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雑記:空虚なるもの

 仕事に振り回されてしまって、どうしようもなくこの見通しのない世界の流れを見て、なんだか疲れてしまった。

 息抜きの為の、思考です。

 地震も戦争も何もかもが皮膜の中に閉ざされて、くぐもって見えた。
 何かしなければ、焦燥感は募るが何もできない。
 日々の生活、人生の主を占める仕事、労働の結果に成果に、自身とその周辺を俯瞰しながら組織人として時間を使う。ちょっとした収入と疲弊した体と心。

 優先しなければ。
 それは一体何?
 会社で評価を得て出世することか、家庭を大切にすることか、社会をより良くするための活動か、ガザへの即時停戦の声を上げることか。
 本当なら色々なことをして、社会も個人も豊かになる。そんな世界を望む。その実現に力を注ぎたいと思う。
 想像するだけで、できるのは日々を回すこと。
 少しでも良い流れを、忸怩たる思いなどは捨てて。

 健康診断を終えて、まだ陽が出ているうちに帰る道すがら、私たちがやるべきことを考えていた。
 ここから上向きになるとは思えない国で、高齢者が半数を超える国で、待ち受ける増税、稼げるかどうか分からない今後の未来。そんなものが溢れていて、チラシで入っていた四十年ローンで提示されるマンション広告、そこまでして家を求め長い年月同じ給与が得られると思えない。
 どのように、生き延びて行けばいいのだろう。
 これから、どのような情報を得て、どのようなことをしないと、生活を把持できないのか、分からないままだ。(もういい大人なのだから、自分のことは自分で決めないといけないよ、儀式だって通り抜けたじゃないか。)
 自然はそのままの姿で、青空と山を自然と対比させるこの視覚は、どこまでも自由に広がっているようだ。
 なのに、どうしてか、とても、窮屈だ。
 長く続いた国家は国から利益をせしめる腐敗が生じ、その後にはいつも暴力が待ち受ける。歴史を踏襲するなら、暴力による革命、または破壊。
 僕の目の前にあったのは災害の荒廃だけ。恐ろしい暴力による破壊は目の当たりにしたことがない。ジェノサイドは過去の世界の話ではなく、未だ現実の話だ。原子爆弾も似たようなもの。平和記念資料館で見たやるせなさ、「人間は愚か!」で怯え逃げ出したいと思っても逃げ出せない。
 暴力のこころというものは、誰にだってある。競争するが故に誰かを潰す潰さない、阿保は誰だ、馬鹿は誰だ、アイツは使えない、小さな組織ですら良い競争とは程遠い。
 生きるというものは苦しいものだ。生きるというものは、労働、小さな力で石を積み上げているようで、いつも崩れてしまっている。

 だから、そうした苦しいものや執着から逃れたいと思う気持ちに気付いた。自給自足の実現、積極的な抗議運動、国の仕組みがダメなら、蹴飛ばしてやれ。
 やらないといけないのは、合わない環境を減らし、自身が得意な所でなんとか生きられるようにすること。
 拝金も地位も僕の自己実現には必要がない。
 自分たちでやる。出来るようにする。多くの執着から、やはりさよならしたいのだ。
 さよならを教えて。
 毎日鳴いているカラスに話しかけて、お前も生きている。僕も生きている。
 猫に声を掛けて、逃げられる。
 ただ生きることも大変だ。

 果たして、この世界に陰謀なんてないんですよ。
 単に誰かが利益を得たいから、パパ活は許容されるし、梅毒は増えるし、売掛金はずっと続く。タンパク質を取りましょう、肉を食べ過ぎても糖尿病の要因になる。そして、この頭上にミサイルが降り注いだ。
 誰かの利益の為に麻薬は消えることはないし、ブランドもののフェイクは街頭で売られる。
 廃墟になり、荒廃して、交配できずに死んでいく。
 なにもよくないまま、現実は横たわる。
 ここにいるだけで、なんだか息苦しい。ここにあるだけで、なんだか逃げ出したいような、昏い穴の底が見つかれば満足できるのだろうか。

 税金によって再分配されれば良いが、これまでの人生で国が国民を大切にしていたようには思えない。また、一方で国民が国に対しあまりにも無関心、報道がある時だけ声高に振る舞うから、議員は裏金や宗教団体から金を貰い、面子の為の万博、五輪には際限なく予算が積み上がる一方でやれ財源がないだの、その為の増税がいるだのと、適切なお金の使われ方がされていない状態が放置されているとも思う。
 しかし、私たちはそれに対して徒党を組んで抗議する風土にないし、所詮「お上のすることだから」と考えない、行動しない、そんな余裕すらない。
 または、SNSを通して直接議員と繋がり、先鋭化を始める私たちか。
 声を上げること、意思を示すこと、僕はそれほど出来ていないと感じた。

 社会の問題は複雑で、多くの問題を考えなければいけないが、シンプルに提示できることで大衆はそれを救いとする。
 確か堀江貴文氏だったか、境界知能の人が山本太郎議員のような人を支持している。と言っていた(境界知能、という言葉をこのように使用することは間違っているし、区別を侮蔑に変えるこうした表現のやり方は差別にも繋がる。)が、エリート層と大衆層の分断で支持を集めたポピュリズムにも似ている。
 悪いのは議員でも官僚でもない。この社会の仕組み自体が破綻し始めていることに問題がある。
 法は時代遅れのまま、アップデートは遅々として進まず、選挙は大体が世襲、小選挙区制が党を固定し続けて傾くことはほとんどない。
 税金は間違っても下がることはなく、増税は続き、スピーカーとなった首相は賃上げとしか返さない。政治資金はうまく逃れてやってねとまで言っているような発言も出る。
 沢山の市民のお金がかかった五輪、かかろうとしている万博には際限なく予算が積み上がり、私たちはコスト最小の為に努力をするのにそんな素振りすら見えない。
 国民全員の方向に目が向いていないのは明らかだ。
 それに対して、この僕と言うやつはこのように文字を並べるだけで行動していない。
 思うばかりで、考えるに至る情報も不足している。どのように調べればよいかはわかっていても、その時間が捻出出来ていない。

