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生きるために 表現する

表現することを避けていた時期があった。

自分の感情や気持ち、内側にある何かを、言葉や表情、絵など、
目に見える形にするということ。
たとえ意図していなかったとしても、それらが自分以外の誰かに、
届く、伝わるということ。

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小さい頃のわたしは、帰国子女だったから英語が喋れて(今はそんなこともなくなったけど)、成績も良くて、運動もそこそこできて、何かグループごとの活動があるときは必ずと言っていいほどリーダーのポジション。キッズモデルもやっていた。

目立つことが大好きだった。というより、そのくらいアピールしないと薄れて埋もれてしまう海外の環境にいたから、それが当たり前だと思っていた。

いろんな人に「すごいね」と言われた。その言葉たちを馬鹿正直に受け取り、その度に自分は特別なんだと思っていた。

しかし大きくなるにつれて、周りの空気に違和感を覚えるようになった。
友達に話しかけてもすーっとどこかにいってしまったり、遠くから自分の方を見てこそこそ話しているのを見かけたり。

そしてある日、わたしは一冊のノートを見つけた。
誰のだろう、そう思って開いたページには、わたしの名前と、わたしの嫌いなところが書いてあった。

今思うと自分はひけらかしていたなと思うし、そんな人が近くにいたら嫌な気持ちになる人もいるよなあ、と思う。

でもそのときは、ただただ純粋に、悲しかった。

そしてふと思った。
いろんな人に知られて、注目されればされるほど、自分のことをよく思わない人が増えていく。
それなら、もう知られないようにすればいいんだ、と。

それ以来、自分のことを必要以上に話さなくなった。
気持ちを少しだけ押し殺して、にこにこしていれば大丈夫。そう思い続けながら過ごした。
わたしのことを嫌う人が、少しずつ、でも確実に減っていくのを感じた。

そうしてわたしは、自分を守ることができるようになった。
自分を「表現する」自由と引き換えに。

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あの傷ついたときから長い時間が経ち、
少しずつ自分の気持ちに耳を傾けることができるようになった。

大学生になってからは、文や写真という形で、自分なりに表現を少しずつ取り戻せるようになっていた。だけどどうしても、カメラの前に立って表現することだけはできなかった。
被写体・モデルと聞くと、小さい頃の記憶がセットで出てきてしまうから。

SNSなどで他の人が表現をしているのを見る機会は何度もあった。
それを見たとき、「自分も表現したい」という気持ちがいることは気づいていた。ずっと、その気持ちに知らんぷりをしていた。でも、その気持ちがどんどん積み重なって膨らんで、溢れそうになるのを感じた。

そして苦しくなった。
なんで自分は、自分の気持ちすら無視してしまうんだろう。
無視される辛さや悲しさを知っているはずなのに。

少し経って気づいた。
あのとき、自分の身体は死ななかったけど、自分の心を殺してしまっていたのかもしれない。それなら、自分の「気持ち」の命を、もう一度蘇らせてあげたい。

だから今度は自分のためだけに、自由に表現することを始めてみようと思う。
自分が今も生きている意味を、自分に教えてあげるために。

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