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知性と親しみやすさの狭間で

知性の反対語は「バカ」なのか??とふと考えてしまった。

私にとって知性の役割は、窮地から身を守り、他人の話に耳を傾け想像することであると思う。同時に、ユーモアを考え出す力でもある。とにかく知性がなければ、人間は枯れてしまうし、騙されもする。

では、知性をどうやって身に付けるかという話になる。あるいは知性を備えた人物はどんな風に映っているのか。。

こういう人がいる。自分だけがよく知っている(よく使っている)ことばで語る人だ。たとえば、中学生にわかることば、漁師にわかることばではなく、自分と同じ世界にいる人にしかわからぬことばを必死に説明しようとする人だ。かくいう私もたまにそういうことをしてしまうので、気をつけている。

反対にこういう人もいる。さまざまな世代、職業のことばを適切に使い分ける人だ。頭の回転が早いのかな、とても尊敬する。

私は営業職として働く身で、なおかつ接する先の職種が多様すぎるので、ことばと話し方の使い分けは、とても大事なテーマである。

とにかく伝わらなくてはいけないクリティカルな状況が現実には多すぎるし、自分の事情を的確に相手に説明しないと仕事にならない場合が多いので、試行錯誤の連続だ。

仕事を離れたところでも、やはり人とはわかり合いたい。完全には無理だけど、わかり合おうとする入り口くらいは突破したい。特に同世代の人とは余計に。

しかし同世代の男女に対する、昨今の認めざるをえない印象がある。明らかに「知」を敬遠している。「知」を持っているのに隠したり、小さく見せようとする。(大きく見せる人もいることは知っているが、個人的な感触として減少傾向にあるように感じられる)

思うに、ちょっと隙がある(何かを知らない)人は親しみやすいから、意図的にその隙をつくろうとした結果が、「知」が少ないかのように振る舞うこと、なのではないか。

故・橋本治氏は、『知性の転覆 日本人がバカになってしまう構造』(朝日新書/2017)の中で、「知性」と「親しみやすさ」のことを「大学出」と「ヤンキー」と定義している。でも、橋本氏が定義しているほど、私にとっての「親しみやすさ」は「知性」の対極にある概念ではない。

要するに何が言いたいかというと、私は両者のバランスを取ろうと試みたいのである。というか日常的に試みているのである。

「親しみやすさ」とは、異なる人々の間に挟まるクッションのような意味合いで、温かみのある存在としてイメージしている。

たとえると、ものすごく難しい内容を、誰にでもわかりやすいことばで、かつユーモアたっぷりに表現すること。

たまに、神の巡り合わせか、もうびっくりするくらい「話が通じる人」に遭遇することがあって、そんなこと一生にそう多くはないわけで、もう嬉しくて嬉しくて、時間も忘れて話してしまうの。

「なんで、この人、私と同じ考えを私と同じ言葉で、私が言う前に言っちゃってるの!?」って思うの。そういうことが起こると、嬉しくて嬉しくて(2回目)ハードカバーとか古典をたくさん読みたくなってしまうの。

こんなご時世で、図書館もやっていなくて、もはや気力があまりないけど外にもそんなに出られなくなってきたので、今こそ、むずかし〜い本を読むしかないわけで。

無意識に、『国富論』(アダム・スミス著)を心の底から読もうと、いやもう細胞のレベルで欲しているようだった。同著について、語り合いたいな〜、語り合うことのできる人が、同年代(身もふたもないけど男性…)にいたら良いのにな〜、と思う。

The Beatlesの各アルバムについて、語り合いたいな〜。

カズオ・イシグロについて、語り合いたいな〜。

寄席について、落語について、日本文化について、語り合いたいな〜。

『魔の山』について、語り合いたいな〜。

ノブレス・オブリージュについて、語り合いたいな〜。

POPEYE(マガジンハウス)*について、語り合いたいな〜。

チトーの死と、東欧と、ゴルバチョフについて、語り合いたいな〜。

いたら挙手して欲しいですね、もし、いるのであれば。

だいぶ脱線したけれど、知性をひけらかすことなく、でも隠すこともなく、持ち合わせていたいと心がけるし、すでにそれを実践している人を真似していきたいと感じた今日だった。

とはいえ、親しみやすさが行きすぎると、話がまるで噛み合わぬ人とばかり過ごすことになるので、やはり難しい。「類は友を呼ぶ」のだろうか?問いかけは続く。

* POPEYEのような男性誌が好きすぎて、性別的に違うのにそこに載ってる服までもが好きで、マガジンハウスに就職したかった時期をベースに記述しました。

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