能性があるわ。つい最近、この辺を狩り場にしたのね」
 マーサとジルが、グルーバー博士とヘザーの所で聞いてきた話をかいつまんで伝えた。エドワードは端正な顔を嫌そうに歪め、ロイは猫に似た緑の目を瞬かせる。
「気持ち悪いな」
 ロイが言い放った。
「そう。気持ち悪いのよ。それで、ブライアンの方は? 前の居住地に照会してるわよね?」
「もちろんです。俺は目が……ロイの言葉を借りるなら『ぶっ壊れた』ので彼に頼みました」
「鏡面通信って便利だよな。早く一般家庭にも普及して欲しい」
 専用の鏡を用いて、遠隔地との通信を行なう魔法である。この「専用の鏡」と言うのが、職人の手作業でなくては作れないため、普及率は低い。審問所や役所などの公的機関に置かれている。
「そしたら、まあ出るわ出るわ。三箇所で照会したけど、かなりの職と町を渡り歩いてる」
「辿るのが大変だ。転職が多いこと自体は良いんですが、どうも、方々で寸借詐欺や盗み、そう言ったことを繰り返しては捕まる前に逃げてきているらしいです」
「今回の件で彼が審問に掛けられた場合」
 マーサがつまらなさそうに言った。
「余罪が魚の鱗みたいにぽろぽろ出てきそうね」
「俺たちが鱗取りってわけ? まあ、要するに、ここの前科リストに載ってなくて当然ってことだよな。マーサが言ったみたいに、最近来た奴だ。エドはとんだ骨折り損」
「うるさい……手伝ったお前もそうだからな」
「俺が手伝って嬉しかっただろ?」
「まあ……それはそうだ。ありがとう」
 むすっとしながらも、ロイからの好意をはねのけなかったり、彼への好意を隠さなかったりするあたり、エドワードとロイは、傍から見るより親しいのだろう。ジルは少し羨ましく感じた。
「それで」
 マーサが話を戻した。
「今回は妖精の密売、と言う訳ね」
「前の町での罪状は、妖精密売じゃなかったね。詐欺と恐喝だった」
「罪悪感がない、ということなら、彼は間違いなくそうでしょう」
「罪悪感がないなら、善悪の区別がついているかも怪しいわ」
「捕まえる意思がない、というのはかなり微妙ですが……」
 ジルが恐る恐る口を挟むと、残りの三人は沈黙した。
「……そうだな。捕まえるかどうかは、会ってから考える、というのも……俺には無理だ」
 エドワードが首を横に振った。ロイは苦笑しつつ、
「俺はできるかもしれないよ。でも、見つけた妖精を売り飛ばすってことが頭にあるわけだから、かなり難しいと言わざるを得ない」
「詐欺師みたいなことを言うな。お前、そう言うことばっかり言ってると、追い出されるぞ」
「でも、怖いとか嫌だとか、そう言う気持ちを殺さないといけない時もあるのが審問官だろ」
 今度はエドワードとジルだけが押し黙った。マーサはやれやれと首を横に振り、
「審問官の心がけについてはおいておきましょう。別に今日明日査定があるわけではないし、私たちは勤めを果たしています。二人も、別にわがままで審問を滞らせているわけではないわ。ロイ、ブライアンの住所は?」
「もちろん。わかってますよ。夜討ち朝駆け、ご随意に」
 歯を見せて笑い、ウィンクする。マーサは眉を上げて、
「明日、朝一で準備をしましょう。事情を他の班に説明して、私たちは明日の相談業務から外してもらいます」
「もし奴が本当に密猟に手を染めているとしたら」
 エドワードが顔をしかめた。
「捕まっている妖精は証拠だ。俺たちが保護、保管する必要がある。妖精を捕まえておく対抗魔法を用意しないと」
「ドロシーに依頼するわ。そう言う籠が、ラボにあった筈よ。では残りは明日。今日は解散。ジル、私たちは、聞いた話をまとめてから帰るわよ」
「は、はい」
「手伝いましょうか」
 エドワードが言った。
「いいえ、大丈夫。あなたは、その、目が『ぶっ壊れてる』んだから……」
 マーサが少し言いよどむと、ロイが手を叩いて大笑いした。
「はっは! こりゃ良い! 傑作だ! だとよ、エド。俺が手伝いで残るから、お前さんは帰って目を修理しな」
「皆してからかう……わかりました、マーサ。お言葉に甘えます」
「明日よろしくね」
「はい、もちろんです」

