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本業を持たずに生きてゆく。

 よく本業はなんですか?という質問を受ける。
 というのも自分の活動をざっと書き出すと、ライター・編集者・フォトグラファー・ペインター・プロデューサーなどなど多岐に渡るからであり、さらに例えば文章を書いていると一言で言っても取材記事やエッセイから詩や小説などの文芸活動までかなりの幅がある。
 まるでフリーマケットのようにこれらをずらりと広げて人に見せたときに、どうやら私が一体何者であるのか人物像があやふやに思えるようで、みんな混乱してしまう。そして「どれが本業なんですか?」という質問が飛んでくるわけである。
 混乱した人々はどうにか秩序を取り戻そうと、今度は私の適性を探そうとする。ある人は「あなたは文章を書く人でしょう」と言うし、またある人は「え?写真を撮る人でしょう」となるし、アート作品の個展やグループ展などで出会う人は当然「あなたは絵を描く人でしょう」となるわけである。   
 それぞれが私の一番得意としている部分を探し出し、「見抜いた」とでも言わんばかりに「これこそあなたの本業だろう」と自信満々な顔を見せるわけだけれど、残念ながら前述の通り人それぞれどれに一番の評価をつけるかはまちまちなのである。
 ではよく世間一般で言われている、趣味と仕事の境界線である経済的にうまくいっているかどうかという視点を持ってきてみよう。
 けれどこの考え方でいくと、現在私はライター・編集者・フォトグラファーの3つの職種、どれもが同じくらいの収入になっているので、一概にこれが本業とはやはり言い切れない状況にある。
 さてここで、現在だけではなく未来に視点を向けてみる。この定義で言うと、おいおい私が技術を向上してさらにチャンスにも恵まれ、ペインターでの稼ぎが今あげた3つの職種の収入を上回ったとする。その場合私はライター・編集者・フォトグラファーではなくなるのだろうか。私個人の感覚でいうとそれはなんだか腑に落ちない。私は決して本当は絵画で食べていきたいけれどそれができないから別の仕事をしているわけではないからである。納得がいかない。
 ではまた別のパターン。例えば私が写真と絵画を組み合わせた作品を作り出し、それが売れたらどうなるのだろう。文章と絵画でも良い。その時私は一体何者なのか。今度はそれらを包括できる「アーティスト」という職種に進化するとでも言うのだろうか。まるで子どもがやるバーチャルゲームのキャラクターのように。なんだか馬鹿げた話である。
 そこで私は思うのだ。
 どうして「本業」なんて持たなくてはならないのだろう。どうしてそんなものに囚われる必要があるのだろう。私は自分がやっている活動をどれも楽しんでいるし、それによって仕事も得ているのだ。
 私はライター・編集者・フォトグラファー・ペインターなんていうカテゴリーは、人の認知能力が処理しやすい、つまりわかりやすさを突き詰めた結果生まれたものであり、そもそもそこに本質なんてないと思っている。
 職種を作り出している技能を、私はただの何かを伝えるため、表現するための手段としか捉えていない。手段なのだから都度目的に合わせて選択したら良いと思うのである。
 例えばフランスにある有名な美術学校「エコール・デ・ボザール」は、日本の美術大学のように油絵科、写真科なんていう技法による区分がないという。先に考えや伝えたいもの、作りたいものがあり、そのために必要な技術を後々学生が勝手に選択して培って行けば良いという考え方なのだそうだ。私が物事を捉える順序は、これにとても近しい。
 このような私の考え方は人生のどこかの地点で後天的に培われたものではなく、私が生まれた時から備えていたものだと思われる。だから私にとっては至極自然なことなのだ。
 なぜこう思うのかというと、私が文章を書くことに楽しみを見出したのは小学校4年生のときであり、絵を描きはじめたのは中学生のとき、そしてはじめて自分でコンパクトカメラを購入したのも中学生のときで、高校生になってからは洋服を作り、大学生のときは建築を学び、社会に出てからはひたすら編集と執筆と撮影の日々で、そしてそれらがある程度落ち着いたときにまた絵を描きはじめた。時々で手段を変えたのは、その都度先んじてあった表現したいことに最適な手段を選んだからである。
 私には自然なことだったけれど、一途にひとつの技能を追い求めたい人にとってはあっちもこっちも中途半端にしてと、私がひどく軟派に映ることだろう。
 けれどもここでもやはり思うのだ。カメラ・絵画・文章などなど、表向き分かれている技術も、もっと微細に、もっと踏み込んで見たときに、きっちりと分断することなど不可能に等しいのではないだろうか。
 例えば構成力は絵画でも写真でも通ずる部分があるし、写真家の中でも薬品などを用いて画面を融解させて作品を作っている人などは、写真独自のドキュメンタリーな側面ではなく絵画という視点を強めて捉えているのだろうと伺える。
 また、作品の展示をするときに使われる能力は、企画力でありコンテンツの構成力であり、それは編集能力に近しいと私は思っている。その上企画やコンセプトなどを考えるために必要な基本の能力は、そもそも文章力だ。
 また例えば画家・ゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」や、「泉」などで知られるマルセル・デュシャンの「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」、これらの魅惑的な作品タイトルは、彼らの文学的な能力なしに生まれたとはとても考えられないのである。文章力が彼らの絵画や立体作品を作る上で、使われなかったと誰が言い切れるだろうか。
 多職種である一個人を例に挙げると、例えば草間彌生は「画家・小説家」と名乗っているし、「不思議の国のアリス」を書いたルイス・キャロルは「数学者、論理学者、写真家、作家、詩人」、ジャン・コクトーが「画家、映画監督、脚本家、詩人、小説家」と多方面で活躍したのは有名な話だし、日本だと天使などの絵画でよく知られているパウル・クレーは画家としての側面がよく取り上げられるが、プロのオーケストラに所属していたことがあるほどの腕前のバイオリン奏者でもある。
 記録が残っているものだけ挙げ連ねているためどうしても超人と言っても差し支えないような現実味のない著名人ばかりになってしまうけれど、このような生き方をしてきた人は他にも星の数ほどいたに違いない。
 こんな考え方をしているから、私は「本業」というものにとんと興味がない。
 私はライターになりたいわけでもフォトグラファーになりたいわけでも編集者になりたいわけでもアーティストになりたいわけでもなく、作りたいものを作るために、そして「私」として活動してゆくために必要だと思うことをしているにしか過ぎない。
 そのため、おそらく私はこの先10年経っても20年経っても、何者にもならないだろうし、おそらく多くの人にとって何をしているかわからない人だろう。
 けれどもやっぱり思う。本業なんていう堅苦しくてつまらないもの、私にはいらないのである。


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