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ヒュドラのチェンバロ【4】 クトゥルフ・バロック、あるいはクトゥルフ・ロココ・ゴシック



 わたくしはアナトリー・ミハイロヴィチ・シェレメーチェフ=ユスポフ。
 チェンバロ奏者であり「ヒュドラのチェンバロ」の所有者であり愛器の名を冠したこの物語の語り部であります。念のため申しますがストラディバリウスは所有しておりません。わたくしは人形が纏うサイズの服しか着られない背丈なのでヴァイオリンなどという楽器は弾けないのです。





 雪に覆われた叛 乱クー・デ・タの庭園に足を踏みしめたヒュドラのチェンバロの音色が身震いせずにおられないほどの残忍と怒りとを移調3段鍵盤トランスポージング・トリプルで奔流させた。

 3月にもかかわらず、白 夜Белые ночиがサンクトペテルブルクの運河の鮮血色を薄明りで照らした。天空には、極 光オーロラが、妖しく翳り明滅する宇宙のうねりを躍らせた。
 ヒュドラのチェンバロを造った楽器職人のふたりの男が連弾を奏でた。鍵盤の両わきには紫煙に包まれて聳立する彫刻が人 攫ひとさらい楽士の笑みを浮かべていた。
 パーヴェル1世は善美に織られながら城主の残虐によって血染め血まみれになった綴れ織りにおおわれたガッチナ宮殿の奥深くから臓腑をえぐるようにひきずりだされチェンバロへと引っ立てられた。

 叛 乱クー・デ・タがチェンバロの周囲にフランス趣味の二角軍帽と拍車ぐつとチャンバラ武藝に飽きた人斬り包丁の円陣を築いていた。
 ヒュドラ・チェンバロの蓋をひろげると、ヒュドラ・パーヴェルを、牢に閉じ込める罪人扱いで蓋の中へと投げ込んだ。




 一体これから何が始まろうとしているのか。
 



 











 つちでできた地面が、チェンバロの蓋の底に敷いた響板きょうばんにひろがる。土は、胴体を埋められて晒し首になったパーヴェルを、氷の冷たさで締めあげる。
 
 チェンバロの蓋の裏を飾り立てる堕地獄衆の首の群れの絵姿がパーヴェルを絞首する水位まで降りてきた。 
 首のむれの惨たらしさがダンテ『神曲』の氷 地 獄コキュートスで惨描された「カイーナ」「アンティノラ」「トロメア」「ジュデッカ」の湖面を彷彿とさせ、パーヴェルを取り巻いて合唱を披露した。
 それは古代美の瑞々しさと、妖しいまでの絢爛さと麗美さとが入り混じった蠱惑の渦であり、パーヴェルは場所を忘れて陶然と聴き惚れた。
 



 歌う首のむれの口から、巣穴にまといついた合唱を潜り抜けて、猛禽とりたちが、くちばしを鋭く光らせて現れた。
 猛禽とりたちは、カラスが孔雀の真似をするような騒々しさとは無縁なオペラの合唱服の羽毛、二角軍帽と拍車ぐつの嫌みな仕立ての良さを披露し、パーヴェルの眼前に集合した。



 楽器職人のふたりの男のチェンバロ連弾は、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』終幕に登場する騎士団管区長イル・コメンダトーレの石像がドン・ジョヴァンニを地獄へと引きずり込む場面を、わたくしの時代の音楽のロックだのベビーメタルだのも怖気を振るうに違いないワーグナーの『ニーベルングの指環』のオーケストラ美学がドイツ精神や国家主義をまるごと呑み込んで世界を滅亡へと導き最高峰の音楽調和で轟くさまを映し出す編曲を四本の腕で弾き尽くしてパーヴェルの両耳に反響させた。
 
 
 パーヴェルの調和への絶対的確信を真上から押しつぶした。
 
 

チャールズ・リケッツの『ドン・ジュアン』



 地獄を弾き終えた鍵盤の腕は四本から二本になった。
 鍵盤から手を離したもうひとりはカストラートの蠱惑きわまりない美声をふるわせた。




 すると恐るべきことが起こった。歌に合わせてとりのむれのくちばしが入れ替わり立ち代わり叛 乱クー・デ・タの仏蘭西料理包丁の切っ先でロシア皇帝の両眼を寸止めにして突っつきにかかったのだ。


                                                         ♪♪ ♪♪ ♪♪ ♪♪ ♪♪ ♪♪
錆びたる海の底ふかく、
探る秀才(すさい)のまみに似て
細くきらめく色見れば、
心の鏡すみわたり
うちに快楽(けらく)の影たゝへ
唯人の世のたのもしく、
木(こ)の暗闇(くれやみ)に若草の
香るが如く、新たなる
いのちの味を悟るかな
                                                          ♪♪ ♪♪ ♪♪ ♪♪ ♪♪ ♪♪




 いつしか響板きょうばんの箱庭が我慢のできぬ悪臭芬々ふんぷんたる粘液に満たされていた。粘着液が暗黒の宇宙まで漂うほどの匂いでパーヴェルを呑み込んだ。
 わがユスポフ家のクリミアの領地から粘液は噴きあがっていた。その正体は妖魔の血か脳漿のごとく噴き出す石油であった。わたくしの先祖たちは粘っこくて火に燃えると悪臭を放つ石油を領民たちに崇拝させ、アッザートフと名乗らせていたのだ。  
 
 悪臭を切り裂く、とりの嘴が「新たなる いのちの味を悟るかな」の歌唱に合わせて、パーヴェル1世の目を突き刺した。
 

 パーヴェル1世は悲痛な叫声を発した。絶望の思いを、極々細く残った正気の糸筋でつたえようと体得しているあらゆる言葉、ドイツ語にフランス語ラテン語イタリア語を、正気の糸が蜘蛛の巣の繊細さを忘れて膨張したヒュドラの声帯で喋りにしゃべり尽くしたその末に辿り着いたのは、エーテル界で、討伐したつもりでいたアッザートフの、くちから、帯の長さで伸びた吹き出しに書かれていた台詞ーーー
 

 







 
 
 「人間は調和に興味を持ちすぎる失敗作である」



 











 猛禽とりたちは、ロシア神話の鳥の、炎の羽根を輝かせながら、アッザートフの吹き出しを、パーヴェルの首に巻き付け、締め上げた。

 



 吹き出しが、刃の鋭利さに満たされた。
 パーヴェル1世の首は胴体から切り落とされた。
 
 












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