キャッチボールをしてみたい

人と接するとき、どこかでいつも予防線を張っている。嫌われても傷つかないように。
こんな風に思っていたのはいつからなのか、もう思い出せない。

車椅子で生活をしていると様々な悪意に出会う。悪意とまではいかなくても、無意識に世界に私が想定されていないことを意識する。入り口が階段だけの飲食店やお店、狭くて他の人に気を遣う電車やバスなど。私が子どもだった20年ほど前はまだ乗車拒否もあって、公共交通機関を使うことが怖かったのを、よく覚えている。今だって表だって言われないけれど、面倒な顔をされることもある。もちろん快く接してくれる人もたくさんいたし、今もたくさんいるけれど、これは私にとっての悪意の原風景だ。

こういうことを度々経験しながら大きくなった私は、人に迷惑をかけているのではと常に心のどこかで思うようになった。人より行動は遅くなるし、外に出るときに考えることも多い。他のいわゆる健常者と一緒にいれば気にせずに済むことを私は気にさせてしまう。申し訳ない。口に出さないだけで、きっと面倒なはずだ。だって私といなければ気にしなくて済むことだ。こんな感じで、仲のいい友達や恋人と行動するときですら、私はいつも怯えていた。いつか嫌われてしまうと。

この考えが少し変わってきたのは、つい最近のことだ。私の友人たちが口酸っぱく「迷惑ではない。迷惑なら一緒にいない」と様々な形で長い時間をかけて教えてくれたこともあるが、私にとって印象深い出来事がある。
昨年、大ヒットしたドラマ「silent」の中に、こんなシーンがある。
聴者である主人公紬が、ろう者である想に「私ね、いたくているだけだからね」と想の存在が迷惑ではなく、自分が想のそばに「いたくている」ことを伝える。
私は想と種類は違えど同じ障害者なので、ドラマの中で想が障害に対してコンプレックスを抱く姿は自分のことのように胸が苦しかった。でもシナリオブックを読んでいたとき、ふと、私の友人たちも私と一緒に「いたくている」のではと考えることができた。

例えば自分に置き換えてみたとき、自分にとって面倒だと感じたり良くない感情を持っていたりする人と行動をともにするだろうか?仕事ならともかくとしても、プライベートの友人関係においてはなかなか考えにくい。ということはやはり、友人たちもそうなのではないか。となると、今度は私の方に問題があるのではないかという気持ちになった。なにしろ相手はいたくて一緒にいてくれていたのに、私の恐怖心が強いばかりに相手を疑ってしまっていた、ということである。大好きな友人たちなのに、悲しすぎる。これこそ申し訳ないというべきところだ。でも突然謝っても、なんのことやらと思われるだろう。
だから、申し訳ないと言う代わりに、迷惑ではと思わないようにしてみる。長年染みついてしまった思考をすぐに直すのは難しいかもしれない。でも、目の前にいるこの人は少なくとも私に好意がある人間だ、と、目の前にいる人を信頼したい。こう書くとなんだか自惚れみたいで少し恥ずかしいけれど、そう信じて、好意のキャッチボールをしてみたい。 

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