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ヒュドラのチェンバロ【2】 クトゥルフ・バロック、あるいはクトゥルフ・ロココ・ゴシック








”グリゴリー、そなたはうるわしい”

 

 
 
 近衛師団きっての引き立て役者、夜伽よとぎの寵臣グリゴリー・オルロフ伯爵は宮廷クー・デ・タを指揮し、エカテリーナ2世を、ロマノフ王朝の双頭の鷲の玉座へと導いた。


 

"エカテリーナ、騎上の陛下におかせられては周知のごとく、人生はもっとも大胆で華麗な賭けをうたう剣とマントの物語でございます"




 豊かな巻き毛に、騎兵帽子と軍服をまとったエカテリーナ。その顔立ちは、誰もがこれほどまでに神々しく、また同時に、これほど人間味のふかさに満ち溢れた表情を見たことがないと否応なしに思わせるほどの力強さを秘めていた。太陽植物の咲き乱れる絢爛を!
 グリゴリー・オルロフはエカテリーナを、まるで詩画集を眺めるように、女帝の花園はなぞのちりばめられた刺繍やボタンのレリーフや剣帯、勲章などから、優に数千の意味を読み取ってみせるのだ。





”グリゴリー、そなたにふさわしい土地をさずけよう”
 




 オルロフが、エカテリーナからさずかった、御伽おとぎの国の舞台のような美しい村落の群立するガッチナの平原に、きらびやかな絵図がうかびあがり、宮殿のすがたをひろげた。
 ガッチナ宮殿の、築城。その内部にはイタリアの建築様式のかずかずがひしめき、官能の技巧の粋が集められ、しっとりとした華やかさで満たされていった。






”エカテリーナ、あなたは調和の鑑だ”





 女帝に応えるグリゴリー・オルロフは、目をつむり、自らが発する、セリフの響きに酔い痴れた。エカテリーナとオルロフは世俗よりも、何オクターブも高い音程で繰り広げられる愛餐アガペーをもたらし合った。
 
 

 


 
 21世紀のコンサートホールに持ち込まれるヒュドラのチェンバロを、18世紀に縫われ、発行体のようにステージで輝く宮廷ドレスをまとってかなでる、わたくしアナトリー・ミハイロヴィチ・シェレメーチェフ=ユスポフの身の丈は、仔犬のための穴をくぐるように、過去と21世紀を、ロココと淫蕩いんとうの18世紀の筆さばきの舞曲に乗って行き来する。
 ステージを離れると、ちいさくて可愛いお人形が着る衣裳で女装し、黒貂くろてんのシューバを愛するわたくしが何者なのかは、わたくしの筆さばきに、もう少しばかりお付き合いいただいてから、申し上げたい。





 オルロフが死に、エカテリーナ2世が薨去こうきょされた後、ガッチナ宮殿はパーヴェル1世に譲り渡された。
 母が豊饒な生命の輝きで満ち溢れていたのに対して、息子は、さながら隠花植物の芳香ほうこうを吐き続けていた。当然だが、調和への考えや信念も、ふたりはまるで違っていた。
「アポロンのカリギュラ」「ナルシスのネロ」パーヴェル1世の父親は、宮廷クーデターで弑逆しいぎゃくされたエカテリーナのおっとピョートル3世ではなく、エカテリーナがまだまだ無力だった頃に愛人だった、セルゲイ・サルトゥイコフなのではないかといわれている。ユスポフ家にも匹敵するロシアの大貴族サルトゥイコフの一族は、農奴の少女たち100人あまりを拷問によって死に至らしめたダリヤ・サルトゥイコヴァ伯爵夫人を生み出すほど、絢爛けんらんたるにごりをていしていた。 
 皇太子ドーファンになる前の幼いころから、パーヴェルは読書に熱中し、想像力を年々発達させていっただけでなく、歴史、地理、フランス語、ドイツ語、ラテン語、イタリア語、ロシア語、フェンシング、ダンスを最高の水準で学び、それら総てに、きわめて高い学習力を発揮した。しかしながらパーヴェルは、沈着を知らず、せっかちで、教養を切れ味のいい武器にして、極端から極端を移り渡った。
 皇帝になる前はエカテリーナ2世にうとんじられて育ち、皇太子ドーファンの地位からいつ蹴落とされるか知れぬ恐怖にさいなまれていたパーヴェル。いつしか現世と、霊の世と幻視の世の、ありとあらゆる事柄を所有しているという確信にとりつかれ、脳みその大広間いっぱいに、宮殿建築を駆使した巨大図書館を打ち建てた。この世で最も華奢に生まれて荘厳に育った隠花植物は、世のすべての叡智えいちを手に入れてみせようと慢心したのだ。


