見出し画像

自粛について思うこと

2020.4.18

自粛、自粛、自粛。ひとりの時間が増えた人は多いんじゃないだろうか。

以前と比べて、わたしも家の中ひとりで過ごす時間が格段に増えた。土日は家を極力出ない。ただ、気になるのは、心を軽くするほんの少しのお散歩も、ちょっとしたジョギングさえも、おおっぴらにいうのが不謹慎な風潮があること。


2020.4.23

なんとなく、書き言葉が出てこない日々が続いている。Twitterで呟きたいこと、ふっと出てきた一言のはずなのに、あえて元気に振る舞わなくちゃとか、そういうのが無意識下にある。それに気付いてしまって。

そんなに無理しなきゃ言葉が出てこなくなっているの? と感じた私は、呟くことをしばらくの間減らした。


監視し合う同調圧力も批判も、無理しなきゃアガれない自己の不安定さも、誰か悪い人がいるわけじゃない。

ただ、私にはやりたいことがあって。やりたいことをやるには、当たり前だけど生きたくって。


自分自身を振り返れば、『死ぬ』ことについて、小さい頃からやたらと興味が高い子どもだった。目を閉じて、もしこの体が冷たくなったら、私のこの手足がこの指がもう二度と動かなくなったら。そんな想像をしては、夜眠る前に怖くなっていた。何度試したって、本当の『死』については何一つ分かりそうになかった。親にも質問した。だけど、死んだ経験のない親は困り顔をしていた気がするなぁと、ぼんやりした記憶を手繰り寄せている。

つい少し前まで、大人になった私には、当たり前のように毎日仕事があって、楽しいことも悩むことも一人前にあって、小さい頃と比べたら『死』をほとんど意識せずにすんでいた(とはいえ、スーパーやお風呂場などで一人の空間を意識すると、「あれ? わたしって? この世界って?」と時折変な感覚に襲われることはあるんだけどね)


今また、否が応でも『死』が身近にそこにいるんだというリアルな感覚を、毎朝のニュースを聞くたびに味わう。

つい数日前、私は夢を見た。夢の中まで、会う人とソーシャルディスタンスを保っていた。夢くらい、せめて人のあたたかみに触れられたらいいのに。

医療現場で働く人たちの、感情が爆発した叫びとか、もしくは何もかもを込めた祈りみたいな言葉を最近よく目にする。どちらの言葉も物凄い重さを持っているので、読んでいる間、私の息は浅くなる。医療関係の仕事についたあの子は無事だろうかと少し不安になる。

かくいう私も、自分が所属する部署はまだリモートワークになっていない。毎朝の通勤前に私はニュースを聞く。ニュースにさらりと混ざっているステイホームの呼びかけやおうち時間の良さを啓蒙する企画に、私は少し疲れている。その情報に触れるたび、「不要不急とは何なのか」と矛盾を抱えたじぶんに自問自答するしかなくなる。不安定になってしまうのは、まあ無理もないわなと客観的に感じる。無理してアガる必要も訳が分からないし、なにかを批判するのもうまく言葉にできないけど違和感がある。


生きたいと思う理由、大好きな人たちとしたいことの一つ一つはすごくささやかなこと。コロナ以前なら、そんなの当たり前にあることでしょっていうことばかり。けど、それがほんとうに今の私を支えてくれている。

収束して当たり前なことを当たり前にできる幸せな日々を。あの人たちと笑顔で迎えたいなぁ。ここまで読んでくれたあなたも。

みんな、一緒に迎えられますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?