5月10日(水)②メディア日記

 10日発売の月刊「文藝春秋」は、1987年5月3日に起きた朝日新聞阪神支局で「赤報隊」を名乗るテロ集団が朝日新聞阪神支局の記者二人を散弾銃で殺傷した事件の犯人像を特集した。その後も「赤報隊」は江副浩正元リクルート会長、中曽根康弘、竹下登両元首相らを標的に脅迫した一連の事件は「116号事件」と呼ばれ、のべ62万人の捜査員が動員されたものの2003年に時効を迎えている。

 「文藝春秋」の取材班は、兵庫県警が作成した捜査資料を入手するなど、20年にわたる断続的な取材を通して、このほど新事実を掴んだ。 詳細は24ページにわたる文藝春秋の特集を読んで欲しいが、長いことを承知の上で同記事の一部を引用する。

 文藝春秋取材班に新証言したのは、1993年、朝日新聞東京本社で拳銃自殺をした「新右翼のドン」野村秋介を金銭的にバックアップしていた不動産会社「サム・エンタープライズ」元社長の盛田正敏(79)。野村秋介は1993年10月20日、朝日新聞東京本社15階の役員応接室で当時の中江利忠社長と面会した後、同室で2丁の拳銃の銃弾3発で自決した。文春取材班はその後、約10年前にひそかにアメリカから帰国した盛田正敏に対し粘り強く取材を重ね、重大な証言を得た。盛田は「これまでの出来事は誰にも言わなかったが野村さんが亡くなって30年になるが、今も心の奥底にずっと引っかかっている……」と前置きして以下のように語った。

 116号事件は、阪神支局事件より4か月前の1987年1月24日、朝日新聞東京本社に散弾銃が撃ち込まれた事件から始まった。実はほとんど報じられていないが、同日、リクルートの江副浩正元会長宅でも発煙筒による放火事件が発生している。また6日前の1月18日には、江副元会長宅前の電柱に、「悪徳不動産屋、リクルートコスモスの親分、江副浩正を粉断する」と書かれた糾弾ビラ60枚が巻かれていた。
リクルート元幹部が証言する。 「87年1月の発煙筒事件が朝日新聞東京本社銃撃事件と同じ日に起こっていたということはずいぶん後になって知りました。翌88年8月、赤報隊に江副宅が狙われたので、二つの事件には右翼関係者が何らか関与しているのだろうと思い、得体の知れない恐怖を感じました」  この二つの事件後、野村秋介はリクルートに対して、ある「要請」をしていた。

 リクルート元幹部の証言。 「90年頃、野村秋介から、サム・エンタープライズへ資金提供をしてくれないかと、しきりに頼まれるようになった。リクルートが盛田さんへ金を出せば、野村さんと財布は同じという構造だと説明された」

 赤報隊は江副邸銃撃事件後、1年9カ月間、鳴りを潜めていた。ところがリクルートと野村氏側の間で金銭交渉が続けられていた最中に再び動き出す。
1990年5月17日、名古屋駅近くにあった愛知韓国人会館で放火事件が発生し、「赤報隊」が犯行声明文を出したのだ。盛田によれば、野村は当時、「配下の人間に発煙筒を使って事件を起こさせた」と明かしたという。この事件は、犯行声明のワープロ文字や用紙が過去の赤報隊事件と同一のものであることなどから、捜査では116号事件と同一の犯行とされている。

 リクルート元幹部の記録によれば、野村秋介に1億円を支払うことが決定したのは、1990年12月。愛知韓国人会館放火事件から7カ月後のことだ。リクルートは計1億円を2回に分け、翌年にサム・エンタープライズの銀行口座へ振り込む。91年に同社が主催した三浦半島でのヨットレース賛助金という名目だった。「野村さんへの対策費だと私は認識していた」 

 1億円を受け取った当事者である盛田は、次のように語る。
「リクルートは『また事件が起これば、右翼対策費として出せるかもしれない』という話になり、野村さんは、『わかった』とうなずいた。リクルートがわが社へ1億円も提供するメリットは当時なかったので野村さんへの対策費だと私は認識していた。金は私が一旦、預かったが、いろんな諸経費などを差し引き、6000万円以上は野村さんに返却した。野村さんがそのカネを誰にどう分配したのかは詳しく聞いてないのでわからない」リクルート関係者への取材によって、リクルートの社内文書に1億円の支出が明示されていることが確認できた。改めて、リクルート広報部に確認すると、「当時を知る者もおらず資料も見つからないので弊社としては分からない」と回答した。

 その後、阪神支局事件が勃発。当時のことを盛田正敏は次のように語った。
「阪神事件の直後とおもう。私の事務所へ野村秋介が慌てた様子で電話を掛けて来て、『3000万円ほど現金で持ってきてくれないか。大至急だ。えらいことになった。もうあとには引けない』と。この狼狽した声を聞いて、阪神事件に野村秋介も関わっているとぴんときた。いずれ、朝日を叩かないとダメだと当時から口癖のように言っていたから」

 盛田は急いで会社の金庫から手持ちの現金をかき集めた。約3000万円の現金を新聞紙に包み、当時、浜松町にあった野村事務所へ届けた。盛田が野村事務所の中に入ると、応接室のソファに野村と向かい合って短髪の男が座っていた。座っていたので背丈は正確にはわからないが、中肉中背で30~40歳に見えた。盛田が現金を手渡すと、野村は別室に待機していたその男に袋ごと無造作に渡した。盛田は後日、野村にその男の素性について聞く機会があったという。

 野村はこう語った。
「男は自衛隊出身で銃マニアだ。北陸地方に住み、既存の右翼団体には入っていない。俺の影響を受けてやってしまったようだ。捕まらないように逃走資金を出してやらないといかん。」 
盛田はその男と翌年、野村と一緒に事務所で会うことになっていたが、結局、実現しなかった。盛田は、「もし、彼が殺害事件の実行犯、あるいは赤報隊のメンバーであれば、資金提供した私も罪に問われる。だから、これまでの出来事は誰にも言わなかった」と語った。

 文藝春秋の「赤報隊の特集」は、結論として、阪神支局の直接の銃撃犯は、北陸出身の元自衛官で、その黒幕は野村秋介であることを匂わせている。ただ、野村秋介は30年前に自決し、一時期、野村秋介に傾倒していた新右翼と言われた鈴木邦男は今年1月に亡くなった。鈴木邦男は「赤報隊と会ったことがある」などと自書で公言し、116事件で警察からマークされていた男だ。

 赤報隊の実態は未だに明らかになっていない。事件のウラをとれる関係者が少なっていることも厳正な事実だ。

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