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【感情の因数分解 #1】好きと嫌いのカクテル、サディズムとマゾヒズムのラテ

 新シリーズを書き始めようと思いました。これはマガジンの中に収録し、できるならば書き続けていきたいと思っています。

 さて、タイトルの通り、このシリーズでは『感情の因数分解』をテーマとして書き連ねて行こうと思います。第一回は『好きと嫌いのカクテル、サディズムとマゾヒズムのラテ』と題し、主に誰かが誰かに対して(無機物は対象としません)、強烈な感情を想起したときについてつらつらと書いていきます。

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 巷では、毎日どこかで誰かが(インターネットにしろ現実にしろ)炎上しています。芸能人が不倫騒動を起こせば週刊誌のスクープ記事に書き起こされ、たとえ著名人でなくても、言葉足らずのツイートによって過剰な賛否両論が湧き起こり、あらゆる他人同士が生々しい感情をむき出しにしてぶつけ合っています。

 炎上は不特定多数の”嫌い"を呼び寄せた結果によるものです。(インターネットであれば)投稿を見た誰かが、それは間違っている! という強烈な正義感やエゴイズムを共有し、似たような批判(行き過ぎると誹謗中傷)のコメントやリプライを次々に書き連ね、誰も彼もが嫌いだと書き込みます。アルコールで酩酊しているかのように、我慢を忘れた人間たちは我先にと順番を待たずに書き込みます。その際に、傍から見ている限りなら、出ている杭が打たれているように見えたりもします。

 一方で、まったく反対に、ファンがたくさんいるインフルエンサーや芸能人もいます。コアなファンにしろカジュアルなファンにしろ、ファン達は特定の一人(もしくはグループ)に対して"好き"をかき集め、直接書き込んだり、そののち反応を待ったり、"好き"を集めた者同士で二次創作に興じたりします。"好き"は共有され、増幅され、あまつさえファンでなかった人間に感染(インフルエンス)したりします。その様はさながら感染力の強いウイルスのようで、伝言ゲームや風評被害と同じく、言葉や画像を使った情報を触媒として、元の意思を無視しして独り歩きし、どんどん成長していきます。共感した人間たちは同じテーブルにつき、ほとんど同じ感情を摂ります。「美味しい店が口コミで広がる」といった現象はこのように起きます。

 炎上とインフルエンス。二つの活動に、感情の動き方に限定したとき、なにか違いがあるでしょうか? どちらも特定の人間に強烈な感情を抱き、行動せずにはいられなくなり、それに他人を巻き込んだり、反対に巻き込まれたりしています。

 たとえ矢印の方向が真逆であっても、実は二つの矢印は双方にとって延長線上にあり、どちらも同じ"強烈な感情"に向かって走っています。この記事も炎上やインフルエンスに対しての感情の分析を書いているものなので、なんらかの強烈な感情によって起こされた行動の一つにしか過ぎません。そういう見方をすれば、行動のほとんどの源であるとすら言えます。

 たとえば幸せな結婚式を挙げ、素敵な新婚生活を送れば、誰かに自慢をしたくなるし、レジで接客をしていて理不尽な叱られ方を顧客にされたときには、それに対する不満を同僚に愚痴りたくもなります。ギャンブルで数万円勝ったときには、気分を良くして無条件に友達にご飯やお酒を奢るし、なんの前触れもなく使っていたスマートフォンが壊れたときには、呆れや悲しみ、怒りを含めて、面白おかしく家族にぶっちゃけたりします。
好きと嫌い、二つの感情は、その方向性は違えど、振れ幅という点でみれば同じであり、例えるならメトロノームの両端のように、扇状に広がっているように解釈もできるのです。本質的に好きと嫌いは水と油ではなく、カクテルにできるような、似た類の材料です。

 好きの反対は嫌いではありません。好きと嫌いは同じなのです。

 二つが同じであるように、サディズムとマゾヒズムは酷似しています。
サディズムは誰かを貶めることで快楽を得ること、マゾヒズムは誰かに虐められることで快楽を得ることだと、簡単に解釈します。

 サディストは、誰かを肉体的にしろ精神的にしろ一方的に痛めつけ、悶え苦しむ姿を見ることに愉しみを見出します。この際、重要なのは、相手がどれだけ痛め付けられているか想像しているところです。こんな風にされたら痛いだろう、こうされたら苦しいだろう。しかしこのラインを越えたら命の危険になる。そうやって相手の気持ちを想像して、ほかでもない自分が相手のことを苦しめているのだという愉悦を貪ります。
一方でマゾヒストは、誰かに痛め付けられ、自分が苦しむことで快楽に溺れます。二つは相反しているように見え、まったく逆の特性であるかに見えますが、しかしマゾヒストも、サディストと同じように、相手がどんな気持ちで自分を苛めているのか想像しています。一見すると人間の内側で起きているように見えるサド、マゾは、その実社会的なタチであり、高度なコミュニケーションが必要な、相手がいないと成立しない真に外交的な性癖であるとすら言えます。

 サディズムとマゾヒズムはコーヒーとミルクのように、混ぜることで新しい飲み物になります。二つの性癖は等しく苛める(られる)相手が必要であり、相手への想像力が欠かせず、ステアすることで初めて名前を得ます。

 好きの反対は嫌いではありません。好きと嫌いは同じなのです。無関心ですら好きの反対とは程遠く、感情の食卓に並んですらいません。同じ性質をもち、カクテルにし得る二つの感情は、比較対象にもなり得ません。サディズムとマゾヒズムは似たタチで、二つがラテになることを考えれば、ひとたび感情の食卓に並んでしまえば、それがどんな感情であるかは大して重要でないことは自明です。どんなに相手のことが好きなストーカーでも、どれだけ相手のことが嫌いなパパラッチでも、行動は似通い、側から見たときに違いはありません。

 感情に表裏はありません。どれだけ丹念に好きを裏返えそうとも、嫌いにはなりません。ポジティヴの反対にネガティヴは位置していません。感情のリキュールは等しく同じ位置にあり、アルコールの度数が高いか低いかの違いはあれど、それが肴になったりはしません。それらがリキュールであることに変わりはないのです。

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