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マッチングアプリを僕が毛嫌いする理由

その昔、アメーバピグと呼ばれる、当時でもオワコン化していたツールを使って出会いを求めていた僕だからこそ言えることであるが、昨今のマッチングアプリによる恋愛ほど闇の深いものはないと個人的に思っている。

一般的に、男女の交際というのは以下の手順を踏んで成り立つものだ。

①出会い
②解析
③求愛
④同意

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まず、出会いについて。
普通の日本人であるならば、出会いというのは数回、強制イベントがある。学校への入学であったり、それを超えた先にある社会への参画等々。
ともかく、人間は生きてさえいれば20代までに100人を超える人間と出会わされることになるのだ。

次に解析の段階に入る。
この解析の段階で、100人の中で、自分と気の合う人間を厳選していくこととなる。
これは、別に恋愛の対象というだけでなく、友人も同じような手順を踏むであろう。

しかし、その気の合う人間の中でも、取り分け特別感のある人間も現れるものである。
その気持ちに気づいた時、それは恋心に発展する。
ここからいわゆる、「求愛」の手順に入るのだ。
ライオンが喧嘩の強さ、鳥がさえずりの美しさで競い合うように、人間も自分の持ちうる強さを発揮しながら意中の相手を落としていくことになる。

そしてその求愛行動が実った末、ようやく同意が生まれ、その関係には愛が生まれる。

小難しそうに書いてしまったが、これが恋愛の成立手順というものだ。

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さて、本題に入ろう。なぜ僕がマッチングアプリによる恋愛に対し、闇が深いと思っているのか。
誤解のないよう、先に言うが、否定をしているわけではない。
僕なら絶対にやらないというだけだ。

そもそも、マッチングアプリは先に挙げた恋愛の手順の①~③の途中まで全てすっ飛ばす。

同意からの交際に至るまでのストーリーが本当に薄っぺらい。


効率厨に言わせていれば、「時間におけるコスパがいい」という話なのであろうが、それについては反論のしようもない。

しかし、考えてみてほしい。
もしも、恋愛にコスパを求めるのであれば、恋愛自体がそもそも無駄であるのだ。

恋愛は無駄や偶発的なものを楽しむべきであると僕は思う。

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少し長くなるが、たとえ話をする。
この記事を読んでいる皆さんは食べ物の好き嫌いはあるだろうか?
なくても、好んで食べないなと思うものはあるのではないだろうか。

僕も嫌いではないが、自分で購入はしないかなと思うものに人参が挙げられる。

しかし、偶然嫁から出された野菜炒めに人参が入っており、豚肉や玉ねぎと絡めながら食べると、しょっぱいおかずに甘い人参がアクセントになっている。

食わず嫌いをしなければ、人参の良さがわかるのだ。

書いていてめちゃくちゃわかりにくいたとえ話になってしまった。
恋愛関係含め、人間関係も一緒だ。
社会から提供される半ば強制的な出会いイベントは夕食の席に出される人参なのである。

それがどうか。
マッチングアプリだと、「偏食」にならざるを得ない。

好みの顔、好みの性格、好みの趣味、好みの年収。
あたかもカタログを見ながら自分の結婚相手を見定めているようだ。

愛し合う関係を強固にするのは、絶対に互いのスペックであってはならない。
なぜなら、そのスペックはいつか急になくなってしまうかもしれないからだ。

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恋愛関係の危機の際、それを乗り越える強さはお互いが共通して有するバックボーンが必要となる。
しかし、マッチングアプリはどうか。

初手でカタログを見るかのように相手を選んでしまっていては、そのバックボーンなどたかが知れている。

ここまで散々マッチングアプリを悪く言ってきたが、それでも結婚相手を探すツールとしてここまで広がっているからには、その有用性についてとやかく言うことはできない。

バカとはさみは使いようという言葉がある通り、こういったものは上手な使い方をすることによって、先に挙げた僕の自論を全て論破することができる。

つまるところ、出会いの溢れている学生はするな。
出会いの機会のない社会人はどんどんやるべきということだ。

僕の友人に、大学生の内からマッチングアプリを始め、恋愛観の壊れたやつもいる。
本人曰く、若干後悔しているらしい。


最後に僕の自論を展開して締めたいと思う。

愛する人というのは、努力の末手に入れるものであり、惜しまない努力によって手に入れたからこそ、より愛おしい。



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