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清く正しく | 『真田太平記(八)紀州九度山』

加藤清正の魅力に触れる。

「戦後」の日本の動きが、西軍と東軍に分かれた真田家の動向を通じて垣間見ることができる。

ここでいう戦後というのは関ヶ原の合戦のことで、徳川家康が征夷大将軍となり名実共に天下人となった。1605年には既に二代目の秀忠に継ぎ、着々と徳川幕府の基盤を固めつつある10年。

私はてっきり大坂の陣は関ヶ原直後の勢いに乗って勃発したものと思い込んでいたが、関ヶ原合戦の後14年も月日が経った後の出来事であると知る。

この14年の間の豊臣派ゆかりの人々の振る舞いが非常に興味深い。

秀吉の妻、寧々、北政所は早々に尼となりこの時勢を切り抜けた。真田本家の昌幸・幸村はとにかく許しが出るまで徹底して大人しく九度山にて耐える日々を過ごす。草の者もしかり。しかし淀殿は時勢に反して我が息子秀頼を囲み、徳川と対立する。そんな中、自分のポリシーを貫き通す加藤清正が際立っている。

家康に忠義を貫き通す姿勢、名古屋城の建設の命令を受けて律儀にその命に従い自らの叡智を存分に活かして見事な城を建てる。

一方で、自分の領地である肥後・熊本には見かけだけでは無く実戦を想定した古今無双の城を、いざという時のための準備しておくという意志は魅了されずにはいられない。

名古屋城築城のために熊本から遠征してきた加藤清正と徳川の老臣・本多正信のやり取りが特に印象深い。

清正は名古屋への遠征に際し、厳しい武装を固めて厳戒態勢のごとく行進してきた。そして途中、大阪城により秀頼のごきげんもうかがった。これがかつて秀吉に重宝され成り上がってきた清正にとっての楽しみである。

しかし関東・徳川と関西・豊臣の間が不穏極まる時勢、誰もが徳川の機嫌を損ねないよう大坂に近づくことも憚れた時期。そんな時に武装して大坂城に赴くというのは徳川側にとっては許し難い行為であった。それをさすがにたしなめておかねばならない、ということで派遣された本多正信。

その正信に対して、清正が言い放ったセリフ。

「それがしは徳川家にも恩義がござる。なればこそ、このたびも、このようにして御役目を果たすため、名古屋へまいったのでござる。なれど新恩のために旧恩を捨てる。また、旧恩のために新恩を捨てる。これは、まことの武士の為すべきことではないと存ずる。いかが?」

池波正太郎「真田太平記(八)3294

カッコいいー!本多正信は家康が部下ではなく友であるというほどに信頼を置いている老臣。その正信に対して放った正論。正信は当然返す言葉がない。

加えて家康から承った伝言として、「髭を剃れ」というくだらない申し付けも律儀に伝え、これも清正に跳ね返され、完膚なきまでに論破された本多正信。

こういった描写がとても印象に残っている。家康のまだ盤石ではない状況への焦りがこのストーリーからひしひし伝わってきたし、何よりも自分のポリシーを全く変えない加藤清正という人間像を強く印象付ける。

今回のストーリーですっかり加藤清正のファンになってしまった。

清正の動向も気になる次巻、二条城にてついに家康と秀頼の対面へと進む。

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