6.畏怖と嫌悪

 エドワードが帰り、グルーバー博士やヘザーから聞いた内容をまとめている最中、マーサが離席した。廊下に出てドアを閉める彼女を見て、ロイが笑みを浮かべながら身を乗り出す。
「なあ、ジル、マーサのこと、嫌いか?」
「と、突然なんて事を言うんですか!」
「おっと危ない」
 動揺しすぎたジルが倒しそうになったインク壺を、ロイが押えた。手を離すと、白い掌にインクがついて黒くなっている。
「ごめんなさい、手が汚れてしまいましたね」
「ああ、良いの良いの。気にすんなって。それで、どうなんだよ」
 吸い取り紙を数枚むしり取り、汚れた手を拭いながらロイはもう一度尋ねる。
「……わかりません」
「そっか」
「ロイから見て、私はどうですか? マーサを嫌っているように見えますか?」
「それを気にするからジルは良い奴だよな。俺から見たら、ジルはマーサを怖がっているように見える」
「はい」
 それはあるかもしれない。畏怖の感情はある。子供の頃怖かった、学校の先生に似ているかもしれない。間違いを言ったら叱られるような。間違えるのは悪いことだと、人前で叱責されて、烙印を押されてしまうような。
「言い方はキツいけどな。でも、あのおばちゃんも可愛いところあるんだぜ。この前、テーブルをひっくり返したらしいんだけど、その理由が──」
 ドアが開いた。二人が同時にそちらを見ると、マーサが目を細めて立っている。ロイを見ていた。
「ロイ」
「悪かったよ。言いませんって」
「ならよろしい。ジル、今のは忘れなさい」
「は、はい……」
 そう言えば……今日、妖精のことを聞きに行ったときに、ドロシーも言っていた。それくらいでテーブルをひっくり返すな、と。
(一体何があったのかしら……)
 マーサは眉間に皺を寄せているし、ロイはにやにやするばかりだ。ジルの疑問は解消されないまま、審問所の夜は更けていった。

7.妖精の保護へ

 翌日。
 マーサが他の班に説明して相談業務から外してもらい、ドロシーに依頼して妖精保護のための檻を借り受けた。小型犬の成犬が入りそうなくらいの大きさがある。
「集合呪文と連動して、檻に吸い込まれるような護符を入れておくわ」
「そ、そんなものまであるんですか……」
 ドロシーが、ぽんと檻の天板を叩きながら説明すると、ジルはしげしげと中を覗き込む。
「何でもかんでも吸い込まないように、力は弱めだけどね。誰かの家に閉じ込められている妖精を集めるなら充分だと思うわ」
「私とエド、ロイで、強制的に妖精を引きずり出します。恐らく、動けないように何らかの魔法で縛っている筈。それができたら、ジルが集合呪文を掛けて頂戴」
「わ、わかりました」
「よし、行こう」
 エドワードが時計を見た。
「あまり気分の良い仕事じゃない。妖精を早く解放しないと」

