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#映画感想文310『12日の殺人』(2022)

映画『12日の殺人(原題:La nuit du 12)』(2022)を映画館で観てきた。

監督はドミニク・モル、脚本はジル・マルシャン、ドミニク・モル、出演はバスティアン・ブイヨン、ブーリ・ランネール。

2022年製作、121分、フランス映画。

大学生のクララは、親友のナニーの家で過ごし、帰宅途中、男に呼び止められ、アルコールをかけられ、火をつけられる。死因は窒息死。生きたまま焼かれ、彼女は亡くなる。

この事件の捜査の班長であるヨアンは、常に冷静で淡々と仕事をこなしていく。結婚はしておらず、一人で暮らしている。

相棒のマルソーは、妻とのあいだに子どもができず悩んでいたが、妻が新しい男を作り、たった三か月で妊娠し、離婚をつきつけてきたため、精神的にかなり不安定な状態に陥っている。男性性が揺らぎ、信頼していた妻に裏切られ、悲惨な状態ではあるものの、彼は女性蔑視的な人間ではない。むしろ、女性を虐待して喜ぶような男たちに憤怒を抱えている。

クララの人間関係を調べていくうちに、彼女の男性関係が多いことが明らかになっていく。しかし、この「多さ」というのは曲者で、貞節の定義など個人の感覚によってまったく異なっているもので、彼女が性に奔放であったとは言えないし、尻軽であったなどと決めつけることはできない。

ただ、クララは惚れっぽく恋愛中毒状態であったことは間違いなさそうだ。男性を好きになると、自分からガンガンアプローチして、すぐに関係を持つ。男たちに共通点はない。あまり知性は感じられないボウリング場の従業員、母親と暮らす黒人ラッパー、前妻にDVをしていた男、文系のニヒリスティックな嫌な奴、納屋に住むホームレスみたいな男。

クララには両親もいて、親友のナニーもいた。孤独に苛まれてはいなくとも、寂しがりやではあったのだろうし、恋愛や性愛の刺激はまた別物だとも言える。彼女が関係を持った男たちは、みんな容疑者のようではあるものの、決定打となる証拠が見つからず、逮捕には至らない。

フランスの殺人事件は年間800件程度で、そのうち20%は未解決事件になるのだという。

刑事のヨアンは、親友のナニーの証言に苛立つ。彼女が情報を小出しにしていると責める。ナニーは、なぜクララが寝た男たちがそれほど重要なのか泣きながら言う。

そして、彼女は「クララがどうして殺されたか知っている? 女だから殺されたの。理由はそれだけ」と悔しそうに、そして、ヨアンを説き伏せるように言う。ナニーは、痴情のもつれなどではなく、単なるフェミサイド(女性であることを理由にした殺害)であると考えているのだ。

ヨアンは虚をつかれる。そして、予算が不足し、他の事件も起こり、捜査は打ち切られる。三年後、判事のベルトランに事件捜査の再開を促される。ヨアンは「すべての男が容疑者でなすすべがない。この事件は男と女の溝によって起きたのだ」とあきらめを吐露する。それに対して彼女は「捜査は男女の溝で済ませられるものではない」と諭す。

犯人は現場に戻ってくる。捜査員たちは、彼女が襲われた現場にワゴン車を停め、一晩中張り込む。

張り込みで、ヨアンは警察学校から優秀な成績でやってきたナディアと組むことになる。ナディアは「わたしは捜査が好きで、事件を調べたり、取り調べも好きだから、現場にいたい。まあ、刑事課の職員は男性ばかりで、その4分の3は、性差別的で居心地はよくない。それにほとんどの事件は、男が人を殺して、男が捕まえる。男の世界ですね」と淡々と述べる。その視線は冷徹であり、ヨアンは無表情ながらも、たじろぐ。

そして、事件現場に来たのはクララの両親だった。泣き崩れる母親に寄り添う父親。娘を失った痛みはそう簡単に癒えるものではない。

本作は2013年のフランスの未解決事件をもとにしたフィクションであり、未解決のまま、映画も終わる。今現在も未解決のままだという。

本作は、フェミニズムというよりは、有害な男性性を男性側がうんざりしながら告発するような構造を持っている。しかし、驚いたのは、この映画を観た日本の刑事たちのコメントである。

「捜査にリアリティがある」と言うだけで、映画の主題である男性社会に対する批判、フェミサイド、警察組織の男尊女卑には誰も触れていない。結局、気が付かない人、特権側は何も気づかずに済むのだな、ということがよくわかった。

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