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オカスピやタルパに軽い気持ちで手を出す貴様らに言いたいことがある。

(これはどちらかと言うと覚え書きです。が「かなり役に立つ知識記事」である自信はあります。)
(アメブロでも似たような記事は書いていますが、それよりもオカルト色が強いのでアメブロでは取り扱わない、noteにまとめます。)

(↑今回の記事の前提・前置き。読んでね。)



 顕在意識(有意識、エゴなど)の下に潜在意識(無意識、エスなど)があり、さらにその奥のほうに集合的無意識がある。
時代、距離、文化、人種や思想(宗教や神話)を超えて共通する感覚を持っている。人類すべての奥深くにある共通認識。それが集合的無意識だ。
世界各地で語り継がれる民話や神話に共通の要素が見られるのも、この集合的無意識の影響である。


 シンクロニシティ(共時性)も、表面上のつながり、因果関係が無くても集合的無意識での関係、つながりがあるために起こると心理学者のユングは言っている。
何かを受信する、何かの声を聞く、何かを感じ取るなどのオカルトスピリチュアル的なものも、集合的無意識から漏れ出たものを拾っていると言えるのである。
神智学のシュタイナーは集合的無意識の領域を「あらゆる魂の経験が記録されている場所(アカシックレコード)」と呼んだ。
人間個人の意識の外からメッセージが寄越されるので、最初から正解か間違ってるかをジャッジせず「一旦保留」フォルダに分類しておくのがよい。

 とある対象へ向けられる感謝の意識や想念、思い、祈り、それら信仰と呼ばれるものが集められると「そう言う共通認識の存在」としての集合意識が出来上がっていき、やがて「そう言う神様」としての形を得て"意思"を持ち始める。
意思を持ち始めた元集合意識、想念の塊、神様となった「意識体」は、人々の思いに返事(呼応)をするようにこの世に作用(影響)を出し始めるのである。
多神教、特に日本の八百万の神は人々が自然のあらゆるところに畏敬や畏怖を感じ、そこに"何者かの気配や存在"を見出したのが始まりとする説もある。
多くの人の思いが集合意識となり、方向性(ベクトル)を持たせ、神と言う"装置"を作り上げる。信仰度が高いほど、信仰する人間が多いほど力を得るという論が通るのはこのためだと思われる。

 想像力は創造力とも言い、人間の念は3次元よりも上の4次元や5次元等に蓄積される。人間のイメージ力や感情、思いはそういった「3次元ではない見えない世界のシステムの一部」として互いに影響を及ぼし合う、というのは最早有名な話だ。
勘の良い人はそろそろ気付いているかもしれないが、これは「ネットタルパ」にも適応できる、近い仕組みの話のことである。

 人工精霊とも呼ばれるタルパ(≠トゥルパ)は、人間の想念から作られ、やがて魂を持つ見えない存在のことを指すワードだ。
心理や医学方面で言うところのIF(イマジナリーフレンド)とは異なり、だいぶオカルト成分が強めのカテゴリである。(だからこそ、無知な人間が手を出すのは危険という話でもあるが。)
基本的にタルパは、作る際に「自分が尊敬できる理想の姿にしなさい」と言われる。これは、上記の"方向性を持たせる"ことと同義と言えよう。

 一般的なタダのオタクや作家などが生み出すキャラクター達、及びその世界などは人間が基本感知できない世界、すなわち「高次元」に反映されているのは、ここまでの内容でお分かりいただけると思う。「目に見えないものは存在しない(自分の知らないものはこの世に存在しないとこじつける)」という考え方が如何に愚かであるかもわかるだろう。物質(科学)主義に偏った人間は、大事なものを見落とす。
妖怪・怪異だって人間の「おそれ」から存在を得る。物質的な科学と非物質的なオカルトスピリチュアル、どちらか片方の視点に偏ってはならないのだ。

 それは妄想だと一蹴してしまえばそれ以外の鬱陶しい要素をすべて排除できて自分の内面を脅かされることもなくなるだろう。しかし、"タルパを持っている人が"そう唱えているケースが実在するのでなんともはやである。
(余談だが、あの界隈の多くの人間が「よくわからないから適当にカテゴライズしている」場合がほとんどなので、本当に頭が痛い。)
ただの念の塊だったタルパはやがて魂を持った"霊体"になる、という論説を持っているが、つまりはこういうことだそうなのだ。
お天道様や米粒に宿る神様、付喪神や自然霊など、日本人にはなじみ深いものばかりなのに、タルパー(タルパ保持者)は実に矛盾した生き物だと感じる。
「そういうものたちは"忘れ去られる"ことで死ぬ」というのも、これらの話で説明がつく。

 博士号を持った日本人の学者もこう提唱しているのだし、個人的な経験や他人からの見聞でもこのような事例ばかりだったので、「お前らが知らないだけなのに文句を言っている」と自分は思ってしまうわけだ。
喧嘩をしたいわけではなく、"自分が無知なのに知らないものだからと言って好き嫌いで突っぱねてはいないか?"ということを言いたい。アメブロのほうで散々言及してきたが、そういうスタンスは自ら学びの機会を奪い、未来の可能性を自分で潰す在り方に他ならない。
洗脳してきているだのと言われたこともあるが、「一度受け取って保留にし、自分の中で噛み砕いて吟味してから必要か不必要かを判断する」ことをしない人間が、あまりにも多いことに驚くばかりだ。刹那的で即物的だという感想しか出ない。