 ブライアンの住まいは、町の外れにある小さな一軒家だった。マーサがノックすると、中からはこざっぱりした風情の、若い男性が出てくる。ジルより少し年上だろうか。明るい茶髪に鳶色の目をした、愛想の良い青年だった。
「おはようございます……おっと、セールスではなさそうですね。こんなぼろ屋になんのご用ですか?」
「ブライアン・ジョンソンね。あなたに妖精密猟の容疑が掛かっています。ご自宅を捜査させて頂きます」
 マーサが言い放つと、ブライアンは全く動揺を見せないまま、にっこり笑って見せる。
「どうぞ、上がってください」
「マーサ……」
 ジルがマーサを見ると、マーサは目を細めた。
「お邪魔しまーす」
 ロイが意に介さない様子で上がり込む。マーサ、エドワードと続き……。
「あなたはお上がりにならないので?」
 にこにこするブライアンから、圧力のようなものを感じつつも、ジルも最後に足を踏み入れた。

「雷神トルリマの名において命じる」
 エドワードが祈祷書を開いて、リビングの入り口に立った。逆さ剣のアミュレットを手に巻いている。
「この場にいる、神の足跡に連なるもの。彼らの姿を私に見せろ。縛るものよ、去れ!」
「無駄ですよ。妖精なんていないんですから」
 ブライアンは廊下にもたれかかり、にやにやしながらエドワードの後ろ姿を見ている。彼の言う通り、反応はなかったようだ。寝室を見てきたロイも首を横に振る。
「何も出てこねぇ」
「だって、いないですからね」
(そうかしら……)
 ブライアンは、まるで審問官たちが骨折り損をするのを楽しんでいるように見える。
(私たちが探しているものを持っている顔に見える……)
 そして、それを上手く隠した顔だ。エドワードやロイも考えたことは同じらしい。ブライアンの顔をじっと見つめている。
 だが、それも見つけられなければただの憶測だ。大昔、無実の人間を、でたらめな審問に掛けて、山ほど処刑した、狂った異端審問官が横行した時代があったと言う。彼らと自分たちは違う。
「ちょっと! 誰か来て頂戴!」
 台所からマーサの声がすると、ブライアンの表情がわずかに強ばった。
「何です、マーサ」
 エドワードが大股に向かった。一番背の高い彼は歩幅も長く、意識して大股になるとジルはすぐに追いつけない。
「この保存庫よ」
「そこは肉を保管しているだけですよ」
「それは何の肉かしら?」
 ブライアンの釈明に、マーサが切り返す。エドワードとマーサが、床に設えられた保存庫の扉を開けると、地下へ続く階段が現れる。
「ロイ、残って。ジルは来て」
「はいよ。おっと、変な気を起こすんじゃないよ? 俺はこれでも審問官だからな」
 ブライアンは明らかに気色ばんでいる。ロイが不穏な笑みを湛えた。それを見て、ジルは少しどきっとしてしまう。あの陽気なロイがこんな顔をするなんて!
「ジル」
 マーサに呼ばれて、ジルは慌てて階段を降りた。ドロシーから借り受けた、妖精の檻を持って。

 保存庫の中は薄暗かった。確かに、食料以外何も置いていない。けれど、囁き声が聞こえる。複数の人の声がする。けれど、よく聞くとそれはジルの知っている言語ではない。いや、どこの国も使っていないだろう。

 人の使う言葉ではない。

「ここね」
 マーサは頷いた。逆さ剣のアミュレットを手に巻く。
「雷神トルリマの名において命じます。この場にいる、神の足跡に連なるもの。彼らの姿を私に見せなさい。縛るものよ、去れ!」
 魔力の動きを肌で感じる。効果があったのだ。
「……やっぱり呪縛再現か!」
 エドワードが呻いた。呪縛再現。本来なら、自然発生してしまう、人や物、妖精などに対する魔法的な制限を、人工的に発生させる魔法だ。マーサはそれに対する対抗呪文を唱えたのだ。
囁き声が大きくなる。妖精が呪縛から解放されたのだ。このままでは行けない。妖精達が逃げてしまう。次はジルの番だ。
「雷神トルリマの名に置いて命じます!」
 緊張のあまり、彼女は大声で呪文を口にする。
「この場にいる、神の足跡に連なるものは、私の元へ集まってください!」
 檻を開く。甲高い、小さな囁き声がわめき声に変わって、一斉にジルへ飛びかかった。

