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優しくなりたい全ての人へ

こんばんは。
9,000人とお話してきた36歳、meexおじさんです。

私の仕事の大半は、人との会話で成り立つのですが、
その中でも大きな部分を占めるのが、
「その方のもつ美点・長所を発見する」お手伝いです。

就職活動や、もしかしたら人間が行なう何がしかの行為、
全ての成否を占うかもしれない「自信」
(言い過ぎでしょうか?私は本気で思っています)
それは「人に優しくなれる」ということにも大きく関わると考えています。

今回はその「優しさ」について、少し書きたいと思います。


優しさの生まれる理由


皆さんの周囲にも、「優しい人」っています?
「なぜ、あんなにおおらかで居られるのだろうか・・・」
「どんな場でも決して悪口を言わない人だ・・・」
「道で出会った見知らぬ人になぜあんな親切ができる・・・」
私の友人にもそういう人がいます。
そういう友人たちにこれまで助けられてきたという実感もあります。
そして、これまで多くの人と話してきた中でも、
そういう人と巡りあってきました。

では、その人たちの「優しさ」とはどこから生まれるのでしょうか。

結論から言うと、その優しさは冒頭で申し上げた通り、
「自信」からくるものだと考えています。

しかし、この自信という言葉はしばしば誤解を生むものであることも、
同時に理解しています。もし周りに、

「日常から自信まんまんに振る舞い、
 周囲に偉そうにし、
 時に周囲を自信ありげに貶める」

こういう人がいた場合、
「自信なんて、優しさの源じゃないじゃないか」
と感じる方も当然いらっしゃるでしょう。

それは至極当然です。
何故なら、そういう方々は「本当は自信のない人」だからです。
本当は、自分が誰かから「劣っている」と思われていないか、
「大したことはない」と思われていないか、
自分は「価値のない人間」なのではないか、嫌われていないかが
怖くて、怖くてたまらない人なのです。

そして、これはその人と深い信頼関係を結んだ人間や、
その人自身が求める時でない限り、決して問うてはいけません。

彼らは、それを自分自身では認識できていない場合が多く、
ひとたびその「問い」を向けられたとき、
多くの場合、それを「攻撃」と見なします。
あなたにとって、その状況は決して良いものではありませんし、
まさに「百害あって一利なし」です。
そして、更に悪いことに彼らは攻撃されればされるほど、
本来あるべき自信を失い、更に攻撃に転じます。
誰にとっても得のない行為であることは明らかですよね。

これが盛んにおこなわれているのが、
現代のSNSやネットニュースのコメント欄という場です。
自分に自信のない人が、誰かを辛辣な、あるいは下劣な言葉で叩き、
自分に自信のない人が、その誰かに対してまた口汚く罵る。
本来、自分の人生には全く関係のない誰かの失態を、
気づけば多くの人たちが群がって叩く、叩く。

利便性を追求して発明された道具に
功罪の両面がつきまとうのは世の常ですが、
この功罪のいずれも生むのは人間だということを忘れてはいけません。
SNSを生んだ誰かが悪いのではなく、
ネットニュースを生んだ誰かが悪いのではなく、
それを使う人間やそれを運用する人間が功も罪も生み出します。

さて、それでは本題に戻りましょう。
私が指す「自信」とはいったい何のことなのかを述べていきます。


「自信」とは「健全な自己愛」のことである


世の中に、完璧な人間などいません。
世の中に、完璧な人間などいません。
世の中に、完璧な人間などいません。
世の中に、完璧な人間などいません。
世の中に、完璧な人間などいません。
世の中に、完璧な人間などいません。
世の中に、完璧な人間などいません。
(大事なことなので7回伝えます)

他者よりも、どの点においても優れている(劣っている)ことなど
絶対にあり得ないのです。
もし、そう思っている人がいれば、
それは「社会が採用した評価軸に振り回されているだけ」だと
強く伝えておきます。

「お金を持っているかいないか」
「顔が美しいか醜いか(あくまでも現代の美醜観)」
「偏差値が高いか低いか」
「身長が大きいか小さいか」
「足が速いか遅いか」
「スポーツができるかできないか」
「話が上手いか、口下手か」

勝手に社会が設定したいくつかの評価軸に振り回され、
その範囲の中でしか自分や他者を見ようとしないからこそ、
「完璧な優劣」などという幻想を抱くのです。

私の意図する「健全な」自己愛とは、

自分という存在を構成する様々な面に目を向け、
「ここは好き(自信ある)だけど、ここはイマイチ(自信ない)だな」
と冷静に、精緻に、一方で、大らかに、温かく、
自らに評価を下すことを意味しています。

なぜ、上のように「自分を丸ごと評価する」ことを勧めないかというと、
先に挙げたように、完璧な人間などいないからだということが前提ですが、
他者の中に、自分よりも少しでも秀でた点を見つけた際に、あるいは
自分より“上”の人間が弱みを見せた、彼らにとっての絶好の機会において、
攻撃反応や防衛反応が起きてしまうからです。
完璧を追い求めるあまり、自信を失っていく。
とても人間らしい非効率な状況に陥ります。

冒頭で思い出した周囲にいる「優しい人」を思い出してみましょう。
その人たちは、人の美点や長所を素直にほめたり、賞賛したりしませんか?
人の弱みを突いて、悦に入るようなことをしませんよね?

それは、自分を様々な面で切り分けて評価し、
ある部分は温かく認め、ある部分は冷静に課題視できるからなのです。

そして、それが「人の美点をまっすぐ認められる」心を生み、
「自らの課題を少しでも克服しようとする」努力を生み、
結果的に「優しい人だ」「強い人だ」と感じさせる
彼らの風合いを生むのだと思います。

私は、就職活動に今まさに直面する大学生たちと毎日お話していますが、
その風合いを生まれながらに体得してきた学生たちは、
懸命に就職活動に励みつつも、全く苦労せずに自分が納得した企業に
入社していきます。

そしてその成功体験がまた、彼らの養分となり、
既に持っているその風合いを強化していっている姿を
これまで何度も目撃してきました。

おわりに まずはあなたがあなたを好きになる


我ながら、とんでもなく気持ち悪い大見出しをつけてしまいました。(笑)
でも、これが最後に皆さんに伝えたいことです。

人に優しくなるには、そしてそんな、
ある意味嫋やかな風合いを体得するために必要なのは、
健全な自己愛だとお伝えしました。

それは簡単に言うと、
まずはあなた自身があなたのことを好きになること
意味しています。

愛されたいと願うなら、まずは自分を愛することです。
どこか一か所で構いません。欲張らないでください。
完璧な優や、完璧な劣など世の中には存在しないのですから。

実は、私も「優しい」人間ではありません。
そういう優しい人や、そうでない人と気が遠くなるほど
多くの関わりをもったことで、少しわかった気になっている
ただの人間です。

「どうやったら、自分を愛せるようになるのか」
この方法論については、「ただの人間」が分かる範囲のことでしたら
おいおい書いていくつもりです。

また、次のnoteでお会いしましょう。


m_oji



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