あまり私情を挟むのもよくない。話を戻そう。

 本題の「集合的無意識」は、集合意識よりも深部にあるとされている。
タロットなどのその場その状況を占う「卜術」は、その集合的無意識にアクセスできるツールとして用いられるのが一般的である。この手の占いが「当たる(透視のように言い当てる)」のはこういう仕組みがあるからだ。
人間誰しもに備わっている"直感"、所謂「なんとなくそんな感じがした」という感覚の部分が、第六感と深く関わっているようで、実は「虫の知らせ」や「テレパシー」なども、ここを使う。

 タルパと言う存在は、集合的無意識という"大きな意思の塊"から、一部一部だけが我々の感知できる範囲にはみ出しているだけ、という場合がある。逆に言えば、その個体の裏には大いなる意思がある、ということだ。
占いと同じく、タルパもアカシックレコードに繋がりうる。つまり「神格化」する場合があると考えることが可能だ。

 もうひとつ。オーラリーディングや過去世云々などで「この人とあの人に同じものを見てもらったのに内容が違う!」ということが発生することがある。
飲み物を注ぐコップは、真上から見たときと真横から見たときとでは、異なって見える。台形のような、完全な円形のような。
"人によって見ている箇所(見ている面)が違う"らしく、もっと言えば「あらゆる世界線(並行世界)のどこに注目しているのかも人それぞれ」なんだそうだ。
しかし、コップであることに違いは無い。即ち、神話や民話、経典などが「寓話や隠喩だらけ」であるように、"本質は同じものである"ことに変わりはない。これらのことからも「シンボル(意匠)の意味を学ぶ」必要があることが解かる。それは隠秘学(神秘学)や宗教学、魔術(心理)などの方面に話になってくる。

 「一旦受け止め保留にし、それが本当はどういうものなのかを自分の中で吟味する」能力が必要な理由としては「その辺の龍神様や有名どころの神様を名乗る存在は、まずホンモノであるわけがない(騙され対策)」ということの判断スキルにつながるからである。
表面的な情報だけで瞬間的に判断し、よく調べもしないで自分の好き嫌いだけで受け入れるか受け入れないかを決める。そんな人が騙されないと言い切れるのだろうか?
先のnote記事でも書いたように、タルパだって成り変わられているケースもある。あなたは本当に、それに騙されずに過ごせるのか?自分の持ちタルパに盲目的になっていやしないか?必要なら自衛のため、情を挟まず殺し切る判断も必要になる世界だと、理解できているか?

 高次の存在で人間に友好的なものは人間が思っているよりも少ない。人間は、地球人は搾取される側であり、また彼らは人間が想像する以上に狡猾で利己的であると理解しなければならない。
何故そんなことが解かるのか?実際にそういう人複数から話をよくよく聞いた結果であり、また自身も経験した側だからである。

 無知であることを自覚しようとしない、それを開き直る。またそれによる"いい加減なカテゴライズ(よくわからないから便利な言葉に当てはめて処理しておく)"は、悲劇を生む。この場合の悲劇とは、医療で解決できるのか、寺や神社、または経験者などからの助言によるオカスピで解決できるものなのかの判断も正しく行えなくなることを指す。
すべて己のため、自衛のためのことなのに、なぜそんなにまで改めて学びなおすことに抵抗を示すのだろうか。お前の「芯」「信念」とは、そのような揺らぎやすいプライドで支えられているものなのか?
うちはうち、よそはよそ。他人の言葉なんかに揺らがされない。などと「言い訳」をして、目を逸らしているのではないか?
本当に「そうではない。」のなら、何も言うことは無い。

 タルパというものに関しては、そもそものところ「精神病界隈との親和性がある(重なる部分がある)」という前提を頭に入れておかねばならない。
どういうことかと言うと、"精神疾患を既に持っている、もしくは精神疾患になりかけている人がタルパという存在を欲する傾向が強い"という面がある、と言う点だ。
これは心の弱さ、傷付き過ぎているとか孤独であるとかの心の状態のことでもあり、「自分の都合のいい想像で作り上げることができる自分の絶対的味方」という、こころの不足を補ってくれる存在として扱われている面が非常に強いと言える部分のことだ。
危惧・懸念されているのは、そういった「すでに危うい人」が、精神疾患を助長する可能性のあるものに手を出して、誰もソレを止めることができない部分にある。
ヤバイよ、病院行きなよと諭されて「自分はそういうものじゃない!」と突っぱねるような、そんな未来が予測できる事態のことを言われているのだ。

 科学的にもオカルト的にも、「一人でそういうものをやるんじゃない」と言われる理由を、わかっていただけただろうか?こういうものは往々にして"自分だけじゃ気付けるわけがない"のだ。
人格(DID)と外部の霊・精霊、イマフレ・イマコン、それらの区別も自分だけでつけられないような人間が、果たしてその行いが安全であると言えるのか?
「過度に怖がる」からこの手の注意喚起がうるさく感じられるのだろう。「正しく怖がる」ことをしようという意識が無いのだろうか?

 知識を分け与え合うことは、愛の循環のひとつの形態である。「誰かがなんか言ってら」と捉えれば、それはただの雑音にしかならず「そういうものもあるのか。一応聞いておくか」と捉えれば、どこかで役に立つかもしれない。自身を生かすか殺すかは、他でもない自身だ。
元来、「与えてもらえる」"だけでも"ありがたいことであり、情報化社会となった現代では、そのあたりの価値が暴落しているとも感じられる。
元々能動的に自発して師事を仰がねば手に入らないようなものが、指を少し動かすだけで得られる時代なのだ。そういうものを無下に拒絶するだけなのは、いかがなものか。


こういうものを、大きなお世話、ありがた迷惑等と思うのなら、それまでの話である。

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