8.適材適所

「……ル、ジル」
 徐々に意識が浮上して行く。誰かに呼ばれている。肩を叩かれている。
「ジル、しっかりしろ」
 肩を揺さぶられて、ようやく意識が戻った。自分がどこに、何をしに来ていたのかを思い出すと、彼女は目を見開いて、跳ね起きる。その肩を両手で止められた。エドワードだ。
「おっと、急に起き上がると身体に良くない」
「よ、妖精は!? 私、檻に入れてない!」
「私とエドで入れました。一匹も逃がしていないわ」
 冷静な声を聞いて、ジルは自分の心臓がきゅっと縮まるような気分になった。自分はブライアンの家の廊下で寝かされていたようだ。声のする方は玄関で、そこにはマーサが立っている。
「妖精はだいぶ怒っていましたからね。集合呪文を掛けたあなたに襲いかかったのよ」
 本当はそのまま檻に吸い込まれる筈だったのだが、妖精の怒りの方が強すぎたせいで、檻に仕掛けられた護符の誘導を振り払ったらしい。集合呪文を掛けられて、じゃあ集合してやろうじゃないか、とジルに飛びかかったようだ。
「あなたに気を取られている間に、護符の方を一時的に強化して吸い込ませました。向こうからしたら、ブライアンも私たちも変わらないわね」
「ブライアンは……」
「逃げようとしたからロイが取り押さえた。なおも逃げようとするから、マーサが……その、障壁で殴った」
 エドワードが言いにくそうにマーサを見る。
「殴ってないわよ」
 マーサが鋭い声で抗議した。「向かってくるから、障壁を展開しただけ(2)よ。頭をぶつけたのは彼が勝手にしたことでしょう」
「わかりました。とにかく、審問所に戻りましょう。ジル、立てるか?」
「はい……」
 エドワードに支えられて、ジルは立ち上がった。
「申し訳、ありません……」
 妖精を保護するどころか、その妖精から袋叩きに遭ってしまうだなんて。
(情けない)
 泣きそうになる。けれど、自分はもう大人なのだ。泣いてはいけない。今日は帰宅してから、たくさん泣くことにしよう。

「エド、ジルを医務室へ。倒れた時に怪我をしている可能性があるわ。異常がなければ紅茶を。審問には私とロイで入ります」
 審問所に戻ると、マーサはてきぱきと指示を出した。ロイは頷くとブライアンを係に引き渡した。エドワードも納得した様子で、
「わかりました。さ、ジル、行こう」
 エドワードがジルの肘に手を添える。ジルはそれを押しとどめて、
「そんな、私、一人で大丈夫です」
「駄目です。途中で倒れたらどうするのですか。こんな寒い建物で。常に誰かが通りかかるとも限らないのよ。わかったら行きなさい」
「ですが……」
「エド、連れて行って。ロイ、行くわよ」
 うろたえているジルをエドワードが連れて行く。ロイはそれを見送ると、肩を竦めて、
「マーサ、もうちょっと優しく言ってやれよ」
「事実です」
「おっかねぇおばちゃんだな」
「あなたも口を慎みなさい。普通は上司に『おっかないおばちゃん』なんて言いませんよ、まったく。同僚の疲れ目だって『ぶっ壊れる』なんて言うの、あなたくらいよ」
「マーサだって真似したくせに」
 マーサは眉を上げてロイを見た。ロイも同じ表情を作って両手を軽く挙げる。
「ジル、自分のことすごく責めるんじゃない?」
「どうして? 妖精から袋叩きに遭ったのよ。ああなって当然です。何故それで自分を責めるの? そんな必要、ないわ」
「マーサはそうかもしれないけどさ。まあ、ぶっちゃけると、俺は野郎とジルに話をさせたくないね」
「気が合うわね」
 優しいジルは、罪悪感のないブライアンの言葉にも、丁寧に耳を傾けてしまう。優しいことは彼女の財産であるが、それが裏目に出ることもある。
「エドとも話をさせたくないわ」
「言うに及ばず。オーガも逃げ出す人でなしと、人の痛みがわからねぇ脳天気が丁度良いのさ」
 ロイは不敵に笑って見せる。マーサは鼻を鳴らした。
「行くわよ」
「おうよ」