 同じことを何度も何度も繰り返して、僅かな停滞期にあるWWⅡ以降の世界は、燻っていた不満や建国当初から何度も続いた中東戦争から破綻しているように思える。
 妄想するならば、資本主義のための戦争があり、焚き付けられた。
 可処分時間はゴシップやyoutubeやSNSに取られて、世の中の不満は私人逮捕で埋めて、それでヨシ。
 また、誤った方向性の努力と自己責任が罷り通り、個が消費した方がビジネスになるから、競争し、消費し、恥を晒していく。
 簡単に稼げる。素直な子供たちが鵜呑みにし、価値観は崩れる。推しに金を使う。中学生が数十万の金を使うのが普通だと思うか?
 異様な流れが広がって、人間は適応する。頭は嘘を信じ込めるし、進化せずともどんな環境にも慣れていく。
 死に向かい続ける人生の中で、生きようとする。
 拝金主義も、能力主義も、資本主義も、わたしたちを豊かにするには片手落ちだ。

 空は晴れて雲ひとつなく、世界はどこまでも広がって繋がっているように思えた。
 足を踏み出せば心地よく、ただそこに有るだけで満足出来た。
 それなのに人が作る世の中の構造にウンザリしていた。競争の果てに得られる数字、市場原理主義はもう人を豊かにするものではなくなった。
 少数が勝ち続ける。全くの無意味に、競う。
 そんな中にいて、世界は繋がっている。
 虐殺はやめよう。21世紀になっても暴力の輪は止まらない。我々は分かり合えないようだ、差別に、いつかの黄禍論に、面と向かえば朝方の忘却。
 雪崩れ込むような暴力と不安定の坩堝はまだもう少し先だ。もっと、退っ引きならない状況になってから、明日食うものにも困る。そんな状況がやって来てからなのだろう。
 平和に見せかけ、ただ停滞していた。

 停滞感からか、自身が生ける屍のように感じて創作などというものをやって遊んでいたが、徹頭徹尾自分の中から出て来るもので、その方向も自分にしか向いていない。
 自己生産の果てに恍惚だけある。
 詩や小説のようなものを書いて、誰かに見せようとする行いであれ、多少なりとも存在する自己顕示欲であってさえも、嫌悪の中から自分本位にしか描かれてはいない。
 自分の満足から出てはいかないのだ。恐ろしくもこの世界を作り上げたのも自分、世界観を接続させろ、個を全部溶かしてしまえ。
 表現を続けることで、表現者たるものか。
 現実が楽しいものでないから、人と上手く関われないから、どこまでいっても、表現はネガティブなもので、その結果年老いて哀れな生き物となる事実から逃れられないのだ。
 恐れ、怒り、憎しみ、決して喜びがベースとはならないもの。堕落に過ぎない。

・・・
 ざあざあと雨が降っていた。ずぶ濡れの中、そのまま雷に撃たれてしまいたいと思う。未だに構造のはっきりとしないものを抱えながら、いつまでも選ばれることのない傷んだ野菜のように全身から水が噴き出る。
「明日には消えてしまう」と言い、反戦デモの最中消えてしまったあの幼い人の影をもう知ることはないだろう。
 まだずっと続いている。延々と、流れるように、時代遅れの暴走族がゆっくりと高速道路を進み、変わらないんだと思いながらどこへも出て行くことのない演劇をやっている。
「鬱陶しい雨には、太陽のダンス」
 POLBOを吊り上げ、市場に並ぶ。カラッとしたスペインの空、遅い昼食に出て来るのはオリーブオイルとパプリカがかかったタコ。海に面したガリシアの沿岸で魚介類を食べては酒を飲んで寝る。
「Que RICO」
 単純で決まった言葉なら発することができた。
 主語が省略されるが故の語尾変化の多彩さを覚えられない。昔から他の言語を覚えて話すことは苦手だった。
 だからどれもこれもが観光客としての楽しさ。決して文化に近づかない。
 お金が無くなるまでそうしていたかった。けれどもうお金はない。
 それが無ければこの世界にいてはいけない気がする。民族の中での柔らかな世界、固く依然と垣間見える階級のかたちがわたしを嫌なところに置く。
 コミュニケーションが取れないから尚更だ。
 スられて困ったクレジットカードはもう停止した。何とか帰りのチケットだけは確保出来ていて、明日にはもう帰らなければいけない。
 ただ変な観光客として、踊っていた。
「明日には消えちまう、明日には消えちまうんだ」
 ふと悲しくなって酒場で泣き崩れた。
 誰かにスペイン語で慰められたようで、気が付いたら25ペセタ硬貨を握りしめてホテルの床で眠っていた。
 もちろん、財布は消えてポケットの小銭以外何も残ってはいなかった。

・・・
 どこへ行っても記憶は曖昧だ。
 忘れてしまったのかもしれない。クリスマスマーケットの中で飲んだホットワインも、、、
 もう体は温まることはなく、バカみたいに回転を続ける観覧車に、小さな石畳の段差に躓いて動けなくなる。

釘を打ち込み打ち込まれる。 そんなところです。