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#映画感想文223『対峙』(2021)

映画『対峙(原題:Mass)』を映画館で観てきた。

監督・脚本はフラン・クランツ、出演者はリード・バーニー、アン・ダウド、ジェイソン・アイザックス、マーサ・プリンプトン。

2021年製作、111分、アメリカ映画。

本作は高校の銃乱射事件の被害者家族と加害者家族である2組の夫婦が、教会の一室を借りて対話を行う、といったごくごくシンプルな作品だ。

しかし、被害者遺族と加害者遺族の対話は、常に緊張感が伴う。部屋の飾りつけ、水を飲むかどうか、ティッシュはどこに置いておくべきか。そのような小さなことに拘泥するさまが描写される。

ただ、この対話の焦点は一つなのだ。事件は防げたものなのか、あるいは絶対に防げなかったものなのか。加害者の行動にその予兆はあったのか、否か。被害者遺族が知りたいところはそこなのだ。加害者遺族は「防ぎようがなかった」「運が悪かった」といった言い訳に終始する。被害者遺族は、親なのに子どもを観察していなかったのか、子どもの異変を察知できなかったのか、と責め続ける。

何が引き金になったのか。心当たりはないのか。息の詰まるような、やりとりが延々と続いていく。

ひとつも新しい情報が引き出せぬまま、時間は過ぎ、解散となる。そして、教会ではゴスペルの練習をしている聖歌隊の歌が聞こえてくる。

何も収穫はなかったのだと被害者遺族が呆然とゴスペルに耳を澄ませていると、加害者遺族の母親だけが戻ってくる。

あの事件が起こる前、引き金となる出来事はあったと涙ながらに母親が語り始める。母親は自らの過失を認めた。もちろん、事件の責任が彼女にあるわけではない。しかし、事件は防げなかったと主張を続けるのと、事件の前兆は確かにあったのだと認めることとのあいだには雲泥の差がある。そして、加害者遺族は知らないふりを続けたかったはずなのだ。その一方、責任を負うことは、ある種の許しを自分に与えることにもなる。母親は被害者遺族と共有することで苦悩から(もちろん部分的なものではあるのだが)解放されたのだ。この映画の救いはそこにある。

父親が責任を回避し、息子の過ちを直視できない弱さも同時に描かれている。

二つの家族が癒されることはない。ただ、「わたしたちに過失はなかった」と強弁される苦痛から、被害者遺族が逃れることができたことは、ある種の救済となり得るだろう。

わたしは無宗教の無神論者なので、苦しいときも、やり過ごすしかない。自分より何か大きな存在を拠り所にできる人たちが、ときどき羨ましくなる。アメリカ社会における「教会」の役割、その存在の大きさを再認識させられる映画でもあった。

教会スタッフの要領を得ない仕事ぶりが、教会が特別な場所であり、誰でも行ける場所であることを示唆するものであったとも思う。


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