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ものがたりvol.6『なんとなく高校生』

2002年3月。
夢も希望もないひとりの女子高生のわたしは、なんとなく生きていた。
将来なんてどうでもよかったからもちろん受験にも興味がない。
高校三年生の秋から通った進学塾も、通学路線が同じで一緒に帰ることが多かった友人がみんな代ゼミに申し込んだから......という理由すら建前で「塾の時間まで大都会町田のゲーセンで遊べるぞ」とか、そんなものだった。

申し込んだ授業科目は「変な名前の先生〜ウケる」という理由で英語(後にPNと発覚して社会の仕組みにびびるJK。みんな英語だけでも3コマくらい受けてた。すごいよね。)

あとは唯一好きな地理だけはとっておこうかなとなんとなく選んだ。いやなんで地理なんだよ〜。地理で受けられる学校めっちゃ少ないぞ!!!!!って今なら思う。友人たちは志望校に合わせてちゃんと日本史選んでいてはすし詰め状態だったけど同じ時間の地理は教室に3人くらいしかいなかった。そんな記憶。

大学進学も、とりあえずは大学くらい出ておかないといけないような空気の時代だからなんとなく受験をした。名前を知る著名人が先生に就任をするという噂を聞いた母校の映像学科と、あとは母親へのカモフラージュで教育大を2校受けた。結局母校の大学部に進学して「教師(公務員)になれ」という母親の希望とは全く正反対にありそうなエンタメの道をなんとなく歩きはじめることになった。

(その後またなんとなく別の大学へも通ったりするけれどまた別の機会に)

わたしが中学から大学まで10年間も通っていた学園は仏教校で、とにかく毎月何かとイベントが多かった。祭りごと大好きすぎる。一番衝撃的だったのは"針供養"といって"いつも硬いものにぷすぷす刺して折れたり曲がったり錆びた針を豆腐みたいにやわいものに刺して労わる"会。

(豆腐って食べることの他に頭ぶつけて死ぬ以外にも活用法あったんだ......)

そんな学校に入学したものの、家族は誰も宗教家ではなくただ「いにしえのお嬢様学校」というだけでステイタスを気にする母親に選ばれた。お嬢様とはかけ離れた生活に寄り添っていた木登り名人のぽんこつ小学生は「憧れのセーラー服が着られないのか〜」ともはや中学校なんてもうどうでもよかった。ただいざ通ってみると自分自身も何の信仰心はない無宗教であると貫いていたわたしも、さすがに"ホトケサマ"の存在には関心を持った。現役のお坊さんによる宗教学の授業はなかなか興味深く学べたようだ。

「忘れ物はないか〜?」

あれは高校の卒業式の日のこと。最後の別れの挨拶をと思った矢先にくしゃくしゃの笑顔の担任の先生から声をかけられた。そういえば先生はお寺の息子で、いつかはお坊さんになるんだと自分の名前について語ってくれた。
両親が共に卒業式にきていた自分は親と車で帰ることになっていて、もうクラスメイトのほとんどがすでに下校していき気づいたら教室にはわたしひとりだった。

「放課後のこの感じが好きだったなあ」

なんとなくそんなふうに感じた西陽のあたる記憶へ想いを馳せながら、名残惜しく後ろ髪を引かれるような思いで廊下に出ると先生はにこにこしながら迎えてくれた。

「おまえはいつでもみんなの真ん中に居たな。だけど一歩引いていたなあ」

突然そんなことを言われてびっくりした。"学校でのわたし"が先生にはバレバレだった。それなりに明るく楽しく過ごしていたように見せていた自分は、ほんとうのことを言えば私立へ進学した中高時代は"本当のわたし"を押し込めていたようでとても孤独で辛くて苦しい時期でもあった。

「忘れ物、いつでも取りに来いよ」

先生は戸惑うわたしに笑顔で続けた。そうこうしているうちに母が教室まで迎えに来て先生に挨拶をした。父も卒業式に出席していたのを見ていたらしく「おおぬきぃ〜おまえはいつも家族が一緒でいいなあ」と言った。先生の喋り方のクセはまるで金八先生のようだった。以後金八先生(仮)と呼ぶことにする。あの感じを思い浮かべていただけたらばっちりイメージ。

(そういえば国語の先生だ!)

