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【読書感想文#2】小川さゆり、宗教2世/小川さゆり

こんばんわ、都落ちニキです。

前回の村田沙耶香さんの「地球星人」に続いて、2度目となる読書感想文を書いていきます。

今回読んだ本はこちら


小川さゆりさんが書かれた、「小川さゆり、宗教2世」という本を。

首相襲撃という衝撃的な事件を発端とし、この国で存在が露わになった「統一教会」という組織。
この宗教団体を取り巻く諸問題を、2世としての実体験をもとに、赤裸々に告白した本です。


【この本を手に取ったきっかけ】


僕はもともと宗教には興味があった。
大学時代で宗教学を受け、キリスト教やユダヤ教などのメジャー宗教に興味を持ち、海外に足を運んだことがあった。
その後、村上春樹さんの「1Q84」を読んで以来、新興宗教、さらにはカルト宗教にも興味を持つようにもなった。

その中で、もちろん「統一教会」の存在も認知をしていた。

当時から、有る事無い事、事実なのかどうなのかも怪しい情報が闊歩し、いろんなことが噂されていた。

だけど、あの衝撃的な事件を経て、それが本当だったと思った。

被告の発言や犯行動機からも推測されるように、
何なら噂なんかよりも、よっぽど闇が深く、問題は深刻だった。

政治とのつながり、信者からの搾取、その子供らによる報復。
まるで世の中の悪いことを全て詰め込んだ問題であると感じた。

この本は、そうした悲劇を繰り返さぬよう、
著者の小川さゆりさんが告白を行なった本だ。

この本が発売されてから、約1年。
事件当時は連日世間を賑わせていた統一教会がらみの話題だが、今はなりを潜めてしまっているが、その壮絶な実体験を、僕はこの告白を知る必要があると思った。

そんなわけで、僕はこの本を手に取った。

【読む前の印象】


我が国におけるカルト教団といえば、オウム真理教があげられるだろう。

その余りにも大きな影響のせいで、「宗教」というワードに拒否反応を起こす日本国民は少なくない。
僕が大学で宗教を学び、実際に宗教の発信地である欧州を訪れるといった時も、家族や周りの人の反応は芳しくなかった。

国家神道と仏教が織り混ざり、クリスマスやハロウィンも独自解釈を施して楽しみに昇華する。
なんともガラパゴス的なこの国において、特定の宗教に対して信仰心を大に掲げることは、おそらく肩身が狭い。

それでもなお、一つの宗教に対して、熱心に、あるいは盲信的に信仰を続けている人がいるということが、驚きだった。

そんな中、今までそこまで極端にクローズアップされてこなかった、「2世問題」に焦点を当てたこの本に対しては、
率直に
「一冊の本にできるほど、そんなに色々とあるのか」
という印象を持った。

帯のタイトルにもあるのだが、
「神の子 じゃなく私として生きたい」
とあった。

彼、彼女たちは普通の人間として扱われてはいなかったのではないか。
そんな印象を持っていた。

【統一教会というカルトについて、2世に対して思ったこと】


以前から言われてきたことだが、宗教、もといカルトというのは信者から金を巻き上げることで存続している。
耳障りのいい事を言い、あたかも本当のことのように思わせる教義。
周りの人間をうまく使い、一人の人間を陥れる。
信じた人が、また信じる人を作り出すシステムを構築することで、その規模を大きくしていく。

いわばビジネスである。

トヨタだって、車を作り、売り、評判が上がり、また誰かに売れ、という繰り返しを経て、あれほどの企業になった。

仏教にとっても、今もなお結構な日本人世帯が、お布施という文化を当たり前だと思い、念仏に対する対価としてお金を払っている。

国家神道、いわゆる神社にしても、お賽銭やお守りの販売、結婚式まで、お金を稼ぐ手段を確立している。

本を読み終えた今でも、この団体は間違ったことをしているのだろうか?と思う節はある。

ビジネスとして捉えれば、この団体のしていることは利益を最大化する上では適切なやり方をしていると言えるかもしれない。
運営側のその手腕には畏怖の念すら覚える。

だけど、そこに明確な違いがあるとすれば、
「度が過ぎている」
ということだ。

適切な規模で、まともな方法で運営をしていれば、その教義は誰かの勇気になり、拠り所になったであろう。

だがこの教団は、信仰のための体罰を正当化し、献金という搾取をノルマとし、信者の価値観そのものを歪め、変えてしまった。
やり方はまるであのテロ集団であるオウム同じである。

僕としてはカルトについても、それを信じる人についても、特に何も思わない。
その人が信じ崇め、拝んだものであるから、他人がとやかく言うものではないと、心から思う。

だけど、子供にとってはどうだろうか?