9.審問

 ブライアンは横柄さを隠さなかった。マーサとロイが入ると、わざとらしく残念そうな顔を作り、
「なんだ、あの茶髪の彼女と、背の高い彼が良かったのに」
「あなたの審問は私たちが担当します。私はキャロライン四級審問官」
「俺はサンダース七級審問官。よろしくどうぞ」
 二人とも、挑発には乗らない。マーサが無表情に、ロイがにっこりして挨拶すると、ブライアンは腕を組んだ。
「何が聞きたい?」
「あの、地下室にいた妖精たちはどうして?」
「なに、一時的に『保護』していたのさ。怪我をした妖精を見て、放っておけるか? そんなことできないだろう? あなたに良心があるなら……」
「雑な嘘ね。妖精は、善悪の区別がついている人間の前には現れません」
「……」
 ブライアンは、笑い顔のまま表情を歪めた。
「逃げられないように、あなたがやったのでしょう」
 ジルには言わなかったが……マーサがエドワードと一緒に捕獲した妖精の一部には、くるぶしから先がなかった。ブライアンに切り落とされたのだろう。羽がむしり取られたような妖精もいた。
「証拠はあるのか?」
「あるぞ」
 不意に扉が開いた。マーサは少し嫌な顔をして、
「エド、ノックをしなさい」
「失礼しました、マーサ。協力を要請した近隣の町で、妖精のバイヤーが捕まりました。その取引先の名簿に、ブライアン・ジョンソンの名前が」
「エドって言うのかい? 君、優秀そうだね。まあ、優秀なんだろう。でも、『ブライアン・ジョンソン』って言う名前の男が、この国に何人いると思う?」
 ブライアンも、ジョンソンも、ありふれた名前だ。今目の前にいる彼以外にも、複数いるだろう。
「連絡先があの家だったぞ。流石に、同じ住所に立て続けに『ブライアン・ジョンソン』がいる確率は低い」
「馬鹿な、そんな筈はない」
 そう口走ってから、ブライアンは顔をしかめた。エドワードは目を細めて口角を上げる。
「おっと、そうだった。確か、前に住んでいた町の住所だったんだった。俺の勘違いだったらしい。でも、どうしてお前は『そんな筈はない』って言えるんだ?」
「俺じゃないからさ」
「じゃあ、なんで前に住んでいた住所が? 引っ越してから連絡を取った様だが、嘘の連絡先を教えるのに、使ったことのある住所を書くのは少し頭が足りなかったな」
 ブライアンはしばらくエドワードの顔を眺めていた。優しそうで、言いくるめやすそうだと思っていた男が、思いの外舌鋒鋭く、自分にはったりを仕掛けてくるとは思わなかったのだろう。鼻を鳴らす。
「大した罪じゃない」
「では、認めますね?」
 ブライアンは拗ねた様に肩を竦めた。ロイが身を乗り出して、
「でも、どうやって? 妖精は、捕まえようとしたら出てこないって言うよ? どうやって捕まえたの? 教えてくんない?」
 若い審問官が、自分に教えを請うのが愉快だったのか、ブライアンは少し機嫌を取り戻したようだった。にやりと笑い、
「『捕まえるかどうかは会ってから考える』と思えば良い」
「そんなことできる?」
「できる。少なくとも俺には、俺たちにはできる。君たちのような凡人とは違うからね。妖精に会う条件を?」
「『一つ、無邪気であること。二つ、善悪の区別が付かないこと。三つ、捕まえる意思がないこと』」
 マーサが諳んじた。ブライアンは満足そうに頷き、
「故に、妖精の密売人に相応しいのは、子供の心を忘れずに、善悪の区別が付かず、捕まえると言う意識を持たないものだ」
 ブライアンは背もたれに身体を預けながら、にんまりと笑って見せる。
「俺はどうやら善悪の区別がついていないらしい」
「そのようですね。逃げられないように、と妖精の脚を切り落とすことに疑問を覚えない時点で、相当だと思います」
 マーサはため息を吐きながら、
「売りさばくとわかっていながら、捕まえる意識を持たないと言うのは興味深いわね」
「それは、あんたたち凡人にはできないことだ」
「したくもないけど」
 ロイが肩を竦める。マーサは調書を片付け始めた。
「今日は終わりかい?」
「ええ。今日の審問はここまでにします。一つ言っておくわ」
「なんですか?」
「私たちは人間の異端を追求します。けれど、妖精は人の法が適用されません」
「つまり?」
「妖精はそこら中にいます。この建物の中にも。その彼らはあなたの罪を知っています。仕返しされないようにお気を付け遊ばせ。私たちも、妖精の『悪戯』は追求できませんからね」
 部屋の隅から、小さな笑い声が聞こえた。
 でも、それも一瞬だった。気付いたのはロイだけで、その彼も、気のせいかと思って首を横に振った。