ただ先生が言うほど"家でのわたし"は家庭環境に恵まれていたと自分ではとても言い切れない。それでも彼のように恩師と呼べて尊敬できる大人が何人もいたことが青春時代のせめてもの救いだった。
中学時代は手の込んだイタズラを仕掛けて先輩にシメられたり、美術で作った埴輪を敷地内に埋めたり、理由なく登校拒否もした。(一週間くらいで飽きて学校の方が楽しいかもと思い復活)
高校時代に至っては無気力すぎてガクンと成績が落ち、嫌な授業は常に寝ていたし、気が乗らない体育を休んでは同じように教室で煙草を吸っていたクラスメイトと語ることもあった。なんとなくこのグループにいるという小集団はあったけれど、居心地を求める渡り鳥のように比較的誰とでも会話をしたり遊べるタイプだった。

(今思うと不思議なんだけど、高校は担任は代わっても特例がない限りクラスメイトは持ち上がりのはずなところ、なぜかわたしだけ二年次に後の金八先生(仮)のクラスに交換された。今でも理由はわからないけど)

そのなかでも同じように何かわだかまりを抱いていたり、家庭の事情で心に傷を背負った子立ちと触れ合うと、どちらからともなくお互いのこぼした言葉を拾い合うように、たどたどしく幼い感情を語り合った。今でもなんとなく覚えている楽しかったことや、周りの人の表情や彩度に温度がどうしても年々ぼやけていくけれど、卒業式の日のように知らぬ間に傷ついた時のことは突然はっきりと思い出す。なんとなく書きはじめて思うのは、幼少期から鈍感なわたしは傷つくたびに感情を覚えていくロボットのようだった。

(時代を先取りしたAIみたいな人生だったな......)

どこか「幸せになってはいけない」と思い込んでいたのか、楽しいことや喜びの感情を覚えるたびにそのあとの落ち込みが激しく何より罪深く思えた。
こんな自分を「見ていてくれた」というのは心を深くえぐる多幸感。つまりわたしは先生の最後の一言に喜びを覚えると同時にひどく傷ついたのだ。
当時は自覚していなかったけれど「大人に自分の愚かさの根底を見破られてしまったかもしれない」という衝撃は、後々ようやく自分と向き合うことになるそのときにまた鮮明に蘇った。

昔のことを語ると友人からたびたび「そんな会話したっけ?よく覚えてるね!」と言われてしまう。(たぶん自分の熱量が関係していて相手との関係性に執着しているところがあるのだと思う)
そこで相手が先生ともなると意外にもわたしとのエピソードを何かしら覚えていてくれた。(忘れていて突然思い出してくれるのかもしれないけれど)
中2の頃に文化祭で展示した絵のタイトルを10年以上覚えていた当時の数学の先生は、大学時代に再会する顔を見るなりタイトルを連呼して辱めを受けたりした。(痛すぎるタイトルなので今となってはとても言えない......暗黒微笑)ここでも自分と向き合えるまでは「やべえぞ予想外に見ているひとがいるぞ」という羞恥心が恐怖とさえ思えた。

目立ってはいけない(かまわれるから)
期待してはいけない(しょんぼりするから)
頑張ってはいけない(がっかりするから)

そんな禁止令を発動していた頃から恩師と呼べる先生が何人かいて、亡くなった方もいれば遠く北海道へ引っ越してしまったり定年退職してしまったりで、大学を卒業してからはすっかり誰とも会うことがなかった。
なかでも自分の人生を変えるきっかけをくれた恩師には亡くなった方が多く、満足に感謝の言葉すら伝えられずに会えなくなってしまった。
すぐ思いつくだけでも同級生との会話よりも先生とのエピソードのほうが多く、家庭での愛情不足を埋めるためだったのか、なんとなく大人とのコミュニケーションを求めていたように思う。

こうやって書くことで何かを消化しているのだろうけれど、だいぶ投げやりに過ごしていたなあとたまに当時を省みる。あの頃感じていた「なんとなくでなんでもいいや」のつまらなさは世の中のことではなく何も熱意のない自分自身で、学生時代の頭がやっこい時期ですら「なんで?」って疑問に思うことの少なさよと不器用さに今更ながら気づくのだ。もっと興味を持てたら少しは生きやすかったのにと。

それでも金八先生(仮)には大学生なっても同じ敷地内にいるのをいいことに友人や家族にすら言えない彼氏の話をしたりと、高校を卒業してからもくだらない話を持って何度か会いに行った。あれからずっと先生に言われた"忘れ物"を考えていたけれど、とりあえず最後に言えなかったことはひとつ心残りだ。先生はもう定年してしまったけれど毎年だいたい文化祭に来ていると風の噂で聞いたので足を運んでみようと思う。

きっとね、先生。
今年こそ忘れ物を取りに行くよ。
今度こそ家族の紹介をなんとなくするはずだよ「夫です」って。

(今年は2020年)
(高校卒業は2002年)
(先生はお坊さんになったのかなあ)

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