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私が見た南国の星 第4集「流れ星」⑧

工商局との会談


  一夜が明けて、朝早くから工商局の職員がやってきた。彼等も新年の事件では和解に努力しているのだが、なかなか進展が見られず何度も同じ話をされた。今回は副社長が来ているので、話し合いをしてもらう事にした。しかし、昨日の余韻が残っているのか、またまた大変な話し合いになってしまった。
「私は副社長ですから、今回の事件について率直な意見を言わせてもらいます。あなた方は、いつになったらこの問題を速やかに解決が出来るのですか」
と松岡氏は中国語で発言した。「あぁ、また、とんでもない発言だ!」と、内心冷や汗が出る思いだった。工商局の職員も苦笑いをしながら、相手の要求や政府の意見を説明した。すると、松岡氏は腹立てたように、
「いいですよ、あなた方がそんな意見を出すと言うならば、こちらにも考えがあります。裁判にしますから相手にも伝えて下さい」
と強い口調で言った。それを聞いた私は、松岡氏の発言が職員の気分を害するのではと心配でならなかった。案の定、職員の一人が不満そうな顔つきになって、
「あなた方の会社は外国企業ですから、もしも裁判にでもなればマスコミの餌になりますよ。いいですか、社長にも裁判所へ何度も出廷をしていただかなければならないのです。だから、安易に結果を出さない方が良いのでは」
と言った。しかしながら、この発言は松岡氏には通用しなかった。
「いいですよ、何処へでも出廷させます。もし、社長が出廷できなければ自分が出ますから問題ありません」
松岡氏の強気な発言に、彼等は怒って、急に席を立って帰ってしまった。それを見ていた阿浪は、後を追い駆けて何だか謝っていた様子だった。職員が帰り、松岡氏が席を立った後に、阿浪から彼等の話を聞いた。
「松岡さんは本当に失礼な方です。工商局員を怒らせてしまったら、僕たちには対処が難しくなるのですよ。サービス業ですから工商局とは仲良くしなければ今後の業務も難しくなります」
そして暫く無言だったが、阿浪は、
「工商局職員が、副社長とは今後話もしたくないと怒っていました」
と話してくれた。
 松岡氏は、私達の大変さもしらないで、どうしてあんな言い方をするのかと腹立たしくなった。朝からこんな調子なので、午後の政府会議には何を言い出すのかと、不安な気持ちを抑えることができなかった。