10.報復

 その日の夜中。
 ブライアンは、与えられた留置室で、薄い毛布にくるまって眠っていたが、ふっと目を覚ました。囁き声が聞こえる。隣に留置されている異端だろうか? 何を言ってるんだろう? 興味を覚えて、彼は聞き耳を立てた。
 しかし、どれほど耳を澄ませても、彼が知っている言語は聞こえてこない。何だ? 頭がおかしいのか?
 聞いている内に、ブライアンはその囁き声が複数であることに気付いた。二人や三人ではない。十、二十……いや、それ以上だ。
「……?」
 聞き覚えがあるような気がする。いや、つい最近聞いたような気がする。どこだったか。ここと同じ、暗くて狭いところ……。

 自宅の地下室だ。
 妖精を閉じ込めていたあの。

 それに気付いた途端、ブライアンは起き上がった。なんでこんな所に妖精が? 一体どこに? 降り注いでくる。囁き声が。
「上……?」
 ブライアンはふっと天井を見上げた。そして見た。
 無数に光る、小さな目を。
 彼が悲鳴を上げると同時に、その小さな光が一斉に彼へ飛びかかった。

11.因果応報

 翌朝、ジルが出勤すると、マーサとエドワードが難しい顔で向かい合っていた。二人とも、眉間に皺が寄っている。ロイだけが、壁にもたれて紅茶を飲んでいた。出勤して最初に、昨日の失態を詫びようと思っていたジルは、そのどんよりとした空気に気圧されて、
「お、おはようございます……」
 おずおずと声を掛ける。すると二人は、ぱっと顔を上げて彼女を見た。エドワードが疲れたように、
「ああ、ジル、おはよう。具合は悪くないか?」
「ええ、おかげ様で……どうしたんですか? お葬式の相談みたいですよ」
「昨日の審問で……」
 エドワードが、マーサの方をちらちらと見ながら話し始めた。昨日、マーサとロイ、最終的にエドワードを交えた三人で行なったブライアンの審問について。
「……私も腹が立ったから、妖精が仕返しにくるぞ、と脅かしたんですよ。まったく反省の色が見えませんでしたからね」
「わ、私もそう思いますけど……」
 ブライアンがそれくらいで怯むとも思えない。
「今朝、俺が出勤したら、もうブライアンはいなかった。病院に運ばれたそうだ」
「俺んちの近くの病院ね。夜中にすげー勢いで、審問所の馬車が駆け込んで来たから、ああ、野郎かなって思ったよ」
「そ、それは良いとして、何故ブライアンは病院に?」
「夜中に悲鳴が聞こえて看守が見に行ったら……全身に針が刺さったブライアンが発見されたそうだ」
「……なんですって?」
 あまりにも想定外のことを聞かされて、ジルは悪い冗談を聞いた時の顔になってしまう。エドワードも苦虫を噛みつぶしたような顔をしながら、
「数十本って言う数だ。それを一瞬で。人間業じゃない。看守は悲鳴がしてすぐに駆けつけた。やった奴には逃げる時間なんてなかったはずだし、鍵も掛かっていた」
「……ブライアンはなんて?」
「妖精がやったと……」