 

 
 パーヴェル1世の侍従武官であり、ガッチナ宮殿...「ヒュドラの迷宮」の10部屋を住居として下賜かしされ、霊の世界を帝国的数学理論と天体的調和とで読み解く霊媒参謀官ミディアムのフォン・ノイマン伯爵は、回想録に、こう書きつけた。

  



♰♰♰♰「陛下がエーテル界への、霊馬での遠乗りをするときには、清涼な心情をお求めになられるときか、あるいは逆に、伝奇的印象に埋没し、二つの口から同時に物申されるような、それはそれは狂おしい口調でヒュドラ、ヒュドラとのたまい、蛇の霊の物凄い気性をお振るいになられて破綻をお求めになられるのかどちらかで、そのどちらにせよ、乗馬のあとは無心になってお休みになられるのでございます。

 ところがその日の陛下は、心身から光の輪郭を虹色に輝かせ、エーテル界への霊馬での遠乗り出奔のお申し付けは、荘厳さをかなぐり捨てた双頭の鷲がロマノフ王朝にあだなす奸臣かんしんどもの大群をついばみがら世界をみおろす慢心にとりつかれた猛禽もうきんの凄まじさで、人智を超えて、軽輩けいはいの耳に響きわたりました。」(※1)
 

「陛下は、想念のなかに広げている図書館のなかを彷徨さまよう心持ちを示されました。ヒュドラの迷宮よりも、それははるかに複雑で、そのこころもちがエーテル界に刻印され、清濁せいだくいり乱れる、箱庭がえがかれました。
 軽輩けいはいは陛下に、威厳あるふるまいを鼓舞する霊馬を授けました。 
 騎上の陛下は、下半身が人の姿、上半身はロマノフ王朝の紋章の双頭の鷲のお姿で、 透けるくらいに薄く焼かれた陶磁器をおもわせる肌には、中国の官窯かんようの染め付け職人も及ばぬほどに眩しくりっされた、ヒュドラの絵付けが、浮かびあがりました。  
  
 
 氷上の騎行の足元を土豪どもの集落の寄せ集めが、いかなる調和も統一も及ばない、狂暴なだけの地下迷宮をさらしておりました。
 暗く腐りきった迷宮から、ロシアそのものの、悪臭の噴煙がまといつく、氷の列柱がそびえておりました。つまりはその柱が、陛下の騎行する氷を支えているのです。
 柱は円形を成し、図書館のまねをして、絵巻物の大群が詰め込まれていました。絵巻はその大半が、胸がわるくなるほど衆愚的で嘆かわしい欲情をかきたてる好色物語だが、土着の地霊信仰をうそぶく「ねくろのみこんН е к р о н о м и к о н」が、受刑者から剥いだ皮のうえに、宮廷カリグラフィー職人の技藝ぎげいを侮辱するほど醜悪なロシア語でつづって、火に燃えやすい、不浄な粘液に覆われた絵巻に綯い交ぜ、見る者を、冒瀆ぼうとく呪文や暗黒質な知識の群れへの無鉄砲な覚醒へと駆り立てる野蛮な力を震わせておりました。  
 やがて柱は、そのすべてが、絵巻の吐き出す業火に呑み込まれ、陛下のあしもとの氷を砕いたのでございます。地下霊獣の歯並びを明滅させ、陛下の箱庭を、鯨飲げいいんしようと。
 
 

 我が回想の書が求め、わが書を求む、心の迷いにおさされぬ少数の読者諸賢には、存分に想像を描いていただきたい。陛下は、それは実に頼もしい姿をおみせになられました。迷宮をまとい、人馬調鳥翼じんばちょうよく一体の眩しさで、軽輩けいはいの手をとり、宙を舞うのでございます。
 飛翔するあいだずっと、陛下はカダスという単語を追走曲フーガにして、チェンバロを奏でるように、口ずさんでおられました。
 二人して、縞瑪瑙しまめのうの城塞にみえる山頂に辿り着きました。
 
 陛下と軽輩けいはいの周囲をかこんだ地下迷宮から、血だるまな土豪の霊体どもが、同音にのぼってくるのが見えます。 
 陛下と軽輩けいはいの耳元に、霊体の顔を覆う髭の奥からは、ロシアのアジア的な影のむれが放つ、声また声をひびかせ、呼び声が、応え、また呼んだのです。

 ”А з а т о тアッザートフ!” 
 ”А з а т о тアッ ザー トフ!” 
 ”А з аааааа а а аатотアッ ザー ト   フ!” 