政府会議


 昼食の後、政府の会議までには時間があったので、松岡氏は部屋で休憩していた。その間に阿浪と私は、事務所で待機をしながら会議内容について話し合っていた。議題は「SARS予防策」と聞いていた。そのころ中国大陸では「SARS」が大変な問題になっていた。海南島でも神経を使う日々だった。この島では、まだ感染者についての報告はなかったが、その影響でホテル客は減少し、どこのホテルも頭を抱えていた。政府の会議に出席する松岡氏は、休憩を終えて気分も新たに元気そうな表情だった。会議が始まる1時間前にホテルを出発するというので、私たちも慌てて出掛けた。
 会場に入ると、会議室には誰もいなかった。まだ近隣のホテルや政府関係者の姿も無かった。松岡氏は、一番前の席に座りメモ用紙とペンを机の上に置き準備万端、その様子に私たちも身動きが出来ない状況だった。
「松岡さん、まだ早すぎたようですね。政府の方や皆さんは、会議の5分前くらいにならなければ来られませんからお疲れになりますよ」
と言っても、彼は無言のままの状態で身動きさえもしなかった。私たちもずっと座っているのが苦痛になり声をかけたが、そんな私の言葉が耳に入らないようだった。暫く無言なので、顔を覗き込むと、松岡氏は座りながら居眠りをしていた。やはりお疲れなのだろう。暫くそっとしておいた方が良いと思い、私も会議が始まるまで静かに座って待っていた。予定時間が迫ってきて、各ホテルの責任者たちも次々に集まってきた。ところが、政府関係者は誰も会議室には姿を現わさなかった。私は阿浪に、
「もう、時間なのに政府の人は遅いですね」
と声をかけると彼は、
「いつも遅いですよ、政府は時間にルーズですから」
と淡々と答えた。政府の会議には、いつも阿浪が出席をしていたので慣れているのだろう。
 この点は、やはり日本人とは違っている。また、この島は北京や上海と違い、のんびりした業務が通常になっているので彼らが遅いのは当然のことなのかもしれない。案の定、予定時間から20分が過ぎて、やっと政府の顔ぶれが揃った。会議が始まると松岡氏は、中国語でメモを取っていたようだったが、真剣なまなざしを見て不安になった。ここでは、たぶん問題になるような言動はないと思いたいが、何かおかしな事を言ったらどうしようと、私の心中は穏やかでいられなかった。政府から、
「質問があれば発言して下さい」
と言われた時だった、やはり彼は黙っていられず、中国語で質問をされたのだが、発音が悪くて相手に理解してもらえなかった。何度聞き直してもわからないので松岡氏の座っている場所へ近付いてきて、紙に書きながらの会話で、やっと理解ができたようだった。その時、後ろの方から数人の会話が聞こえてきた。
「あの人は誰なのだろう。彼は日本のホテルから来た人みたいよ。社長かしら?違うわよ、あのホテルの社長はもっと若いわよ」
という会議の内容とは全く関係のない会話に聞き耳を立てているのが楽しかった。
 会議は4時過ぎに終了した。松岡氏は何か疑問があった様子で、政府関係者の所に近付き話をされていた。それを見て、とても心配になり、側まで近付いた私は会話を暫く聞いていた。しかし、特に問題が起こりそうな話でもなかったので、側から少し離れて話が終わるのを待っていた。やっと名刺を出しているのが見えたので、
「良かった、やっとホテルへ戻れるわ」
と小さな声で阿浪に言った。彼も少し落ち着いたのか、笑顔で頷いてくれた。
 ホテルへ戻る途中、松岡氏は、政府会議の苦情や難しい話をしていた。そんな難しい専門用語はよくわからないので、ただ聞くことだけしかできなかった。おまけに松岡氏の弁論は、ホテルへ戻ってからも延々と続いたので、運座視したが、電話が掛ってきて私は、救われた。
 電話の相手は旅行社の陳さんだった。彼も話好きな性格だったので、30分も話しが続いた。
「陳さん、では次回お会いしましょうね」
と言っても、彼は一方的に話をしていた。困り果てた私は、
「陳さん、ごめんなさい。お客様がお呼びですから、また次回お話をしましょう」
と嘘をついた。話好きな中国人なので、このまま会話を続けていたら夜中になってしまいそうだった。しかし、中国人から私に電話が掛かかってくるようになったということは、海南生活の数年間が無駄ではなかったということなのだろう。
 ところが松岡氏は今回の訪中で、不愉快な出来事もあったというのに毎日が楽しそうだった。毎晩、彼女とのデートが彼の疲れを癒してくれているのかもしれない。それでも私に対して恥ずかしいらしく、
「私は忙しいって言うのですが、彼女が会いたいと電話ばかり掛かって仕方がないです」
と照れた表情は、青春を楽しむ若者のようだった。そんな松岡氏の言葉に嘘があっても、暗黙の了解ということにした。やはり男性は、女性と違って子供と同じなのだと思った。
 松岡氏は5月3日に帰国をされる予定だが、最後に彼女と一緒に海南島の文昌市への旅行を計画していた。5月1日から二泊三日の予定だという。客室も連休中は満席予約が入っていたので部屋を空けていただくのは助かった。帰国は3日の夜、三亜空港から19時40分発の飛行機だときいていたので、ハードスケジュールだと思った。見送りは彼女がすると言っていたので、お任せすることにした。こうして、松岡氏との数日間も終わりを告げ、やっと落ち着きを取り戻した。
 ところが、最後に松岡氏と私の間に大変なことが最後に起こってしまった。これは、私にとって生まれて初めての屈辱を感じた記憶となった。
 5月1日の午後1時過ぎだった。松岡氏が使用されていた客室に、予約の客が時間前に来てしまった。だから直ぐ連絡をして、部屋を空けてもらうようにお願いをした。暫くして、その客を部屋に案内したのだが、トラブルはその後すぐ起きてしまった。


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