生まれた瞬間から教義を教え込まれ、親がそうだから、私もそうするのが普通。
そしてそれが普通になっていく。

そしてその普通は、社会性を育んでいく上で、かなりの悪影響を及ぼす。
現に筆者の小川さんは、それに悩み続け、おそらく今もそれと悩み戦っているのだ。

これはきっと「子は親を選べない」という言葉に収束するだろう。
幼少期の体験や思想というのは簡単に抜けるもではない。

僕たち日本人の大多数が、ご飯を食べる前に「いただきます」という言葉を発する事をやめられないように、統一教会信者の家庭で育った子にとっては「天の御父母様、真のお父様、おはようございます」という言葉は日常的なのだと思う。

僕はこの「子は親を選べない」ということに対して、やりきれなさ、無力感を覚える。

筆者も言っている通り、日本のルール、すなわち憲法や法律では、現時点で2世の子を救うことができない。

それほどまでに、誰かを救うというのは難しいのだ。

【何かを信じるということ、崇めるということ】


本を読んでいく中で第一に思ったことが、
「なぜこんなにも、何かに盲目的になる人がいるのだろう」
ということだ。
だけどその想いは、本を読んだ後に思い改まった。

僕は宗教的にこのような心理になったことがない。

憧れや羨望はあっても、特定の誰かを熱心に崇拝することはなかった。
ナチスを蔑み、オウムに哀れさすら覚えた。

だけど代わりに、僕は今、お金に執着している。いわゆる拝金主義だ。

僕という人間は、経済的な脆さを抱えている。
だからこそ、お金に対しての執着を隠しきれないし、
お金が全てだとは思いたくないが、お金が全てだという感覚は常に持ってしまっている。

これと同じように、信者たちは「拠り所」を求めていた。
皆、傷つき、疲れていた。

筆者が最後に語ったように、信者たちは心の拠り所を求めていた。
実際に、信者たちは優しく、穏やかであった。
傷ついた人間にとって、これ以上ない安心感のある居場所となったのだ。

僕がお金を求めるように、信者たちは居場所を求めた。
労働をしてお金を稼ぐこと。
信仰をして安心感を得ること。

そこには一体どれほどの違いがあるのだろうか?

何かに縋り、盲目的になることは誰にだって訪れることなのだろう。

【小川さんの奮闘】


先にも述べた通り、宗教についてを完全に否定することはできない。
だからこそ、筆者の小川さんの思いは計り知れない。

自分が幼少期から教え込まれ、親しんできたものを。
さらにはそれに救われた面もあったのだから。

その宗教団体に対して声を上げるということは、今までの自分の生い立ちから今に至るまでを否定することになるかもしれない。

過去の自分を顧み、問題を分析をするという行為は、人間にとって難しいことだ。

けれども、あくまで信仰という行為に対しては、否定をしていないのが、小川さんの凄さだと思う。

さらには、両親に対して思うところも語っている。
両親から受けたものはそれが全て教義からくるものだったのかもしれないと。
たった一人の、あなた達の子供として、認識されていなかったのではないかという恐怖と。
だけど、たとえ、両親から受けたものが本物であろうが偽物であろうが、それ自体は間違いなく事実だったと思う。

だからこそ、平然とやり過ごす団体に対して、資金を受けとっていた政治に対して、憤りを隠せないのだろうということは容易に想像できる。

他人である僕がいうのもおこがましいが、小川さんの過去から現在に至るまでの人生は、壮絶そのもだと思う。

それでも、最後の締めくくりとして、
「恨むのではなく許したい」
といった、小川さんの寛容さと勇気には、思うところがあった。

【この記事の終わりに】


「ねえ神様 あなたは何人いて 一体誰が本物なの?」
Mr.Childrenの「さよなら2001年」という曲にこんな一節があった。

まさにその通りだと思った。
百人いれば百通りの信じるものがあるのだ。

宗教に限らず、人は何かに縋る生き物なのだと思った。

僕だって、何かに縋って生きている一人なのだと思い知った。

この本は、統一教会の2世としての実体験の記録だけではなく、
自分自分の縋るものに対しての見方を再認識させてくれるものだった。

この宗教2世の問題が、これから先どうなっていくかについて、より注意深くありたいと思った。


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