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グレース・ケリーのソウルメイト、フランスの黒人エンターテイナー、ジョセフィン・ベイカー

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®専門家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。火曜日・木曜日にまとめて投稿しています、該当する偉人がいない場合はお休みです。

長文につき、時間があるとき、興味がある方をご覧くださいね。

楽しんでいただけたら、嬉しいです。


6月3日は、アメリカ生まれのフランスのエンターテイナー、ジョセフィン・ベイカーが生まれた日。(1906年6月3日 - 1975年4月12日)

ジョセフィン・ベイカー(Josephine Baker、1906年6月3日 - 1975年4月12日)

生い立ち

アメリカ・セントルイス出身。洗濯婦の私生児として生まれる。

育った環境は非常に悪く、幼い頃から裕福な白人家庭の小間使いやレストランのウェイトレスの仕事をして生活をした。

パリでの成功

10代半ばで結婚するもすぐ離婚し、旅回りの芸人一座に加わりNYのナイトクラブの舞台に立ち、さらにパリのレビューショーに招かれて出演。

そのダイナミックなダンスは大絶賛を浴び、パリ中が注目するスターとなる。

パリで最高の舞台であるフォリー・ベルジェール劇場の看板スターとして迎えられ、ヨーロッパでもトップ・クラスのエンターテイナーとして社交界の花形に。

パリ市民権を得る

人種差別の激しかったアメリカで凱旋公演を行うも、嫌悪感の中、凱旋公演は失敗に終わり、再度フランスに戻り、市民権を獲得。

第2次大戦の勃発でも彼女はフランスを離れることなく、対独のレジスタンス活動に協力。戦後、その功績を称えてフランス最高の栄誉であるレジョン・ドヌール勲章も贈られる。

アメリカ公民権運動の支援

が、公民権運動が始まった50年代以降はたびたび渡米するようになり、メディアを通じて黒人差別の現状を批判、その活動は公民権運動家たちの心の支えとなり、アメリカの黒人社会でも彼女への尊敬の念は高まっていった。

特別な出会い

ある夜、ニューヨークのナイトクラブで入店拒否を受ける。そしてそれに抗議したある女性との出会いが生涯親交を深めることになる。

彼女の名前は、グレース・ケリー、まだ駆け出しの女優だった。

グレース・ケリー

理想の家族

ジョゼフィンは、人種差別撲滅へ向け、理想の家族を作ろうとフランス人、韓国人、アラブ人、日本人、フィンランド人、コロンビア人など世界中から12人の子供たちを養子として迎えたが、こうした活動から経済的な困窮を抱えるようになり1968年以降は半ば引退状態に陥った。

グレースの支援

モナコの公妃となったグレースはそんな彼女の窮状を心配し、財政援助をしていた。

1974年には彼女のためにニューヨークでの復帰公演を企画、後援。カーネギー・ホールでの公演は、大成功をおさめた。

グレースへの支援

あるときは、グレースが困難な場面に。会長を務めていたモナコ赤十字社のチャリティーに出演するはずであった黒人歌手が、ギャラを持ったまま逃亡。

それを聞きつけたジョセフィンは予定をすべてキャンセルし3日間グレースのために舞台を繰り広げた。

1975年。ジョセフィン・ベイカーの芸能生活50周年記念公演が華々しく行われたその4日後ジョセフィンは帰らぬ人に。死因は脳溢血。享年68歳。

葬儀はパリ、マドレーヌ寺院でのフランス国葬として執り行われ、2万人もの人々が参列した。もちろん、この葬儀を取り仕切り、モナコの墓地へおさめたのは言うまでもなく、グレース・ケリーだった。

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