 アッザートフ、妄想がうんだ異形、その名の前後を挟み込む、まるでロシアの、広大で呪われた土地と、その宇宙的な悪臭に、畏れと祈りをこめたような発音の渦が「ヰア!ヰア!」だとか「アヰ、アヰ!」だとか、奔流するのでございます。するとでございます。


塵芥にひとしい衆愚と何一つ変わらぬ土豪たちよ、恥じいるがよい。詠唱もひどいが、呪文が間違っている。

 
 陛下は、迷宮のまま飛び込みました、眼下の迷宮に向かって。
 ヒュドラそのもの、ヒュドラの迷宮ガッチナを超えた、丸底のフラスコで活性化するホムンクルスの、完璧な調和を整え、清涼な内容液とともに、陛下は滝の流れで降下いたします。
 迷宮を支配する自負と、複雑な彫金細工の箱庭が、落下速度に縁取られ、迷宮に閉じ込められるだけの奴隷身分の土豪にむけて、隈取りも濃く。








ガッチナの宮廷式部官の朗々たる詠唱にはとうてい及ばない邪神の信徒どもよ、そなたら誰一人として、正しい呪文を知ってはいない。



知っていたとしても、発音の複雑さも、単純な力強さや明快さも、満足につかいこなせないであろう、絶対にだ。”






 
 ああ、奇跡でございます。皇太子ドーファンの学問の机と庭でつちかった帝王学が、エーテル界で、熟成のきわみをつくしました。
 華麗なる大旋回ピ ル エ ッ トを舞う踊り手の視界のなか、土豪の妄信も、ロシアの悪臭も、眼光に搔き消され、アザートフが、ロシアの民衆宗教の玉座から、哀れな敗北神として、引きずり降ろされました。アザートフ、アザート....アザトホート...アザトースのくちから伸びた、”人間は調和に興味を持ちすぎる失敗作である”つづられた、medieval speech bubbles 画 中 詞、邪宗の意義を秘めてひるがえ翩旗ふきながしが、長いおびいちめん、虫食いだらけになりました。

 

 ピルエットからは、軽輩けいはいが、長年探し求めてきた色彩の輝かしさの奔流が止まりません。陛下は牧童の、皇太子の若さ教養の群れを、咲きたての薔薇を、つぎつぎに摘み取る!
 アポロンよ!ナルシスよ!永久に腐敗せず、厳格な歯並びで満艦飾な、迷宮のあちこちに鎮座する部屋たちよ!ヒュドラの部屋の、首の群れよ! 
 「ヒュドラと共に生き、ヒュドラを宥める者はヒュドラと同じちからを得る」ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家の家系樹は、この期に及び、神意のしるしであふれかえりました。幹も太い枝も枝葉の頭も、蛇でできたヒュドラの姿は、悪魔的と申し上げることもできる、闇薔薇が咲き誇る楽園からもたらされ、ほとんど頽廃デカダン的な気品を備えておられます。 
 






 
 陛下の視界から、不浄の総ては消え去りました。
 聴こえるのは、縞瑪瑙しまめのうの城塞音楽が奏でる、フーガだけでございました」♰♰♰♰
   



 1801年に、パーヴェル1世の命を奪ったのは、ロマノフ家の家系樹と家系図のパズルに不可欠なピースであるかのような、宮廷クー・デ・タだった。







 註:

     

       (※) 公爵アナトリー・ミハイロヴィッチ・シェレメーチェフ=ユスポフ閣下は、18世紀人で霊媒れいばい官僚がつづ晦渋かいじゅう古怪こかいな文体を21世紀の語彙ごいに書き直していておられます。「18世紀人はこんな言葉は使わない!」などという指摘には応じませんことを、閣下に変わって、メフィ(鏡谷)が申し上げます。
 フォン・ノイマンの回想録の原文は引用しません。お読みになりたい方は、どうぞ原書を、ご自由にお探ください。地球の何処どこかにあるはずです。







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