見出し画像

とりとめのない思考

noteの更新を結構頑張ってきた。この記事で215日連続更新。我ながら、よくやっている。

無理やり記事をひねり出すことも多かった。

さきほど、自分の記事を読み返して、「ああ、この頃は、こんなことを考えていたのか」と振り返ることができた。これは素晴らしい。

ただ、更新することや、スキをもらうことが目的になっては、本末転倒である。そう考える一方で、タスクを課さなければ動けない自分がいることも知っている。その気になるのを待つより、仕組みや習慣の方が大事。更新のために頑張るか否かを思案しているところだ。

4月に入り、急に気温が下がり、冷えたのか肩や背中が痛む。

新しい仕事が始まるので、ちょっと緊張していることもある。

平日の昼間に映画を観られなくなることに、今更ながら驚いている。なんて、不自由なんだと(笑)

ただ、無職であった毎日は、毎日が「土日」「週末」という感じで、新たな生活スタイルというほどのものは作れなかった。人間は習慣の奴隷であり、これまでに経験してきたことを反復してしまうのだな、と改めて思う。

自己肯定感を高めることはできなかったが、自己否定や自己卑下をする癖は、少し治ったような気がする。

「わたしの人生なんてクソ」という自分に対する全否定は、あまりしなくなった。それは、そうすることが誰のためにもならないことが自覚できたからだと思う。自分を傷つけている人間は、周囲に対しても、どこかしら攻撃的になるものだ。

大人になれた、というよりは、無駄に生き急ぐことがなくなった、という感じだ。それと、自分自身を意識的に甘やかすことにした。

脱小麦粉のグルテンフリーも、フルタイムで働くとなると、できそうにない。自分の意志の弱さを責めそうになったが、「まあ、いいじゃん」と思うようにした。新しい仕事に疲れて、自炊ができるかどうかわからなかったので、パスタやラザニアといった小麦粉系の冷凍食品を買うことにした。まずは食事を抜かないことが大事。これも甘やかしの一つ。

わたしは、今貧乏であることに不満を持っており、この貧乏を何とかしなければならない、と思っている。しかし、収入があったらあったで、ほかのことを悩んでいるのだろう、と思う。(お金があると、使う額が大きくなるので、もっとお金に対する悩みが深い可能性もある)

そして、自分の行動を顧みると、「成功したい」と願いながらも、どこかでそれを避けているような気もする。わざと失敗したりすることはないのだが、どこかで道草を食っていたり、迂回コースを選んできた。努力できないことの言い訳ではなく、深層心理として、何かがあるような気もする。本質的には引っ込み思案な五歳児の自分を引きずっているのかもしれない。

他人は、それほど他人に興味がない。そして、基本的に他人の成功は腹立たしいものだ。成功して友人が去っていったなどという話もよく耳にするが、その去った友人が抱えてしまった葛藤は「友人の成功に対して嫉妬をする自分に耐えらない」といったものではなかろうか。自分の感情や存在意義を揺さぶってくる他者の存在は面倒くさい。あなたの成功を喜んでくれる人は、あなたを思いやってくれる人ではない。あなたの成功の分け前を何らかの形で受け取れる人なのだ。

人間は不思議なもので「成功しないための努力」をしてしまう。試験前に掃除をしてしまう、といった心理と別ものというよりは、それのロングバージョンかもしれない。

何を恐れているのか。自分をどのようにして守ろうとしているのか。ただ、これも、「日常」だから考えていられることだ。

「日常」はたやすく壊れる。わたしの「日常」を取るに足らないものだと考える権力者がいれば、木っ端微塵だ。

生きること、生活する、という基本をきちんとやるのは、結構大変なことなのだと思う。視野が広くなったというよりは、諸行無常を感じているだけなのかもしれない。

noteを毎日更新するのをやめよう、という記事を書き始めたつもりが、いろんな考えが浮かんできてしまった。アウトプットすると、思わぬことを言語化できる。「書く」ことは大事だ。

チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!