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労働者には時間の決裁権がない

時間の使い方は、自分次第、裁量が天から与えられているとも言える。しかし、本当に時間を自由に使えている人はそれほど多くない。

時間の融通が利くからと、非正規雇用で短時間で働く人もいるが、これはまったく自由でも何でもない。そもそも、シフトが自由で、好きなときに好きな時間分だけ出勤できるなんて職場は存在しない。「人が足りないから来てほしい」と言われ、毎回きちんと断れるだろうか。よしんば、断れていたとしても、次回の契約更新の際、びくびくしないだろうか。フリーランスも、自営業者も然りで、働く限りは、結局のところ、労働者に過ぎないため、時間の裁量はあってないようなものだ。

正社員は解雇規制があるため、なかなかクビにできず、雇用の調整弁にならない、というところで、企業側にとってもリスクとなるおそれのある雇用形態である。もちろん、だからこそ、正社員は精神的にも物理的にも拘束され、それほど自由ではない。

時間の決裁権を持っているのは、極論すれば、経営者、社長、金持ちだけである。ただ、経営者(社長)だって、従業員に振り回されるので、それほど自由はなかろう。

労働者が時間の決裁権を獲得するためには、お金を得て、働かなくてもいい状態、つまり「金持ち」になるしかない。時間は金で買うものなのだ。しかし、毎日が日曜日になったとき、それに耐えられる人はそれほど多くないだろう。

人間は社会的な生き物であり、たいていは消費者の自分では満足できないので、不労所得があっても働いている金持ちはたくさんいる。労働者に擬態していると、ある意味では安全。金持ちであることを売りにしてしまえば、金を使わせようとする人々が群がってくる。そうなれば、人間関係を維持するために、より多くの金が必要となる。

消費を娯楽にするぐらいお金があればいいが、中途半端なFIREだと、ケチケチとした節約生活をする、ただの引きこもりになってしまう。

賃労働から逃れて、時間の裁量権を手にしても、そこに真の自由が待っているわけでもない。職場の利害のある人間関係は、緊張感があり、一定の距離感が保たれるという、良い側面もある。

あっという間に2024年の3か月、4分の1が終わってしまう。年齢のせいか、一つ一つの出来事に対する感覚、印象が薄くなってしまっていることにも驚く。

ただ、世界情勢を見るにつけ、自分が生きていることは単なる偶然にすぎないと心の底から思う。著名人の訃報を見るにつけ、自分に残されている時間があるのかどうかもわからない、と思う。

経済的に自立しない限り、時間は自由にはならない。とはいえ、時間をコントロールできている、という自律的な感覚があれば、満足感は得られるだろう。自己満足度の高い人生を送らないと、もったいない。自分を満足、充足させられるのは、自分しかいない。何かいいことが起こるのを期待してはいけない。

一方、時間の自由は欲しいのだけれど、持て余すほどの自由はいらないと思っている。その塩梅は微妙なものだ。自由がゆえの不自由感は怖いわけで、時間に対する欠乏感が解消されればいいのか。

まずは体力をつけるために筋トレをすべきなのかもしれない。


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