キリストの復活と輪廻転生、の話

まず、敬虔なクリスチャンにとって、この記事はいささか見苦しく映る可能性があることを、はじめにお詫び致します。

さて先日、チェコ在住の方とメールでやりとりをする機会があり、その中でこんな会話がありました。

先方:「お世話になります。お伺いの件の返答ですが、イースターホリデーが明けてからの返信となりますことをご了承下さい。」

イースターホリデー。
聞き慣れない言葉でした。

調べてみたところ、キリスト教圏の祝日のようです。
しかも、キリストの復活を祝う日とのこと。

クリスマスやバレンタインなどは日本にも定着し、もはや日本文化となりましたが、イースターを祝う風習は日本化していませんね。

これは、イースターというのは安易に日本化できるイベントではないということを表しているのでは、と私は感じました。

日本化できない理由として、①商業イベント化の困難、②輪廻転生の思想、この二つがあるのではないか、と考察してみます。

①については、日本に異文化が定着するには、それが商業化できるかどうかというのが重要な条件になると思います。
バレンタインの贈り物、クリスマスの贈り物などの物品の流通、そしてその催しに見合ったムードづくりなど、特に男女の恋愛に絡めた商業化に成功したことにより、異国の文化が日本文化として定着したのだと思います。

しかしイースターは、キリスト教の根幹である「キリストの復活」を祝うものであり、安易な商業化はキリスト教のアイデンティティを喪失させる事になるのではないでしょうか。

例えるなら、アメリカやイギリスで、日本の昭和天皇のご命日に「天皇まんじゅう」とか「天皇ケーキ」などが売られたりしたら、日本人としてはムッとなりますね?
それと同じく、キリスト教圏の人々にとって、復活祭を商業イベント化するのは、その尊厳を踏みにじる行為となるのではないでしょうか、というのが①の考察となります。(だから商業化しない、日本文化にならない、という事)

さて、本題は②です。

日本には独特の宗教観があって、特に仏教思想は生活に根ざしているものが多いのではないかと感じます。

宗派にもよると思いますが、仏教思想の中には輪廻転生という考えがあります。

これは肉体が滅んでも魂は消滅せず、時を経て別の肉体に生まれ変わるというものです。
私の前世探究も、輪廻転生ありきの思想でスタートしています。

この輪廻転生の思想は、キリスト教にとっては最大のタブーと言えます。
なぜなら、キリスト教の最大の教義は「死を克服し、復活できたのはキリストのみ」であるからです。

キリスト教において、キリスト以外の人間は、死んだ後は「最後の審判」の時にならないと復活できません。
それが、誰でも何度でも生まれ変われますよ、なんて言ったら、キリストの最大の優位性が失われてしまいます。

しかし日本には、仏教思想としての輪廻転生と、神道からのアニマリズムの概念とが存在します。
アニマリズムとは、森羅万象全てに生命が宿り、その全てが神性を持っている、といったものです。また、神道の祝詞や神話などには、生命の循環が描かれています。(たぶん)

これらはキリスト教とは全く相反する思想形態であります。
宣教師の奮闘むなしく、日本にキリスト教が広まらなかったのはこのためではないでしょうか。

このように語りましたが、さてさて、締めをどのようにまとめましょうか。

せっかくですから、私の前世に絡めてみようと思います。

私の前世の生きた時代は15世紀。そして、キリスト教が人々の生活の根幹を成していた時代です。

フス戦争というのも、キリスト教の教義をどのように捉えるかという思想の違いが戦争に発展したものです。

そんな時代にあって、死後の生まれ変わりが存在するなどという考えは、言ってはいけないものでした。

しかし、私の前世である「アレシュ」は生まれ変わりに憧れを抱いていました。
もし、生まれ変わりがあるのなら、次は言論と思想の自由のある国に生まれたいなぁ、と。

その夢が叶って、現世の私が生まれました。

ですので、敬虔なクリスチャンにとっては、私の記事はキリストを否定するものとして映る可能性があります。ごめんなさい。


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