「本当に……」
 マーサは渋い顔で首を振った。
「無邪気で、善悪の区別が付かず、捕まえる意思のないもの。留置されたブライアンは、確実に全て満たしていたでしょうね」
 皮肉にも、妖精を捕まえてもどうしようもない時に、「捕まえるかどうかは会ってから考える」という小細工もなしに妖精に会えるようになってしまった。そして、妖精の方から姿を見せたというわけだ。
「ま、俺たちがここでどんなに暗くなってても、ブライアンの野郎が治るわけでもねぇ。今日の仕事しようぜ」
 ロイの言葉に、エドワードが苦笑した。
「そうだな。マーサ、今日は相談業務を終えたら、昨日の報告書のまとめで良いですよね?」
「ええ、それが良いと思います。報告書なんて、溜めて良いことはないもの……」
 その時、部屋の隅で小さな足音がした。マーサが目を見開き、ジルが振り返り、エドワードが立ち上がる。
「妖精か!?」
「ネズミかもしれませんよ」
「いえ、ゴキブリです!」
 マーサが嫌悪感を隠さずに怒鳴る。彼女はエドワードが座っていた椅子を持ち上げると、足音がした方に駆け寄ろうとした。それを、エドワードが止める。
「マーサ! マーサ! ストップ! またドロシーに笑われますよ!」
「放しなさいエド! 今日こそ叩き潰すんです! 見てなさいよ、私を馬鹿にして……!」
「落ち着けってマーサ! 雀だよ」
 マーサとエドワードがもみ合っている内に、ロイがさっさとそれを捕まえていた。彼の掌にすっぽり収まっていたのは、小さなくちばしの雀だった。
「……」
 ちちち、とロイの手の中でさえずる雀を見て、マーサは目を細めた。ジルを見る。
「何よ……」
「わ、私は何も……」
「あー、良いよ、ジル、気にするな。マーサ、そろそろ俺たち相談に出るから。行こうぜ」
 ロイが雀を手に持ったまま部屋を出た。エドは苦笑いしながらマーサにウィンクし、ジルを手招きする。ジルはマーサとエドワードを見比べて……くすりと笑ってエドワードの後について行った。
「まったく……」
 マーサはやれやれと首を横に振った。昨日の聴取の内容をまとめようと、聞き取った内容をメモした紙を広げる。かさりと紙が触れ合う音がした。
 そして、さっきとは違う部屋の隅からも。
 マーサは鋭くそちらを見据えた。

 数分後、エドワードがマーサの雄叫びを聞きつけて、元来た廊下を引き返すはめになるのであった。

作者註

(1)審問官の階級は7段階に分かれており、一番上が1級、一番下が7級である。ジルの6級は日本警察の巡査部長に相当する。4級のマーサが警部、エドワードが警部補、7級ロイが巡査にあたる。

(2)本来なら障壁(平たく言うとバリア)を展開するにも呪文が必要だが、呪文を省略する鉱石のアイテムを1人1個持っており、各々が最もよく使う魔法を省略している。マーサはこのように捕縛にも使える障壁の魔法を鉱石に入れている。

これはとても真面目な話ですが生活費と実績になります。