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高度1億メートル 08

Before…

【十三】

「イロドリ…?」
 彼が不意に流した涙が、事態の深刻さをそのまま表していた。雲一つない透き通った青空が嫌味たらしく見える。
「すんません、僕も正直嬉しいんですけど悲しいんす。とりあえず一つ確認したいんですけど、」
 一つ呼吸を挟んで、続いた言葉。
「昨夜姉ちゃんのとこ行った時、二回ともジャンプで行きました?」
 不穏さが増す中で、真実を返す。
「いや、一回目は会いたくて飛んだけど二回目は寝落ちした時の夢ん中だった。」
 イロドリの瞳がまた潤いを帯びる。
「やっぱりそうですよね。実は僕でも、一日に二回あすこへは行けないんす。これの何がまずいって、ヒイラギ兄さん夢と現実の区別がじきに無くなると思うんです。姉ちゃんは、ある種イレギュラーな存在なんですけど、ヒイラギ兄さんはそうはなれないんすよ。というか、なってほしくない。」

 イロドリ、セイラと出会った頃からの自分を振り返る。心当たりは少なからずあったが、特に昨夜から今朝にかけてだ。一度目の後、夢か現実かが分からなくなっていた。原付を走らせて朝風を浴び、冷水をかぶってようやっと現実だと分かった。そして、眠りの中で意識は攫われた。
「イレギュラー、ってどういうこと…?」
 イロドリは煙草に火種を灯した。
「それは、姉ちゃんから直接口止めされてるんで僕からは言えないです、すんません。ただ、ヒイラギ兄さんにはさっきのお友達さんとか、家族いますよね?」
「そりゃぁいるけど…。」
「だったらなおのことっす。これ以上、こっちの世界に足を踏み入れちゃいけない。」
 俺も煙草を咥えて火を点けた。吐いた紫煙に走馬灯が映った気がした。お袋、親父、妹、友人、イロドリ、そしてセイラ…。
「でも、どっちかを選べって言われたら俺はセイラを選ぶ。ダチも家族も大事だけど、一番はセイラ、次にイロドリなんだ。それくらいこの数日は充実してた。お前ら双子とずっと過ごしてぇんだよ。」
 イロドリが煙を吐いた時、一瞬突風が吹いた。その風は煙と一緒に、彼の煙草の火種をも吹き飛ばしてしまった。
「そうっすか…。めっちゃ嬉しいっす。少し僕のことについて説明します。姉ちゃんのことには深くは触れられないけど。」

【十四】

「僕と姉ちゃんは知っての通り双子でした。姉弟仲良くずっと過ごしてきました。でもある日、姉ちゃん失踪したんす。両親も最初は友達のとこかどっか行ったんだろうって思ってたらしいけど、三日目になって流石にどこ行ったって騒ぎになったんです。結局行方不明のままで、行きそうなところ全部探してもどこにもいなかった。僕は悲しかった。たった一人の姉ちゃん。ずっと二人で、二人三脚みたいに過ごしてた。同級生からも仲良いねって笑われるくらい。」
 イロドリが新しい煙草に火を点け、話を続けようとする。俺は既にもう耐えられなくなっていた。何に?分からない。分からないが、何かの限界が目前に迫る。
「ちょっと待ってな、飲みもん買ってくる。イロドリ、何がいい?」
 誤魔化すように切り出した。何を誤魔化すのだ?
「すんません、お言葉に甘えます。ココアをお願いします。」

 珈琲とココアを買って、ココアをイロドリに渡して俺も煙草を吸った。
「続けますね。姉ちゃんいなくなって何ヶ月経ったか忘れましたけど、結局見つからなくて捜索は打ち切りになりました。ある日、夢枕に姉ちゃんが出たんです。」
 ふーっ、と一息挟み、彼は姉の話を続ける。
「姉ちゃんに会えて、すっげぇ嬉しくてボロ泣きしました。姉ちゃんはすっげぇ謝ってました。そして、あの場所への行き方を教えてくれた。半信半疑だったんですけど、僕は夢と現実を繋ぐことができるようになりました。でも誰も信じてくれなくて、姉ちゃんに会いたいって人に説明しても誰も一緒に行けなかった。だけど、ヒイラギ兄さんが来れて、初めて自分の役割を自覚しました。そして、今は後悔してるんす。」
 後悔。後悔?どうして?セイラと過ごせて、俺はすごく幸せなのに。セイラのあの微笑みは嘘?だとすれば、俺は…?
「セイラは、このことどう思ってんだ?」
「姉ちゃんは嘘は絶対に言いません。誰よりも嘘が嫌いな人ですから。だから、ヒイラギ兄さんと過ごしてる時は素直に幸せだと思います。だからこそ、あの日連れていくべきじゃなかった。一度味わった幸福が切り離されると、一層辛くなるんすよ。ヒイラギ兄さんは、こっち側で過ごせない。素直に現実で過ごして下さい。本当、ごめんなさい。僕も会えて、一緒に過ごせて楽しかったです。」

 俺の煙草が消える前に、彼は足早に去ってしまった。

 悶々とした一日になった。求人を眺めていても、三連続で落とされたのもあって(どうせダメだろう)と応募する気力が失せる。何より俺の気力を奪ってしまったのはイロドリの告白だ。蒼天に照らされた部屋が徐々に橙色になり、そして暗くなる。いつの間にかスマホも見ずに天井をぼーっと見ていた。食欲も無い。夕飯に呼ばれたが断った。部屋が完全に暗くなった時、半ば呆然としながら歩いてコンビニへ行った。いつものプリンが二つ残っていたが、手に取ろうとした時に先に近くにいた女性が一つを買い物かごに入れてしまった。残った一つだけを買って、裏で一服してから飛んだ。イロドリの忠告を、破いて。

Next…


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