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可愛くないと母に疎まれた少女が真のファーストレディとなった 〜エレノア・ルーズベルト〜

10月11日は、アメリカ第32代大統領夫人、エレノア・ルーズベルトが生まれた日。アメリカ国連代表、婦人運動家、文筆家。人権家としても知られている。

(Anna Eleanor Roosevelt, 1884年10月11日 - 1962年11月7日)

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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ニューヨーク出身。父はエリオット・ルーズベルト、母はアナ・エレノア・ホール。

父エリオットは、第26代大統領セオドア・ルーズベルトの弟であり、エレノアは、セオドアの姪。

父はハンサムだったが、アルコール依存症。母は美人であったが、エレノアが美しく生まれなかったことを不満に思い、可愛がることはしなかった。

エレノアはのちに身長も180㎝となった。

両親とも大富豪の名門だったが、家庭の中は冷え切っていた。

やがてエレノアが8歳の時に母親が、10歳の時に父親が亡くなる。

その後は、母方の祖母の下、家庭教師によって、厳格に養育され、イギリスに渡り、ロンドン南西部、ウインブルドンにあった女学校に入学、

そのときの女学校の校長でフェミニストとしても有名だったマリー・スーヴェストゥールの進歩的な考えに大きな影響を受ける。

帰国後ニューヨークで、貧しい移民の子どものための学校で働き、人生で初めて貧困の現状を目にし、大きな衝撃を受ける。このときの体験が、彼女が生涯人権のために働いた原動力であったともいえる。

1905年に、遠縁に当たるフランクリン・ルーズベルトと結婚し、5男1女の子供をもうけた。

夫フランクリンの政界入りに伴い、エレノアもニューヨーク州民主党婦人部長を務めたことがきっかけで、家庭の外で活躍を始めた。

大恐慌後の世界的な不景気下の1933年、ルーズベルトが大統領に就任。ルーズベルト政権の女性やマイノリティに関する進歩的政策は、ほとんどがエレノアの発案によるものである。

彼女はあらゆるマイノリティーの権利を擁護し、特にアフリカ系アメリカ人やアジア系の人たちに目を向け、第二次世界大戦中に起きた日系アメリカ人への迫害や、カリフォルニア州マンザナーなどに設置された強制収容所への連行に猛反対したという。

さらに強制収容所を訪問し、そこで出会った日本人の忍耐力と人間性に感銘を受けたエレノアは、大統領への報告書で、条例を緩和し皆が家に帰ることを許可するように進言している。

さらに、エレノアは戦後、GHQが日本人女性を慰安婦にしている事実を知り卒倒して、元夫の部下だったトルーマン大統領に直訴して止めさせている。

大統領史の専門家ドリス・カーンズ・グッドウィンは、エレノアについて次のように記述している。「自分の主張を裏付けるために統計デー タを使い、夫がくつろぎたいと思ってカクテルを飲む時にも押しかけ、夕食中に厳しく詰問し、夜遅くに目を通すようにとメモを手渡すなど、時を選ばず夫の時間に割り込んだ。

ちなみに彼女の伯父であるセオドア・ルーズベルトは明治時代の日露戦争の講和を仲介してポーツマス条約をあっせん。

その功績で、ノーベル平和賞も受賞している。日露戦争の終盤では日本は国力の限界だったため、ルーズベルトが講和の仲介を買って出てくれたことは明治政府にとって非常にありがたいことだった。

「自分が正しいと思うことをしなさい。どうしたって批判はされるのだから」。


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