見出し画像

涙の数だけ強くなれないよ

「涙の数だけ強くなれるよ」と歌ったのは、1995年の岡本真夜である。
(この歌はいい曲)

近頃、苦労を重ね、痛い目にあって、我慢をして、その先によりよい未来が待っているとは、まったく思えなくなってきた。

ひどい目にあったら、性格が悪くなるだけで、人に優しくなどできない。「おまえもこれぐらい我慢しろ」とか言い出す人も結構いる。仕事の苦労自慢も、みっともない気がしてきた。

痛みに耐えることに価値を見出したり、美徳だと考えることも、ちょっと微妙。思考停止と紙一重である。

ただ、若い頃に比べると、ダメージ耐性は確実にできている。「負け」や「失敗」にも慣れ、想定の範囲内ということも増えていく。痛みに鈍感になり、麻痺もしているのだと思われる。他人に対する期待値も下がっていく。

子どものときや若いときは、自分が無知であることも知らず、無駄にプライドも高かった。そもそも、失敗の数も少ないので、いろんなことが怖かった。今は、とりあえずやってみてダメだと思えば退散すればよい、と思えるようにはなってきた。

だから、若者に苦労や我慢を強いる必要はない。おそらく、つらいことや壁は、わざわざ作らなくとも、どこからともなく、彼らのもとにやってくるだろう。

無理して頑張ってよかったな、と思うことも、ほとんどない。なぜ、あのとき、やめなかったのか、闇雲に頑張ってしまった自分が理解できなかったりする。

「我慢をしていない人」と、「わがままな人」「ずるい人」は、イコールではない。わたしはそこを混同していたような気がする。自分を労わり、ねぎらうことが、独善的に見えるのではないか、甘えではないか、まだまだ頑張れる、と自分に無理を強いてきた。そのようにしていると、本当に注力すべきところで、頑張れなかったりして、そこで大きな悔いが残る。自分にとって大事なことを頑張るためにも、おかしなところでエネルギーを無駄に消費してはいけない。

我慢したところで、「あんたが勝手にやっていたことでしょ」と言われる始末で、褒められるどころか、貶されるのが現実である。

今後は「我慢しないこと」を人生や生活の指針にしていきたい。暑さ、寒さ、空腹、睡眠、トイレ、入浴など、全部、我慢しないほうがいい。そのセルフケアができていれば、他人にも優しくできるようになるはず。自分を酷い目にあわせている人間が、他人に優しくなどできるはずがない。そういうことを子どもの頃から教えられ、わかっている人との差はとても大きいような気がしている。

わたしはある種の冷淡さを抱えていて、その原因は余裕のなさから来ていたのかもしれない、と今は思う。でも、そういうことって、実際問題、渦中にいると、なかなかわからない。

戦略的に休んで遊んで、手を抜けるところは、きちんと手を抜いて余力を残して、自分がやりたいことをやれるようにしておく。その積み重ねがあれば、たとえ「やりたいこと」で芳しい結果が出なくとも、「できなかった。やれなかった」という後悔に苛まれることはない。

涙の数だけ強くなれないし、苦労や我慢はできるだけ避けてもいい。もう、自分でコントロールできるのはそこだけだとも思っている。ぼちぼちやっていくべさ。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!